其の玖:妖力吸収体
「接吻も肉体の一部。交わりと変わりない」
「そ、そう……なのか」
千晶は明らかに残念そうな様子だった。
が、はたと思い立ったように千晶が顔を上げる。
「しかし和泉、お前が爛菊と行為を成せば力が戻ると言ったんだぞ!?」
「いや、私もそう思ったんだがな。どうやら意味を履き違えていたようだ。まぁ、とりあえず記憶だけでも取り戻せたのだから良しとしよう」
「お、お前……相っ変わらずいい加減だな!」
「そうかい?」
千晶の言葉にまるで褒められたと言わんばかり、悪戯そうに和泉はコロコロと笑った。
ある程度落ち着くと、改めて和泉は爛菊を見直す。
「そうだな。見た限りでは――后妃は明らかにただの人間そのままだな」
これに千晶が真摯な表情で答える。
「ああ。今のままでは我々妖怪と一緒にいる限り、その瘴気で他の妖怪を呼び寄せてしまいそれが原因で熱病にかかるなどして、爛菊の生命の危機だ」
「……」
千晶の言葉に無言で不安を露わにする爛菊。
更に追い打ちをかけるように鈴丸が口にする。
「妖力がない限りはいざとなれば僕の力でもランちゃんを襲えるしね」
「その襲うとはどういう意味だ」
千晶の目が鋭利さを含んで鈴丸を睥睨する。
これに鈴丸が愉快そうに言った。
「Hできちゃうってこと!」
「しまった。お前が女好きであることを忘れていた。だが爛菊の純潔を喰らったらこの俺が貴様をただではおかんぞ鈴丸」
怒りの表情を見せて鼻に皺を寄せ牙を剥く千晶の、普段はアンバーの双眸が黄金色に光を帯びる。
「じょ、冗談だって! そんなにむきにならないでよアキ、ヤダなぁ~」
言いながら鈴丸は和泉の背後に隠れて、顔だけを覗かせる。
しかし騒がしくなった千晶と鈴丸を他所に、和泉は相変わらず爛菊をまじまじと見詰める。
「妖力」
ボソリと言った和泉の言葉に、口を噤んで皆一斉に彼を見る。
「妖力を養えば、人狼の力が取り戻せる」
更に言葉を催促するように、みんなは息を呑んで和泉へと視線を集中させた。
「怪異が起きる時、相手の妖力を奪って自分の物にすれば、それが蓄積されて基準値に達する時に、人狼の力が蘇るだろう」
爛菊を見詰めながら、和泉は突然抑揚のない口調でつらつらと述べた。
よくよく和泉の双眸を見てみると、あの美しいまでの碧眼が虹彩の周囲に青い輪を描いてその中の色が白濁しており、瞳孔が極限までに小さい丸に絞られていた。
「これは……和泉の予言だ」
千晶がボソリと呟く。
しばしの沈黙の後、ふと和泉の肩の力が抜けて、双眸の虹彩の色も白濁から碧眼に戻った。
「じゃあ妖怪退治をするってこと?」
鈴丸がキョトンとしながら和泉に尋ねる。
「いや、退治まではしなくても、もし中には親切な妖怪がいればその者から分けてもらえばいい。しかし中には、倒さなければならない輩も出てくるかも知れないな」
和泉は手の中で桧扇を叩きながら、思案しつつ言った。
「だが一体どうやって爛菊の体内に妖力を吸収させるんだ?」
千晶が疑問を口にする。それに和泉はふむと再び思案しながら、静かに口を開いた。
「私が后妃に妖力吸収の力を与えよう。これは相手の妖怪によっては、それを后妃の体内に封印することもできる。どうする、后妃殿」
彼に尋ねられて、爛菊は剣呑な面持ちながらも承服する。
「え、ええ……平気。どうぞ」
すると和泉は正服である黒袍の長い振袖をバサリと両手を広げて後ろへと払うと、大きく首肯した。
