1、森の中の僕
「かえして!!」
僕はあらん限りの大声を出した。
けれども、彼は「関係ねーよばーか!」とばかりに、というか実際にそんなつたない罵倒を僕に浴びせながら僕の真新しいそろばんを奪い、それをまるでスケートボードみたいに華麗に乗りこなして、シャー!と廊下を行ってしまった。
鼻がツン、となって、目頭にジワリと熱が集まる。きっと、僕の顔は今真っ赤だ。
ああ、どうしよう、またお母さんに怒られるじゃないか、とか。
そろばんにそんな斬新な使い方が!?ちょっと面白そう!とか。
あれ、でも良く考えてみたらあれはどうやったら乗れるんだろう、こけちゃうんじゃないかな、とか。
でもあれ絶対ぼろっぼろになるよね、なんで自分のでやらないのかな、ああ、ボロボロになるのが嫌なのか、とか。
口惜しさをベースに、いろんな感情が僕の内側で混ざり合っては溶けていって、涙となって溢れてくる。
さっさと追いかければよかったけれど、僕の足じゃあ、シャーと行ってしまった彼に追いつくのは到底無理だったし、なにより、たぶん明日の朝には、あのそろばんは僕の机の上に帰ってくる。
まあ、ボロボロのぼろっきれになって、帰ってくるのだろうけれど。
アレはいじめとかじゃない。彼なりに僕を構っているのだ。…たぶん。そう思ってなきゃ、やってられない。
僕は「はあ」と大げさにため息をついて、ランドセルを背負いなおした。
早く帰らないと、お姉ちゃんにテレビ取られちゃう。
そんな小さい焦りとともに、僕はシャー!と走り去った彼に背を向け、下駄箱に向かった。
思えば、このときに、いじめっ子な彼を追いかけていたら、僕はもっと、ずっと、僕の常識の範疇で"普通"の生活をしていられたのかも知れない。
目の前に突如広がったうっそうと茂る森をみて、僕の中の冷静な僕が、小さく小さく囁いた。
+++
夜の森は、歩いたら危険だからダメなんだって。
そう、僕に教えてくれたのは誰だったろう。マンガ好きのお姉ちゃんかもしれないし、ニュース番組をみたお母さんだったかもしれない。
どっちでもいいけど、教えてもらった時僕はどんな反応を返したのか、もう覚えてないけれど、たぶん「ふうん」と気のない返事をしたような気がする。だって、全然興味なかったし。
けれど、今ならわかる。夜の森は、なるほど不気味な雰囲気で、いかにも危険がそこらじゅうに散らばっている風だった。
たとえば今僕が足を引っ掛けた、木の根っこみたいに。
僕は、ぐずっと鼻を鳴らした。
アレから僕は、目の前に広がった森を抜けようと、とにかく必死で歩き回った。
ぎゃあぎゃあとカラスよりもうるさい鳴き声で頭上を通り過ぎる大きな鳥の影が怖くて、時々カサリとゆれる茂みが怖くて、とにかく怖くて、怖くて僕はひんひん泣きながら歩き回った。
大きな声はなるべく出さない。疲れるに決まってるからだ。
というか、口をあけたらそこから力が抜けていって、へたり込んじゃうんじゃないかって、動けなくなっちゃうんじゃないかって、そんな怖さもあった。
だから、遭難したらなるべく最初にいたところから動かない、という登山のお約束を思い出したとき、僕はサアッと真っ青になったのだけれど。
動いてしまったものは仕方がない、と僕は僕を奮い立たせて、ランドセルを背負いなおした。カション、と中に入った教科書とノート、筆箱が揺れる。
といっても、今日は土曜日で3時間目までしかなかったから、入ってるのは国語と算数の教科書とそれぞれの教科のノートだけだ。
重くなくて心底良かったと思う。
ぐぎゅる、ぐぅぅ。
切なそうに震え泣き叫ぶお腹を一瞥して、僕は小さくため息をついた。お腹、めちゃくちゃすいた。
家に帰ればお昼ご飯という時間から、日没の今まで、僕は何も口にできていない。
学校にお菓子なんて持っていけないし、今日は土曜日だったから給食もなかったし。本当にほんとうに、何も口に入れてない。
僕は、僕の中の知識を総動員して、せめてお水だけは見つけて飲まなくちゃ、と必死になった。
僕にはこの森で何を食べていいかなんてわからないし、マンガの主人公みたいに自力で獲物を(たとえばウサギなんかを)捕まえる自信はない。
たとえ捕まえられても、どうやって食べていいのか判らない。知らなくて、わかんないことだらけだ。
でも、けれど、確実なのは、明日の朝までに飲み水を見つけられなきゃ、僕は死んじゃうだろう、ってことだ。
ヒトの生死を分けるのは、72時間。そんな特別番組を、僕はそこそこに見たことがある。72時間、つまり、3日間。けれどその3日間っていうのは、水があったとか、食料があったりとか、何らかの救済があった場合だけだ。
