其の捌拾玖:妖の集い
妖気を感じたのは、まさしくほんの一瞬だった。
「昨日からこんな感じなんだよ。ねぇ、ランちゃん」
「ええ。一瞬妖気を感じたと思ったらすぐ消える。だからその正体がつかめない」
鈴丸に同意を求められて、首肯する爛菊。
「俺にも正体までは確認できなかった」
壱織も腕を組んで首を傾げるも、続けて付け加えた。
「これ以上、ケダモノ妖怪はお呼びじゃねぇんだがな」
すると紅葉がふと千晶へと声をかける。
「千晶。あんたには正体が分かったんじゃないのかい?」
これに千晶は静かに答える。
「まぁな。妖怪の種類くらいなら。だがこの素早さは……捕まえるのも楽ではなさそうだな。しかし、悪意はないようだが無視し続けるわけにもいかんだろうが……まさかな」
千晶はどこか、含蓄のあるような言い方をした。
「確かに、あいつは悪い奴ではないよ」
紅葉は知った口調で言いながら、すっかり火が消えた煙管をひっくり返してポンと、灰になった中身を床に落とす。
これに敏感に反応する壱織。
「おいコラ鬼女! お前どこに灰を捨ててるんだ! しかもここは禁煙だぞ!」
今頃気付いて、怒りを露わにしつつウェットティッシュを取り出すと、紅葉の足元に落ちている灰を拭い去る。
これに紅葉は、ヒョイと片足を上げる。
「ついでに私の足もお舐め」
「ふざけるな! この優秀なまでに美しい俺が、そんなマネができるか!」
「クックック……確かにお前の美しさは上の上だよ。だけど和泉は更に、極上だ」
紅葉の言葉に、再度動揺する壱織。
「爛も認めるわ。こんな神経質で自意識過剰な性格不細工の男より、断然和泉の方がずっといい」
「せ、性格不細工だと……!?」
爛菊のとどめの言葉に、壱織はよろめきながら後退ると、デスクの椅子に半ば倒れこむように座った。
「この絶好調なまでに美しいはずの俺が、不細工……!」
壱織は青ざめた顔を片手で覆い、独り言のように呟く。
「今度その和泉に、会わせてあげようか? 壱織」
「結構だ! 俺以外の美貌は認めねぇ!」
鈴丸の言葉に、必死の形相で壱織は拒否する。
「そもそもお前らケダモノが図々しく俺に近寄るから、俺の美貌が穢れて――」
「ケダモノ……」
壱織の批判に、爛菊が半眼でボソリと口にしたのに気付いて、彼は言葉を切る。
「いや、その……分かった。朝霧、お前はこの際省いてやる。光栄に思え」
「誰が思うものですか」
爛菊は冷ややかな口調で吐き捨てる。
すると保健室のドアがノックされる。
「は、入れ」
爛菊の態度に相変わらず動揺しながらも、壱織はノックに答える。
すると一人の顔面蒼白の男子生徒を両脇から抱えている、二人の男子生徒が姿を見せた。
その様子を一目で理解する壱織。
「貧血だな。ベッドに寝かせろ」
付き添いの二人の男子生徒は、保健室の中にいるメンバーに戸惑いながらも、室内に入るとその顔が青い男子生徒をベッドへと運ぶ。
「この子が今の食事の犠牲者かい。確かにあいつ好みだね」
ベッドに寝かされる男子生徒の足元で、長椅子から立ち上がった紅葉が口にする。
これに、えっとした顔になる付き添いの男子生徒二人。
「呉葉。人がいる前では言葉に気をつけて」
「おっと、これは失礼」
爛菊からの指摘に、紅葉は口に手を当てる。
壱織は付き添いの男子生徒達を退室させてから、ビニール手袋とマスクを身につけて運ばれてきた男子生徒の処置に当たる。
「食事って……紅葉は今回の怪異を引き起こしている妖怪が、どうしたのか知ってるの?」
鈴丸の疑問に、紅葉はコロコロ笑いながら長椅子に戻ってくる。
「知ってるも何も、私の友人の一人さ」
「何だ。お前の友人なのか」
愉快そうに答えた紅葉に、千晶は平然と口にする。
「ああ。だから言ったろう。あいつは悪い奴ではないと」
「でもこうして、人を襲ってるのに?」
「だけど死人は出していないだろう? 一種の食物連鎖みたいなものさ。人でも獣の肉を食う」
「それはそう……だけど」
口ごもる爛菊に、紅葉は笑顔で彼女の顔を覗き込む。
「ま、会ってみれば分かるさ!」
言うなり、紅葉はどこへとなく言葉を発する。
「紅御。ちょっと来な」
「べに、お?」
「女?」
爛菊と鈴丸が一緒に小首を傾げる。
一方、千晶はマッサージチェアから上半身を跳ね起こす。
それとほぼ同時に、開放している窓から一陣の風が吹き込む。
その風とともに現れたのは、一人の男だった。
スラリとして、壱織と同じくらいに長身だ。
