其の捌拾陸:鶴の編み物
そこはシンと沈んだ湿気のある空気が漂い、一見入り口は墨を塗ったように漆黒である。
しかしながら一歩足を踏み込むと、一定の間隔と高さに火の玉がぼんやりと浮かんでいる。
ささやかな照明代わりだ。
ずっと進むとその一番奥に、彼は監禁されていた。
そう。ここは、人狼族の地下牢獄。
「クソ……ッ、クソッ、クソッ、クソオォォォーッ!!」
彼は口惜しげに怒声を上げる。
「よくも、よくも、よりによってあの女などにこの俺の妖力が奪われるとはっ!!」
千晶の実弟である、赤い髪をした雅狼直成司は暇さえあれば、その時のことを思い出してこうして絶叫し牢内で暴れ回っていた。
真っ赤な灼眼は怒りのあまり、ギラギラとした光を帯びている。
「大体なぜだ! なぜあの女が兄者と共にいる!? これは俺の計画にはなかったことだ……! 何であれ、結局兄者は性懲りもなくまたあの女を、妻として取り戻した。学習能力のねぇ奴は帝の資格なしだ……素直に俺の助言を聞いていれば良かったものを……」
黒毛の狼の耳と尻尾を持った姿の司は、唸るように独り言ちて胡座を掻き親指の鋭い爪を、ガリガリと尖った牙で噛む。
そんな彼に、突然低い声がかけられた。
「ほぅ。計画……計画とは?」
「――クソジジイ……一体いつの間に」
司は憎悪の眼差しで相手を睥睨する。
漆黒の長い髪を後ろへと撫で付けて、一つに纏めた頭をした中年の男は、着ている衣装も黒の着流しに黒の羽織姿だった。
唯一、狼の耳と尻尾だけが灰色だ。
「某の気配すら感じ得ぬほど、妖力を爛菊様から吸収されてしまいましたか」
「黙れクソジジイ!!」
「それで? 先程述べられた計画とは、何ですかな?」
「貴様が知ることじゃねぇ! 消え失せろ!!」
「尋ねたところで、あなたが素直に答えるとは初めから、思いませんでしたがな」
二人は鉄格子を挟んで、言葉を交わす。
男は悠然と、後手を組んでいる。
「だったら初めから聞いてんじゃねぇよ。ついに貴様、耄碌に成り下がったか」
「そのご心配は不要。あなたがあまりにも幼児のように毎々暴れるゆえ、某もこのように度々結界を強固に張り直す手間が増えましたぞ。某と顔を合わせたくないのなら、少しはおとなしくなされよ」
男――暁朧は抑揚のない低い声で静かに言うと、両手をゆっくり横に広げる。
すると紫色の電流のような力が、司のいる牢に絡みつく。
更に今度は縦に両手を上下に広げると、紫色に輝く壁が牢ごと包み込んだ。
「毎回毎回、同じ光景を見せられて、俺の方こそ反吐が出る」
「……然様か」
司の吐き捨てるような言葉に、朧は一言答えると今度は片手を牢へと突き出した。
すると今しがた張り巡らされた結界の一部が、彼の手の動きに合わせて一条に伸びたかと思うと、牢内にいる司を弾き飛ばし彼は背後の岩壁へと、叩きつけられる。
「がふ……っ!」
司は背中から壁に張り付き、刹那、地面に落下する。
「く……っ! クソジジイが!! 貴様誰に向かってこんな真似を……!!」
「直成司。そなたにだが?」
唸り声を上げる司に、朧は落ち着き払った声で平然と述べる。
「某もいくら役目だとて、毎々そなたの姿を目に入れるのは胸くそ悪い」
「何だと……!?」
「何ゆえそなたがこうして捕らえられているのか、解かっておられましょうな?」
「……」
「よもや忘れたとは言わすまいぞ」
地の底から轟くような静かながらもその低い声は、自分より立場が上である司に向けられ、朧の灰色の眼には鋭利な光が宿り彼を冷ややかに睥睨していた。
「……本来ならば消し炭にされるところを、そなたの立場上こうして生かされているのだ。それだけでも、良しと致すのだな」
朧が放つ静寂な気迫に、司は悔しそうに歯噛みしながら虚勢ばかりの睨みを返したが、朧にはまるで効果がなかった。
