其の捌拾参:せめぎ合う狐火と猫又の火
「ウオオオォォォー……ン!!」
この遠吠えに、国分という女子生徒に憑依していた野狐は、ギョッとする。
するとどこまでも広く壁のない茜色をした亜空間の一部が、突然ズズッと波紋を広げ始めた。
野狐は勿論だが、鈴丸と壱織も動きを止めてその様子を見守る。
やがて波紋から片手が現れて、そのままズルズルと本体がこの亜空間に侵入してきた。
「アキ! やっぱり来てくれたんだね!」
鈴丸が嬉しそうにはしゃぐ。
そこには、狼の耳と尻尾を出現させた白衣姿の千晶が、凛とした雰囲気で立っていた。
「この俺の五百年の妖力で展開した亜空間に、そう易々と侵入してくるとはさすが人狼の帝をやっているだけはあるじゃねぇの」
壱織が感心げに、口角を引き上げる。
「何とも邪悪な妖気を感じたものだから、来てみた」
千晶は亜空間の存在を気にも留めず、平然とそう口にする。
「フン。狐か」
「き……っ、貴様はっ、狼か!?」
そう口にする野狐が憑依している国分の顔が、心なしか青ざめていた。
「だったらどうする」
千晶は言うと、威嚇するように鋭く尖った犬歯を剥き出しにする。
これに後退る野狐。
「やっぱり、狐には犬だな」
壱織の言葉に、千晶は敏感に反応する。
「犬じゃない。狼だ。あんな犬畜生と一緒にするな」
千晶にとっては、犬は所詮人間に傅く家畜でしかない。
よって誇り高い狼としては、犬同等と扱われるのを嫌っていた。
「あの野狐、女子生徒に憑依しているんだアキ! どうにかして。これじゃあ満足に戦えない」
「それくらい見れば分かる」
鈴丸に言われて、千晶は半ば呆れた様子で答える。
そして改めて千晶は、野狐をその金色の双眸で睥睨した。
「さぁ狐。その人間の体から離れろ」
「ク……ッ! クソ!」
野狐は吐き捨てると、千晶に背を向けて逃走を図ろうとした。
実は、狐の弱点は犬と狼なのだ。
「おいおい。ここをどこだと思ってるんだ。人間の体では亜空間から出れないぜ」
壱織が平然と野狐の背中へと声をかける。
ハッとして足を止め、振り返る野狐。
気付くと、先程まで人の姿をしていた千晶が、普通サイズではあるが金色の狼へと姿を変えていた。
そして狼の姿で千晶は、鈴丸へと声をかける。
「そういえば爛菊はどうした」
「壱織に接するのが嫌だから、行かないって言って来なかった」
「フ……とことん嫌われたものだな飛鳥。では依り代の用意をしておけ鈴丸」
「了解」
金狼姿の千晶は、改めて野狐の方へと向くと、威嚇せんとばかりに大きく吠えた。
「グアァァオン!!」
「ヒィッ!!」
国分の姿をした野狐は顔面蒼白で短く悲鳴を上げたかと思うと、脱ぎ捨てるかのように彼女の肉体から野狐の本体が飛び出してきた。
国分は意識を失ったまま、その場に倒れ込む。
毛並みが茶色い狐そのままの容貌に、千晶が口にする。
「ニ尾の野狐か」
「うぅん、違うよ。元々三尾だったけど、僕が一本尻尾を切り離したの。ほら、あそこに落ちてるのがそう」
鈴丸が答えて指差した先には、壱織から数メートルくらい離れた位置に一本のフサフサした尻尾が、ポツンと落ちていた。
一方、国分の体から飛び出した野狐は改めて、この茜色をした亜空間から脱出しようと試みていたが。
「出れない! なぜだ!!」
焦りを見せる野狐に、壱織が口を開く。
「お前まだたったの三百年しか生きていないんだろう。五百年以上は生きている俺が作ったこの亜空間から、お前ごときが易々と出られやしねぇよ。レベルが違う」
