其の玖拾弐:女の狙い
「え……女の人?」
雷馳同様、その品の良い女に戸惑いを見せる爛菊へ、鈴丸が口にする。
「いや、こいつは人ではないよ。人に化けているだけ。実際、この女から邪悪な妖気を感じるでしょ?」
まだ年も短い雷馳と、半妖でしかない爛菊の二人は思わず見た目と雰囲気だけで、混乱させられる。
「……」
千晶は無言でその女を睥睨している。
「ここにお客がいらはったんは、いつ以来でっしゃろう……うちは大歓迎どすえ」
女は下唇に小指を当てながら、穏やかな口調で述べる。
「お母さんがここにおるはずじゃ! お母さんはどこじゃ!!」
雷馳の言葉に、女は小首を傾げる。
「お母はん……? はて、うちには御子持ちんおなごはおらしまへんけど」
「じゃがここにお母さんの気配を感じるのじゃ! わしには分かる!」
必死に喚く雷馳。
これに冷静な口調で千晶が付け加える。
「朱夏のことだ」
「へぇ、朱夏はんどすか。しゃあけど、ホンマにあんお人に御子はおれしまへんけど……」
「義理だ。種族こそ違うが、朱夏とこの子供は今や親子の関係になっている。だからこの子にとって朱夏は、母親になる」
「それはホンマですのん。せやけど朱夏はんは、元々うちが使うてる下僕なんどす。うちの許可なしに、手ぇ出さんといてくれはりまへんか?」
「つまり、ここの入り口にいた連中の一人だったと言うわけか。だが――」
千晶の言葉を遮って、鈴丸が声を大にする。
「朱夏さんは自分からうちに来たんだよ!?」
「うちの縄張りへ勝手に入ったんはそこのぼんや。ほんで更に勝手にうちの下僕を連れはったんやから、うちかなんわぁ」
「朱夏はお前にとって、さっきの捨て駒妖怪と同じ扱いなんだろう?」
「ほうや。ほいで何や問題でもあるんでっしゃろか?」
女は困ったように薄っすらと笑う。
「お母さんを返せ! お母さんはちゃんとした一人の妖じゃ!」
雷馳の抗議の言葉に、女は一瞬キョトンとしたがすぐに、肩を揺すって愉快そうに笑い始めた。
「あんな下賤妖怪如きが大切な命やと? フフフフ……たかが姑獲鳥が。そんで返せ言わはりましても、せんぐり言うように本来はうちのもんやさかいなぁ。うちはただ取り返してもろただけどすし。せやけどまぁ、ようも人間臭ぅしてくれはったもんや。迷惑なんはうちどすえ?」
「何じゃと……!?」
歯ぎしりとともに雷馳は怒りの表情を見せる。
「朱夏さんは、今はもう爛達の大切な仲間なの。この子の言う通り、簡単に使い捨てにできるような、軽い命ではないわ」
「フッ。ここに来る前に散々うちの下僕を倒しておきながら、何が“軽い命”や」
一歩進み出て雷馳への斟酌を訴えかける爛菊に、女は吐き捨てて改めて彼女をまじまじと眺め回す。
「あんさん、半妖どすか」
「ええ。それが何?」
爛菊は平然と答える。
「ほなら、あん姑獲鳥とあんさんを交換はいかおすか?」
女が言うなり、突然上から糸にぶら下がった大きな繭が姿を現した。
「!? お母さん!!」
顔だけが出ているその繭へと、駆け寄ろうとする雷馳を鈴丸が手を掴んで引き止める。
朱夏はまだ意識がないようだ。
「放せ鈴丸! あの中にお母さんが……!!」
「今はまだダメだ雷馳」
半泣きで訴えかける雷馳を捕まえたまま、鈴丸が神妙な表情で顔を横に振る。
「それが本音ではないだろう」
千晶の冷静な言葉が、洞窟内に反響した。
これにみんなが千晶を見る。
「その朱夏も、本当は別に必要ないはずだ」
「……」
千晶の言葉に、女の顔から笑みが消える。
「千晶様、一体どういう意味?」
「つまり朱夏は単なる囮。真の狙いは俺達全員だ」
暫しの沈黙の後、鈴丸が気付いたように口を開く。
「ああ、なるほどね。そういうことか」
千晶の家には、雲外鏡も含めて六人の妖力が渦巻いている。
よってこの女も、この洞窟から千晶達の妖気を察知し、欲したのだ。みんなの妖力を。
その中で一番弱い朱夏をさらって、皆をおびき寄せたわけだ。
偶然その朱夏が、この女の縄張り内に雷馳と出会うまで住んでいた。
自分より強い存在であるこの女から、許可を得て。