「よし、では早速始めよう。千晶、鈴丸。少し后妃から離れていなさい。今から私の力で妖力吸収体を作るから、あまり近くにいたらその余波で君達の妖力――もしくは存在そのものまで彼女の体内に封印されてしまうかも知れないからな」
「ヒャー! 怖い!」
「ああ、分かった」
鈴丸はその猫ならではの跳躍力で爛菊から遠く後ろへと飛び退く。
千晶も和泉の言葉に従って、彼女から距離を置く。
それを確認してから和泉は両手を組むと、素早く印を結び始めた。同時に、何やらブツブツと呪文らしき言葉を呟き始める。
「オンアミリタ・テイゼイ・カラウン、オンダラジタラジム、オンロケイ・ジンバラ・アランジャ・キリク……」
そして中指と薬指の二本を閉じて人差し指と小指、親指の三本を立てた状態で指先を爛菊の額に押し当てた。
するとそこから、何らかの文字らしい印字が浮かび上がったが、それを何と読むのかは分からない。
その字は紫色の光を発すると、まるで爛菊の額に吸い込まれるように消えた。
「はい、終わり」
和泉は言うと、自分の両手をパンパンと払う。
「額の文字は阿弥陀如来からキリークの梵字を頂いた。後は、妖力を得る際に今私がしたように二本指をその額の文字に当てて、息を大きく吸い込めば相手の妖力が貴女の体内に宿るだろう」
和泉はスッと立ち上がるや神棚の方へと歩いて行くと、棚から何やら取り出した。
そしてそれを今度は千晶の元へ持って行って彼に渡す。
「はい、これ」
「……何だこれは?」
千晶は受け取りながら眉宇を寄せる。
「依り代だ。これは相手の力が強い場合に使う。強い相手であればあるほど妖力もまた然り。よって后妃の吸気の力だけでは不足するだろう。そしてまた君達も相応の戦闘を要する。そんな時、この依り代を相手の体のどこでもいいから貼り付けるんだ。すると相手の妖力がこれに宿る。封印の場合でも同じ。一段落してからでもそうした依り代を后妃の額に当てれば、この文字が依り代にある妖力全てを后妃の体内に吸収してくれる」
和泉の話を聞きながら、千晶はその依り代を眺める。
それは人の形を模した紙束だった。
「ちなみに小物の妖怪の力ならそれなりの量を集めなければならない。だが強力な妖怪なら量も質も格段に高いから妖力蓄積も増えてその分、后妃が人狼の妖力を得るのも早くなる。そうそう。后妃の人狼になれるまでの妖力を得たら、もう欲張ってはいけない。後は后妃自ら妖力を高めていけるようになるからな。もしそれを怠り、欲張って他の妖怪の妖力を奪い続けていけば、后妃は人狼以上の化け物になってしまうから心得ておくように」
言いながら和泉は、再び藁座布団に腰を下ろす。それに習うようにして、他の三人も元いた場所に座り直した。
「では頃合いになったら、あなたにこの妖力吸収体を外してもらえばよろしいのですね?」
爛菊は今しがた和泉が指を当てていた自分の額に触れながら訊ねた。
「ああ、その通り」
和泉が首肯するのを確認して、千晶が満足気に口にする。
「なるほど、分かった。やっぱりお前を訪ねて良かったな。結構いい加減なところはあるが、さすがは最強妖怪の一人なだけある」
賺さず和泉が言い返す。
「妖怪じゃない。神だ」
すると鈴丸が呆れながら答えた。
「何が神だよ。それは人間が勝手に信仰してるからなだけでしょー。所詮、本来は鹿なんだから妖怪は妖怪だよ。偉そーに」
鈴丸の言葉に、思わず和泉はグッと詰まる。痛い所を突かれたようだ。
確かに和泉は眷属妖怪ではあるが、神格化させてくれたのは結局人間のおかげであったからだ。本来とするところでは所詮妖怪には違いない。
