其の捌拾壱:十円玉の行方
本日、生物学の時間。
チャイムが鳴って千晶が白衣姿に眼鏡のスタイルで、爛菊達の教室に入ってきた。
だが彼の後ろから、ビニール手袋とマスクをして白衣の様相の男がもう一人。
保健医の壱織だ。
教室中がざわめく中、教壇に立った千晶が口を開く。
「えー、今日は生物学の授業を変更してぇー、保健体育の授業を執り行う」
これに壱織はうんざりした様子で、渋々千晶の隣に立っている。
女子達は、興奮を抑えるのに必死のようだ。
「では、飛鳥先生、どうぞ」
千晶はぶっきら棒に言ってから、角にあるデスクの椅子に腰を下ろした。
どうして壱織が突然教鞭を執る羽目になったのか。
それは勿論、千晶と鈴丸の仕業だった。
今日一日、千晶の言うことを聞けば爛菊をケダモノ扱いにしたことを許す。それが無理なら、また保健室に泊まると言い出したからだ。
よって壱織は窓際の席にいる爛菊を意識して、チラリと視線を向ける。
これに彼女と目が合ってしまったが、爛菊はプイとそっぽ向いてしまった。
相当ご機嫌斜めなのが窺える。
この世にも美しい俺を平然と無視できる女がいるとは……内心密かに思いつつ、壱織は一つ咳払いをした。
「本日は、雅狼先生の希望により、保体の授業を執行する。テーマは喫煙についてだ」
これに生徒達は生物の教科書を引っ込めて、保健体育の教科書を取り出す。
「教科書四十八ページ。そこにある“喫煙と健康”の項目にある文を今から朗読していくので、皆も後を追って黙読するように」
そう言った後、壱織はチラリと千晶の方へと視線を向ける。
すると彼の視線に千晶は、先を促すように虫を追い払う仕草で手を振った。
壱織は面倒そうにチッと舌打ちすると、改めて教科書を読み上げ始める。
「現在、喫煙している人の60%が未成年で煙草を吸った経験があり、若い時からの喫煙が習慣化していることが分かっている。保健の授業では、煙草の有害性についての科学的根拠を学習することは勿論、喫煙開始から継続の要因となっている他者からの“誘い”を取り上げ――」
壱織がつらつらと読み上げていると、突然鈴丸が挙手した。
「はい先生」
これに壱織は一旦読むのをやめて、鈴丸へと怪訝な表情で顔を向ける。
「声がマスクのせいでくぐもっていて、言葉がよく分かりません」
そう指摘され、眉宇を寄せる壱織だったが嘆息吐くと、渋々マスクを外す。
途端、女子からのキャアという歓声が上がって、一気に抑えていた興奮が爆発した。
これに男子達はどよめく。
急に騒々しくなった教室の様子に、壱織はあからさまに嫌悪感をむき出しにした。
「騒ぐな女子! 空気が澱む! 唾の飛沫が拡散する!!」
顔を背けながら、片手を前方に突き出して制止を促す。
それでも余計、壱織のこのポーズに女子達は悲鳴を上げる。
「超カッコイイ!」
「何やってもイケてるんですけど!」
などの声に、壱織はうんざりとした様子で内心思った。
美しすぎる俺が悪いのか、と。
「いい加減にしないと、またマスクをつけるぞ!」
壱織のこの言葉に、ピタリと静まる女子達。
だが興奮は治まらないようで、そわそわしているのが分かる。
これに爛菊は嘆息を吐きつつ、窓際の席から頬杖を突いて外を眺めている。
一方、鈴丸はクスクスと忍び笑っている。
千晶に至っては他人事のように、保体の教科書をパラパラとめくっていた。
こういうのが面倒だから、わざとだらしなく演じているのだと言わんばかりに。
壱織はげんなりした様子で、再び教科書の続きを朗読し始めた。
やがて、ようやく授業を終えると壱織は足早に教室を後にし、保健室へ戻って我が身を消毒せんとばかりにうがい薬で、口腔内を洗浄するのだった。
女子達からは、壱織のことを“白衣の貴公子”と呼ばれ始めていることも気付かずに。
ちなみに鈴丸は“爽やかミント系王子”と囁かれていた。
