其の捌拾肆:白銀の狼
茜色の亜空間は消え去り、みんなは学校の保健室へと戻っていた。
ふと気付くと、野狐に憑依されていた国分という女子生徒が、床に倒れていた。
野狐によって片手にカッターで刺されてできた傷は、いつの間にか消えている。
おそらくは野狐の自己回復によるものだろう。
鈴丸は、国分を抱き上げると保健室のベッドに、そっと横たえた。
「しかしお前、全く戦闘に関わらなかったが、一つも攻撃技を持たないのか?」
千晶が呆れたように言いながら、まだ残している金色の尻尾を一振りする。
「うわっ! 毛が舞うからやめろ! ……まぁ、いざとなったら身を守る為の攻撃の一つや二つはあるが、俺は基本争い事を嫌う、平和主義者だから」
答えると壱織は白衣を脱ぐや、忌々しそうにゴミ箱に叩き込んだ。
鈴丸の血に塗れた白衣だ。
彼にとっては洗濯するよりも、もう使い物にはならないと判断してのことだろう。
そしてまだ両手にこびりついている彼の血を、洗面台で丹念に洗い流し始めた。
「何だ鈴丸。お前もしかして、飛鳥に傷を治癒してもらったのか?」
千晶が長椅子に座りながら尋ねる。
「うん。そうだよ」
鈴丸はベッドから戻ってきながら言うと、千晶の隣に座る。
「しかも強引にな!!」
壱織が手を神経質に洗いながら、強調する。
「お前には自己回復能力が備わっているだろう」
「あのねぇ、アキはまだ来ていなかったから知らないだろうけど、両肩に穴開けられたんだよ。しかも僕の場合は傷口を自分で舐めることで回復するの。野狐を目の前にしてのんきに傷口舐められないし、しかも場所的にも傷の大きさからしても、舐めにくいし自己回復も時間かかっちゃうでしょ。だから壱織に治癒してもらったの」
「なるほど、そういうことだったのか」
千晶は納得すると、改めて壱織へと振り返る。
「やっぱりお前は何かと便利だな」
「どういう意味だそれは!?」
「アキが初めて心から気に入った相手ってことだよ」
尋ねる壱織に、鈴丸が笑顔で指摘した。
それに壱織は見る見るうちに顔を顰める。
「ハァ!? 冗談だろう? 誰が悲しくてケダモノなんかに気に入られなきゃならねぇんだ!」
壱織は水道の水を止めると、側にかけてあったタオルを取り上げ濡れた手を拭く。
そして出しっ放しにしている自分の翼の片方を、自分の方へと広げると改めて嘆息吐く。
「俺の神々しいまでに美しい翼がこんなに汚らしくなって……これを見てお前らは嘆かわしく思わないのか!?」
「白衣みたいにちぎり取ってゴミ箱にでも捨てれば?」
鈴丸が愉快そうに答える。
「ナメてんのかお前は! ったく、白衣の下も汚らしい血が染み込んでる!」
壱織は喚くと、窓を開け放つ。
「さっさと帰ってシャワーを浴びないと」
「何だ。もう帰るのか。まだ勤務時間が残っているにも関わらず」
千晶は野狐の妖力を封じ込めている依り代を、片手でヒラつかせながら投げやるように言う。
「知った事か! とてもこのままの姿でいるのは我慢できねぇからな!」
言いながら片足を窓枠に乗せて、身を乗り出す。
その時突然、ガラリと保健室の引き戸が開いた。
見るとそこには、爛菊が立っていた。
そして壱織に目を向けるや、眉間にしわを寄せる爛菊。
それになぜか、気まずさを覚える壱織。
「とにかく、俺は帰るから」
そう言うや壱織は、翼を羽ばたかせて空へと飛んで行ってしまった。
「丁度いいタイミングで来たな。爛菊」
「ええ。突然千晶様達の妖気とともに、邪悪な妖気も一緒に消えたから、一度ここに来てみたけど誰もいなくて……教室に戻って情報収集したら何があったのか解かって、またこっちに来てみると突然今度はみんなの妖気が戻ってきたのを感じたから」