しばらく二人の睨み合いが続いたが結果、先に目を逸らしたのは司の方だった。
「ここを出たらまずは真っ先に、貴様を殺してやるクソジジイ」
「はてさて。いつになることやら」
朧はポツリと口にすると、漆黒の羽織を翻して彼はその場を後にした。
地下牢を立ち去る朧の背後からは、司の怨嗟の咆哮が響いていた。
「できた!」
保健室にて壱織は、編み針をデスクに置くと仕上がった編み物を掴み取って、掃き出し窓から外へ一歩踏み出る。
午後の陽射しの、心地良い天気だった。
壱織は太陽に向けて編み物を手にパンと振り下ろし、日にかざす。
それは真っ白なセーターだった。
時期は四月末でもう五月になろうというこの季節に、もうセーターは不要となるはずだろうが壱織には関係のないことだった。
編み物を趣味とする彼は、季節問わず年中無休何かと編んでいる。
今は生徒達も午後の授業を受けている中、壱織は満足そうに一人首肯する。
「さすが俺。今回も素晴らしい出来だ。早速ネットで販売しよう」
彼の作る編み物はネット上とは言え、口コミで非常に評判が高くレア物として注目を浴びている。
一種のブランド化だ。
一人で手編みなので、入手も困難だ。
人気が高い理由として挙げられるのは、その物ずばり質の良さ。
その秘密の材料は糸以外に、彼の羽根が一枚含まれているからだ。
勿論羽根で機織りしていた、祖母からの受け入りレシピだ。
すると満足して気が緩んだ彼の手から、突如吹いた一陣の風でそのセーターが空へと飛ばされてしまった。
「ああっ! 俺のセーターが!!」
空高く飛んでいくセーターへと手を伸ばす壱織を、遠く離れた窓から千晶が意地悪な微笑を浮かべて眺めていた。
高校生よりも早く授業を終えた、小学二年生の雷馳は一人、家々の屋根を渡り歩いて帰宅中だった。
すると突如、妖気を感じて足を止める。
「むっ! 妖気!?」
雷馳は妖気の感じる方向へと、顔を向けた。
するとそこには、真っ白なセーターが風に吹かれて漂っていた。
しかし雷馳は、それを素直にセーターだとは認めなかった。
それもそうだ。
そのセーターから、妖気を感じるのだから。
「よもや、一反木綿の進化系か!?」
雷馳は身構えると、片手を突き出した。
「雷走!!」
同時に雷馳の手から直線状の雷撃が放たれ、セーターに直撃した。
忽ちセーターは電流によって発生した火花から引火し、煙を上げて燃え始める。
「むむ? 妖怪ではないのか……?」
小首を傾げる雷馳を他所に、別方向から悲鳴が上がった。
「おっ! 俺の編んだセーターがぁっ!!」
その声の主は、セーターを追いかけてきた壱織だった。
セーターはすっかり燃え尽きてしまう。
「おいコラ! そこのクソガキ! よくも俺が丹精込めて編んだセーターを無駄にしてくれたな!?」
怒鳴られて雷馳は、今度はそちらへと顔を向ける。
そこには、背中から生やした翼を羽ばたかせている、赤髪だが毛先が黒い長身の男がいた。
「天使……? いや、違うの。今しがたのセーターと同じ妖気を感じる」
「当たり前だ! 俺が編んだんだから、多少の妖気くらいは移っちまうんだよ! 俺の努力が水の泡じゃねぇか!!」
「わしがそんな事情など知るわけなかろうが! 紛らわしいもんを飛ばすからじゃ! わしは悪ぅないわい!!」
壱織は雷馳から一メートル以上距離を置いて、屋根の上に着地する。
水色の髪に青紫色の瞳をした愛らしい外見をした雷馳を、まじまじと見下しながら壱織はポツリと口走る。
「……ケダモノ臭い」
「何じゃと!? わしは雷獣じゃい!」
「やっぱりケダモノか。しかしそれ以外にも別のケダモノ臭が……狼と猫……まさかと思うがお前、雅狼と猫俣の知り合いか?」
「そうじゃが……」
雷馳は壱織の言葉にキョトンとした。