何はともあれ、これで千晶の要求は済ませた。
もう今後、今回のように保健室を私用に使われることもないはずだ。
突然予定にないことをしたので、壱織はドッと疲労を覚えた。
デスクの側に置いてあるマッサージチェアに身を委ねると、スイッチをオンにして優しく筋肉をほぐしながら壱織は目を閉じた。
昼休憩の時間。
三人の女子生徒が教室で“こっくりさん”を始めていた。
五十音に“はい”“いいえ”と鳥居の書かれた紙の上で、十円玉に三人それぞれ人差し指を置き、呪文を唱える。
「こっくりさん、こっくりさん。いらっしゃいましたら、こちらへお越しください」
三人は息を合わせてそう口にする。
おもしろがって見物している数名の男子生徒達。
「今時こっくりさんとか……」
「小学生のガキじゃねぇんだから」
「女って物好きだよなぁ」
するとスィと十円玉が鳥居から動き出し、“はい”を告げる。
これににわかに興奮する女子生徒の三人。
「どうしよう。何を聞く?」
「やっぱり保健医の飛鳥先生のこととか!」
「そうだよねぇ! えっと……こっくりさん。今、保健医の飛鳥先生に好きな女の人はいますか?」
これに十円玉は“いいえ”を示す。
それに希望を見出す女子生徒達。
「将来、飛鳥先生に恋人はできますか?」
“はい”
「この三人の中に、該当する人物はいますか?」
“はい”
咄嗟にキャアと女子生徒達は歓声を上げる。
三人は輝くばかりの笑顔で、それぞれと視線を交わす。
「それは誰ですか?」
三人の女子生徒は期待に胸を膨らませながら、動き出した十円玉の行方を目で追う。
男子生徒達も覗き込む。
“み、ず、し、ま……”
これに水島という女子が、嬉しそうな反応をする。が、更に十円玉は動く。
“……は、ち、が、う”
それに一気にガッカリとする水島。
“あ、き、づ、き……”
今度は秋月が喜びを露わにするが、やはり十円玉は動き続ける。
“……は、ち、が、う”
肩を落とす秋月。
残るは、国分という女子。
ドキドキしながら十円玉の動向を窺う。
“こ、く、ぶ、ん、お、ま、え、だ”
そう記して、十円玉は鳥居へと戻る。
「キャア! ヤッタァ!!」
国分は喜んではしゃぎ声を上げた。
だが十円玉は、まだ誰の質問も聞かない内に勝手にゆっくりと、動き出した。
これにエッと三人は疑問の表情になる。
“お前が供物に選ばれた”
「え……?」
「何……?」
「どういう意味?」
“お前の肉体をもらう”
「!? イヤッ!!」
咄嗟に、国分は顔を青ざめて十円玉から手を離してしまった。
「おいおい!」
「それって途中で手を離したらダメなんじゃねぇの?」
「とりあえずこっくりさんには帰ってもらえよ!」
傍観していた男子生徒達が口々に言った。
残った二人の女子、水島と秋月は恐る恐るながら口を揃える。
「こっくりさん、どうぞお帰りください」
すると十円玉は素直に“はい”と答えると、鳥居の方へと戻って行った。
水島と秋月はふぅと一息吐いて、十円玉から手を離す。
すると。
「――ただいま」
突然、国分がそう口にした。
これに水島と秋月、そして男子生徒もギョッとした顔で国分へと顔を向ける。
「帰ってきたぞ。これでもう、こいつの体は我の物だ」
国分は濁声で言うと、みんなに向かってニヤリと不気味に笑った。
「どうしたの国分さん!?」
秋月が口元を引き攣らせる。
すると国分は筆入れからカッターを取り出しながら、言った。
「我はただでは召喚されん。召喚するからにはそれに見合う捧げ物が必要だ。その捧げ物に、この女の肉体が選ばれたのだ。それで、“ホケンイ”とやらに会う為には多少の怪我が必要なのだろう? この肉体の脳がそう言っている……」
国分は勝ち誇ったような笑みを見せると、キリキリとカッターの刃を出し、机の上に突いた片手の甲にそれを突き刺した。