それ以外のヒトはきっと、3日間だって生き延びられない。小学生の、ほんのがきんちょの僕なら、なお更だ。
ガサガサと茂みの通れるところを掻き分けながら、僕は必死に前に進む。
ランドセルがつっかえたりして大変だったけど、その辺にほっぽったりはしなかった。
ランドセルは、死んでしまったおばあちゃんが買ってくれたもので、小学校に上がってから4年間ずっと大切につかってる。
最近の流行からはちょっと外れた昔ながらの真っ黒なランドセルは、車に轢かれた僕だって守ってくれたこともある、頼りがいのあるやつだ。
きっと今回も何かから守ってくれるんじゃないかな、と思う。
そう思ってから、ランドセルに守られるような状況になるのはいやだな、と僕は口をへの字に曲げた。
+++
僕は馬の背にまたがり、ひたと、前を見据えていた。
眼前に広がるのはうごめく数万の何か、いや、アレは、敵の騎馬隊、だ。
『―――さま』
名前を呼ばれ、僕は振り返った。
先にいたのは僕のお父さんと同じぐらいのおじさんで、そう、このヒトは、右翼陣大隊長の…名前、名前は…。
『エクトゥリア、苦言でも言いに来たのか』
僕の口が勝手に、僕ではない声をつむぐ。エク…なんとかさんは、僕の視線に少し怯んだようだったけど、しっかりと僕を見据えたあとで「いいえ」と口にした。
『此度の戦は、貴方さまがお決めになったこと。我ら騎士団はそれに従うまで』
『…たいした忠誠心よな、いっそのこと』
謀反でも起こしてほしかったのに、といおうとした言葉を飲み込んで、僕の口は『いや…』とよくわからない否定を口に乗せる。
別の話題を振ろうと僕が口を開いたその瞬間に、ざわめきと馬のいななきが重なって、僕と目の前の彼の注意を左側に吸い寄せた。
見れば既に戦闘は開始されているようで、遅ばせながらも金属と金属のぶつかる、あの独特な音が耳を劈く。
僕はそれを目の当たりにして、グアッと全身に血が上った。
『アルマクツィート…!! あやつ、開戦の合図を無視しおった!!』
『流石は蛮族共、といったところでございましょうな。アレは先駆けでありましょう…いや、しかし、』
ふ、と言葉を詰まらせたエクなんちゃらさんは、チラリと視線を後方に流してから『わたくしめも配置に戻りまする』と恭しく頭を下げてカパラッと馬を走らせて行った。一人残された僕は、頭に血が上ったまま、むすりと眼前を見つめる。
左側から響く怒号と悲鳴が、だんだんと大きくなって、そして、そして…。
ぱかっとまぶたを開けた。何か夢を、みていたような、そうじゃないような。
しばらくボウッとしていたけれど、頬に当たる冷たい土がちょっとだけ気持ち悪くて、僕はよろよろのろのろ体を起した。
あの後、僕は森の中を夜通し歩いてみたけれど、結局水は見つからなくて、あんまりにも疲れていたから、とにかく座って体を休めようと木の根っこの間に腰を下ろして、ランドセルを枕にそのまま眠ってしまったらしい。
僕はとりあえず、ランドセルはそのまま木の根っこに置きっぱなしにして立ち上がった。
疲れは全然取れてない。足がガクガクと震えていて、全然力が入らない。
喉は渇きすぎたのか、カラカラを通り越して、まるでのど風邪でもひいたみたいにイガイガと痛かった。
ケホ、と空咳をしてあたりをキョロリと見回したけれど、朝もやが酷くてあまり物が見えない。
ピチャン、とつめたい何かが僕の鼻の頭に振ってきて、僕はビャッと飛び上がった。
バクバクドキドキと飛び跳ねる心臓を深呼吸で整えながら、僕は恐る恐る鼻の頭を触る。
冷たい、液体…水?
僕はバッと水らしきものが降ってきた上のほうを見て、木の葉っぱがキラキラと輝いているのに気がついた。
なんだっけ、ええと、夜露?朝露?それが光っているらしい。
ハッとして、僕は茂みに目を移した。茂みの葉っぱもキラキラと露がたまっていた。
僕は膝をついて、葉っぱにゆっくり顔を近づけて、露が零れないようにちゅう、とすすった。
青臭い葉っぱのにおいが鼻を通り抜けて、唾液ではない冷たい液体が僕の口の中を湿らす。
飲み水には全然足らなくて、喉はまだ痛いけれど。けれど、水だ。お水だ。ああ。
ぐずぐずと泣きながら、僕は夢中になって茂みについた露をすすった。
すすりながら茂みの中をガサガサガサガサ移動して、僕は
ザザザザザザーーーッ!!!
「あっ!! うっひっあぁあぁあああ!!」
僕は、ほぼ垂直の斜面をお尻から、滑り落ちた。
主人公泣きすぎである。