千晶の言葉に、そう答えて爛菊は疑問の表情を見せる。
これに今度は鈴丸が口を開いた。
「実はねぇ、壱織が発生させた亜空間の中で僕ら、三尾の野狐と戦ってたんだ!」
「こっくりさんの正体、三尾の野狐だったの? とても邪悪な妖気だったわ」
爛菊は言いながら、千晶と鈴丸が座っている長椅子に腰を下ろす。
「この依り代に野狐の妖力を封じ込めてある。吸収するといい」
千晶はそう言って、依り代を爛菊へと渡す。
彼女は首肯しながらそれを受け取ると、妖力吸収を開始した。
爛菊の額から紫色に輝く文字が浮かび上がると、それに同調するように依り代が青白くほんのりと光り出す。
彼女がゆっくりと吸気を始めると、依り代の青白い光が靄となって爛菊の口内へと、流れていった。
やがて役目を終えた依り代は、一握りの砂となって消える。
「どうだ。妖力の調子は」
千晶に尋ねられて、爛菊は砂をゴミ箱に払い落としながら首肯する。
「何だか一気に妖力が高まったのが分かる。でも、まだ完全ではないわ」
「そうだろうな。ただの人間から妖に戻ろうとしているんだ。たかだが三百年分の妖力を得てもそれ相応にまでならないだろう」
「でも、ほら」
溜息を吐く千晶に爛菊は言うなり、自分を抱きしめながら上半身を屈めた。
すると一瞬彼女は瞬いて、真珠色に艶めく白銀の狼へと変化した。
目も白銀に輝いている。
まだ普通サイズではあったが。
「もう自由に狼になれるし、こうして言葉を話せるくらいにはなったわ」
そんな彼女に、千晶は感激を露わにする。
「それでも結構な進歩だ!」
千晶は狼姿の爛菊の首に、抱きついた。
「ち、千晶様……苦し……」
「おっと。悪かった。嬉しくてつい」
その時、ベッドの方から呻き声が聞こえた。
これに慌てて爛菊は人の姿に戻る。
獣耳と尻尾を出しっ放しにしていた千晶と鈴丸も、それを引っ込める。
「気がついた?」
爛菊はベッドで横になっている国分へと、声をかける。
「あ……嶺照院さん……私は一体……」
「あなたはこっくりさんをやって突然意識を失い、ここへ運ばれてきたの。あの遊びは危険だから、今後二度とやっては駄目よ」
どうやら野狐に憑依された以降の記憶はないようだ。
国分は首肯すると、言った。
「ご迷惑をお掛けしました……」
「教室には戻れそう?」
「はい……」
「じゃあ、一緒に戻りましょう」
ぼんやりしている国分に、爛菊は優しく微笑むのだった。
「まぁ、三尾の野狐を倒したの!? さすがは人狼ね! 私がまだ人だった時代は、妖狐は恐れられていたから、凄いわ」
驚愕した様子の朱夏に、鈴丸が口を開く。
「おかげでランちゃんの妖力も、更にアップしたんだよ」
「本当かの!? ラン殿!」
「ええ、おかげさまで」
爛菊は朱夏と雷馳に笑顔を見せる。
「それじゃあ、丁度良かった。今日、雷馳が学校から帰ってから、一緒に買い物に行ったらね……」
いそいそとエプロン姿の朱夏がキッチンへ向かったかと思うと、冷蔵庫に頭を突っ込み両手で何かを引っ張りだした。
朱夏の手には、鮮やかな赤色をした肉塊があった。
「馬肉のブロックじゃ! ラン殿も妖力が上がったのなら、獣の血が騒いでさぞ食べたかろう!」
雷馳も朱夏の側へ駆け寄って紹介するのを他所に、千晶と爛菊は呆然とリビングのソファーからその馬肉ブロックを見入っていた。
「二人とも、よだれよだれ」
鈴丸に指摘されて、ハッと二人は一緒に腕で口元を拭う。
これにクスクスと笑う朱夏。
しかし鈴丸は内心、家計の心配をしていた。
朱夏は今の時代の食料の品揃えの良さに、実は暴走して高額買い物をしてしまうところがあったからだった。