だが縄張りから勝手に出て行くことまでには、別に許可はいらなかった。それだけこの女にとって特に必要とするまでにない、雑魚にすぎなかったからだ。
よって、爛菊達を捕らえる為の言い分だ。
「真の狙いは、爛達……?」
「ああ、そうだ。よくぞ俺達全員を自分の餌食にしようと思ったな。俺らもなめられたものだ。さぁ、正体を現せ女!」
千晶は言うと、人差し指を逆袈裟懸けに振り払った。
すると同時に、女の着物の袖と一緒に皮膚も裂けて、白い体液が滴り落ちる。
どうやら女の血液らしい。
「く……っ! ようもうちにこないな真似を……! うちを敵に回して、どないなるか分こうとるんやろな! 全員逃がさへんで。うちの腹に収まる覚悟をおしやすな!!」
女が叫ぶや否や、その人の形が歪に変貌していく。
関節や筋肉が軋む鈍い音が響く。
もう完全に人の形が失われるとともに、その女が発したであろう火の玉がいくつか浮かび上がり、洞窟内を照らす。
それまで皆、この真っ暗な中で目を光らせているだけだったが、火の玉の灯りが周囲に色を与える。
最初は湿気を帯びた冷気が漂っていたが、突然一気に蒸し暑くなる。
そして何よりも爛菊達の目に飛び込んできたのは。
見上げるほどに巨大な蜘蛛だった。
般若のような顔に虎の胴体と尻尾、人と同じ手の形をした八本の足を持つ姿だ。
これに雷馳が飛び上がる。
「大百足の次は大蜘蛛か!!」
「土蜘蛛……――八握脛だな」
「さぁ、お前達を喰ろうて、更なる強さを手に入れてやる」
千晶の言葉に続いて、土蜘蛛――八握脛の野太い声が宣言する。
「ふん。それはこっちのセリフだよ。ねぇ、ランちゃん」
彼女へ振り返って笑顔を見せる鈴丸だったが、本性を現したことで一気に高まった八握脛の邪悪な妖気に、まだ半妖でしかない爛菊は圧倒されてしまっていた。
「怯むな爛菊! 今のお前が出せる限りの全力をこいつにぶつけるんだ!」
立ち尽くしている爛菊の様子に気付いて、千晶が檄を飛ばす。
これにハッと我に返ったように前方にいる千晶を見ると、爛菊は大きく首肯して白銀の狼へと変身した。
今現在、爛菊にできる精一杯はこれだけだ。それでも妖力は上がった方だ。
最初は爪も牙も持たない、ただの人間だった頃と比べれば。
大百足の時も何もできずにいた爛菊だったが、今ならささやかながら抵抗できる。
それを除いては、今のこの状況は大百足の時と似ていた。
ただ相手が、蜘蛛に変わっただけだ。いや、それ以上に妖力が高い相手と言える。
「そない犬っころ程度で、うちに挑もう言うんかい?」
狼の姿になった爛菊へと、今度は老女のような声で八握脛は憫笑する。
「犬畜生と一緒にするな」
「そうやって甘く見てたら痛い目に遭うよ」
千晶と鈴丸がそれぞれ口にする。
大百足の時は嵐だったので、雷馳は天候を味方につけることもできたがそれでも、千晶達が助けなければ雷馳は死んでいただろう。
しかし八握脛の後ろでは、繭に包まれた朱夏がぶら下がっている。
最初は臆した雷馳ではあったが、勇気を奮い起こして叫ぶ。
「えぇい! 足の数が無駄に多い蟲は嫌いじゃい!!」
そんな雷馳に向かって、八握脛は素早く足を一本振り払った。
巨大な足の先の掌が、雷馳を横から平手打ちにする。
「!?」
雷馳は地面に全身をこすりつけながら倒れる。
「うちを蟲扱いするな」
そう口にして今度は上から、倒れている雷馳へと足を振り下ろす。
これに狼姿の爛菊が飛びかかった。
八握脛の丸太のように太い人差し指に喰らいつくと、深々と牙を突き立てる。
しかし八握脛には爛菊の牙は、蚊ほどにしか感じず気にすることなくそのまま雷馳へと、足を踏み下ろした。
だがここで、爛菊は素早く下半身を振ると後方回転した。
するとその人差し指が切断され、同時に八握脛の足が雷馳を踏みつける。
しかし丁度切断された人差し指の場所に、雷馳の姿があった。
爛菊は雷馳の目の前に着地する。
「グルル……!!」
「ラン殿……!」
「大丈夫!? ライちゃん」
八握脛へと唸り声を上げてから、雷馳に声をかける爛菊。
「いいぞ爛菊!」
「よぅし! 戦闘開始だ!」
千晶と鈴丸は気合を入れると、八握脛へと身構えた。