切れ長の目に端正な顔立ち。髪は紫色で左右に分けた前髪は肩まで長く、後ろ髪はショートカットだ。
しかし服装は、洋服の上からまるでコートのように、華やかな着物を羽織っていた。
「おやおや、これは奇遇。呉葉もここにいたなんて」
その男が言う“ここ”とは、学校全体のことだ。
しかも紅葉を、爛菊同様本名で呼んでいる。
千晶は咄嗟に、壱織のデスクにあった本を取り上げて、広げるとそれを顔の上に乗せて隠した。だが。
「しっかりバレてるよ千晶」
紅御はそんな彼に、流し目を送る。
彼は男ではあったがしなやかで気品もあり、何よりも美貌の持ち主だった。
ベッドで男子生徒の処置をしながら凝視してくる壱織に視線を移すと、彼はクスリと小さく笑った。
「ひとまず、自己紹介でもしな」
紅葉に言われて、彼は軽く頭を振って顔にかかっている前髪を払いのける。
そして静かに口を開いた。
「あちきは鎌鼬の紅御と申す者。偶然ここを通りかかったら妙に妖気が集中していたから、それに呼び寄せられたのよ」
「鎌鼬……だから気配が一瞬しか感じられなかったのね」
爛菊の言葉の後に、鈴丸が呟く。
「オネェ言葉だ……」
「うふふ」
これに紅御は愉快がって短く笑う。
「別に鎌鼬だからではないわよ」
「またケダモノが増えやがった……」
男子生徒の処置を終えた壱織がベッドのカーテンを閉めながら、みんなの輪に戻ってくるとうんざりした表情でぼやく。
「俺の美貌が穢れる」
すると賺さず爛菊が口走った。
「和泉ほどではなくとも、紅御はあなたと同じレベルの美しさだわ」
「な……っ!」
壱織も心のどこかでは感じていたのを、ズバリと指摘されて彼の虚勢な態度が揺らぐ。
だが逆に、ここでようやく彼女が壱織の美しさを認めたことになる。
彼の内心には、微かな喜びが湧き上がった。
「ここには健康そうな血気盛んな男の子が多くて。美食家としては恰好な場所でありんしたから、ついね」
「美食家……?」
再度、小首を傾げる爛菊に、紅葉が答える。
「鎌鼬には種類が二つに分かれていてね。一つは三位一体でイタズラする者。そして一つは紅御のように一人で行動し、一瞬の動きで人間の皮膚を裂いて吸血すると同時に、傷口を瞬時に治療する者。前者は雑食だけど、後者である紅御は人の血を食すのさ」
そんな彼の餌食になった男子生徒が、どうやら貧血になっていたらしい。
現にこうして保健室に五人の妖が集う中で、貧血の男子生徒がベッドに横たわっているが、誰も気にしなかった。
「あちきら鎌鼬の中には、相手の人間を死なせるまで吸血をする邪悪な者もいるけど、あちきはそこまでしないんし。だって、死なせたらもったいないんしょ? せっかく好みの男の子を選んでいるわけでありんすから」
紅御はコロコロと笑う。
「ところで紅御さん。千晶様のことをご存知なの?」
爛菊の問いに、紅御は首肯する。
「彼、あちき好みのタイプだから、よく口説いていたんし」
これに鈴丸が吹き出す。
「あの、爛は千晶様の――」
「知ってるなんし。妻でありんしょう。でもぬしは女、あちきは男。だから問題ないでありんしょう?」
爛菊の言葉を遮って、平然と紅御は口にした。
思わず言葉を失って、戸惑う爛菊。
「誤解するなよ爛菊。俺はこのオカマから逃げ回ってきてるんだからな!」
「その必死さが返ってあやしい」
マッサージチェアから上半身を跳ね起こした千晶に、鈴丸が意地悪な笑みを浮かべる。
「雅狼朝霧爛菊。ぬしのことはこの呉葉から聞いてるなんし。人間に転生してしまうなんて、ツイてなかったんしね。元の立場に戻るために、いろんな妖怪から妖力吸収しているらしいけど、どこまで進んだんしか?」
紅御は爛菊と向かい合う形で、背後の壁に寄りかかっている。
「半妖にまでは進んだわ」
「そう。だったら、あちきの妖力もぬしに分けてあげるんし。受け取ってくれるかしら?」
「よ、よろしいの?」
「もちろんよ。だってあちきの愛する千晶の妻なんしから」
「その理由が意味不明なんだけど」
爛菊と紅御の会話に、鈴丸がクスクス笑う。
「ちょっと待て。とりあえず先に俺の仕事を終わらせてからにしてくれ。いつまでもこの妖の場に人間一人、置いておくのは問題があるだろう」
動揺から立ち直った壱織が、ひとまずそう口にしてビニール手袋とマスクを取り払うと、デスクに向かって書類を書き始める。
しばらくして気力が回復した男子生徒は、早退を告知されて保健室から何事もなく後にした。