しかしそれでも和泉は強大な神威を持ち、振るう力も妖力ではなく霊力となるらしい。また、動物神なだけあって完全な神ではないせいもあり、人間の願い事を聞く場合は見合うだけの見返りを必要とする辺りがやはり、妖怪らしさが垣間見える。
もっとも、神社の神主をしているのもあってお賽銭や捧げ物でも事足りるのだが。
「ま、何はともあれ助かった。ありがとうな和泉」
「ありがとうございます、和泉さん」
千晶に続いて、爛菊も和泉に礼を述べる。
「どういたしまして」
和泉はニッコリと、美しい笑顔を見せる。
だが不意に鈴丸が横槍を入れてきた。
「でもそうなると、少しでも多くの戦力が必要になるんじゃない?」
「確かに」
和泉に礼を述べておきながらも、鈴丸の言葉に千晶はふむと腕を組んで首肯した。
遠くの方から、何やら乾いた堅い物がぶつかる音がする。
それは牡鹿が雌鹿をめぐって角を突き合わせている音で、春の訪れを感じさせる。
耳を傾ければ、かすかにウグイスの声も届いてくる。
沈黙がしばらく続いた後、それを破ったのは言い出しっぺ本人だった。
「じゃあ僕も協力しちゃうよアキ~☆」
挙手する鈴丸に、それまで逡巡していた千晶が賺さず言い返す。
「当然だ。お前は俺の下働きなのだからな」
しかし冷ややかな千晶の反応にもめげず、鈴丸は更に食いついてきた。
「じゃあじゃあ! 学校行きたい! 学校に入れてよ!」
「何だと!?」
腕を組んで視線を落としていた千晶が、鈴丸の言い分に険しい表情で顔を上げた。
「だってホラ、僕も一緒に学校に行けば、身近でランちゃんのお手伝いとか助けになったりできるじゃん!」
「む……それはそうだが……」
言いよどむ千晶の右隣で、爛菊が平然と賛同する。
「爛は一向に構わない」
「それはいい提案だな。私も賛成だ」
爛菊に続いて、和泉も同意を示す。
「和泉まで言うか。そうだな……まぁ、鈴丸は俺の下働きだからな。ではお前も爛菊を守れ」
決断する千晶の左隣で、鈴丸が歓声と共に両手を上げる。
「ヤッタァ~! これで一緒にスクールライフを満喫できるねランちゃん!」
全然スクールライフを満喫してなどいないけど。
内心密かに思いながら、爛菊は短く取り繕う。
「ええ」
喜ぶ鈴丸はその興奮のあまりピョコンと猫耳と二股の尻尾を現した。
「言っておくが必要以上のマネを爛菊にしたら俺は容赦せんぞ鈴丸」
「分ーかってるって! アキったら用心深いんだからぁ~」
「女にだらしないお前だから言うんだ」
「大丈夫! だって学校に通い出せば他にいくらでも女子がいるも~ん」
「お前、あくまでも爛菊の護衛で学校に行かせるのだぞ。ナンパ目的ではない」
「まぁそう固いこと言わないでアキ! ちゃんとそこは心得てるよ」
「……不安だ……」
ある程度二人でやり取りしてから、鈴丸の気軽な反応に千晶は片手で目元を覆った。
「何。今回私が后妃を妖力吸収体にしたからには、もう彼女はただの人間ではない。もう今後、本来人間には見えない妖怪の姿も后妃は目視できるようになるだろう。よって彼女なりに用心も可能になるさ」
自分の向かいに座る千晶の様子に、和泉は愉快そうにコロコロと笑って軽く開いた桧扇で口元を覆う。
「万が一にもスズちゃんが爛に手を出すことがあれば、妖力を吸収すれば済むことだもの」
無表情に抑揚のない静かな口調で述べた爛菊は、鈴丸へと一瞥を寄こす。
「ランちゃん怖い……絶対気を付けよう」
鈴丸は呟くように言うと、パタリと猫耳を後ろに倒した。