「ク……ッ! このクソ鶴が! 喰い殺してくれる!!」
焦燥感からくる怒りに、野狐が壱織へ向かって突進してきた。
「ヤベェ」
壱織は言うなり、背中の翼を広げて羽ばたくと、空中へと飛び上がった。
「チッ! 降りて来い! この我が怖いのか!?」
野狐は、空中で翼を羽ばたかせている彼へと怒鳴る。
「そのあからさまに獣の姿で来られると、汚らわしすぎて怖い」
素直な壱織の言葉に、思わず野狐はポカンとした。
これに鈴丸がクスクス笑っている。
「ただでさえケダモノの血で汚されたのに、これ以上は勘弁してくれ」
「フン。だったら全てまとめて片付けてくれよう。喰らえ、狐火!!」
改めて我に返った野狐は、大規模の青白い炎を放った。
これに壱織は、翼で我が身を包み込んで防御する。
千晶は風の膜を作り出して全身にまとわせ、炎を受け流す。
「最大展開、猫又の火!!」
鈴丸は狐火に向かって巨大な炎の壁を発生させると、青白い狐火と紅い猫又の火が激しくせめぎ合い始めた。
「小癪な。たかが猫又の火でこの狐火に逆らうとは……甘いわ!!」
野狐は言うと、猫又の火の壁に狐火を押し込んだ。
これに猫又の火は呆気なく分散されて、狐火から発生した強烈な熱風で鈴丸は、後ろへ吹っ飛んだ。
しかし彼は、クルリと身を捻って華麗に着地すると言った。
「チェッ! やっぱり三百年の妖力に、僕の百年分程度の妖力は弱いね」
狐火は猫又の火を分散させると共に、消える。
壱織は空中で翼を少したたんでから、その翼の外面を覗きこんで悲鳴を上げる。
「ああっ! この俺のこの世のものとは思えないほど美しい翼が、煤だらけになってる!! これだからケダモノは嫌いなんだよ! 野蛮だからっ!!」
野狐よりも妖力が高い壱織は、狐火に包まれたにも関わらず翼が焼けることはなかった。
千晶も野狐と同じ年数を生きている分、おそらくは妖力は互角であるはずだが、力量としてはやはり狐は狼よりも劣る。
壱織の嘆きの声を他所に、突然ふと野狐の耳元で声がした。
「――どこを見ている」
これにハッと振り返った野狐の目の前には、金狼姿の千晶がいた。
驚愕のあまり声を出すこともできずに、目を見開く野狐。
更に反対側から、鈴丸の声が聞こえた。
「貼ーった!」
気が付くと、腰の部分に依り代が貼り付けられていた。
狼狽する野狐の首元を、突然千晶が喰らいついた。
「ギャン!!」
悲鳴を上げて野狐は、その牙から逃れようと必死に抵抗を始める。
もつれ合う狐と狼。
亜空間に響く獣の唸り声と悲鳴。
邪魔にならないように、人の姿のままでいる鈴丸は直ちに五回連続でバク転をしながら、その場から素早く離れる。
体格の差でも、狐と狼とでは歴然としていた。
気が付くと、千晶の顎の力で首を締め付けられていた野狐は白目を剥き、ビクビクと大きく痙攣をしていた。
千晶は野狐の胸部を片足で踏みつけると、問答無用にその喉を噛み破った。
勢い良く吹き出す鮮血。
野狐の体はそのまま倒れこみ、後はもうピクリとも動かなくなっていた。
人の姿に戻ると千晶は、死んだ野狐を足蹴して転がしその腰に付いている依り代を剥がす。
野狐の妖力を吸収した依り代は青白く光っていたが、徐々に収まっていった。
依り代を剥がされた野狐の肉体は、瞬時に炭化するとボロボロと瓦解し消えてなくなった。
「さすがケダモノ。敵には回したくねぇもんだ」
壱織は呟くと、パチンと指を鳴らした。