其の捌拾:潔癖症の妖
「お前などに話すことは何もねぇから失せろ」
保健医の飛鳥壱織は、辟易とした様子で長椅子でくつろぐ千晶へと吐き捨てる。
「で、どんな理由でこの“汚らわしい人間界”にいなければならないんだ?」
千晶はそんな壱織の様子を全くお構いなしに、話を続ける。
千晶の図々しさに、壱織は唖然とした。
「狼に懐かれるつもりはねぇぞ俺は」
「誰が悲しく鶴ごときに懐くか。話を聞きたいだけだ」
「話せばここから出て行くんだな?」
「ああ」
不満気な顔をする壱織に、千晶は快く承諾する。
これに壱織は大きな溜息を一つ吐いて、車輪のついた椅子に座ると口を開いた。
「……俺のお祖母様にな、人間に恩返しする修行をしてこいと言われてだ」
「恩返しだと? ……――もしかしてお前の祖母は、鶴の恩返しのあの鶴か?」
「その通り」
「じゃあ保健医になったのも、恩返しを兼ねてか?」
「それも一理あるが、保健医は一人の時間を過ごしやすいからと言う本心からの、お祖母様を誤魔化す為の表向きの顔だ」
「しかしそれだけ潔癖症が酷いと、傷病を負った人間を相手にするのはもっと汚らわしいんじゃないのか?」
「そこは大丈夫」
壱織は言って椅子から立ち上がると、背中から翼を現してバサリと一度羽ばたかせ、翼に手を回す。
その手には、一枚の羽根が握られていた。
「これで軽く触れれば治癒が可能だ」
「ほお。お前、治癒能力を持っているのか」
「フッ。まぁ、俺くらいの妖になると、それくらいはお茶の子さいさいだぜ」
壱織は言うと、気取って前髪を軽く掻き上げる。
これに千晶は納得したように首肯した。
「それはそれは。そういうことなら俺達はお前を歓迎しよう」
言いながら千晶は、長椅子から立ち上がる。
「は!? 何だと? 別に俺はお前らから歓迎される言われはねぇから。俺は俺で勝手にやるから今後構わず放っといてくれ」
「じゃ、またな飛鳥」
心外とばかりに言う壱織の主張を無視して、千晶は悠然と保健室を後にした。
ポツンと保健室に取り残された壱織だったが、ハッと思い出したように消毒スプレーとウェットティッシュを手に取り、今しがた千晶がいた所を念入りに掃除を始めた。
そして落ち着いた壱織は、一息吐くとデスクに戻る。
「さて、続き続き……」
呟きながら、彼は途中までだった編み物を再開した。
そう。壱織の趣味は遺伝によるものなのか、刺繍や編み物だった。
夕方。
爛菊は下校するとまず先に必ず、お風呂に入る。
朱夏が来てからは彼女が用意してくれるので、手間が省けて制服を脱いだ側から入浴ができた。
髪をドライヤーで乾かして、着物に着替えると本邸のダイニングへと向かう。
テーブルには、もう夕飯が並んでいた。
「みんな! ご飯の用意ができたわよ!」
朱夏からの声掛けに、それぞれの部屋から千晶と鈴丸が出てくる。
リビングでテレビゲームをしていた雷馳も、コントローラーを放り出しテーブルに着く。
そしてみんな揃ったところで夕食が開始されたが、本日の食卓での話題はやはり鶴の妖、飛鳥壱織の件だった。
「ねぇランちゃん。そんなに壱織が許せないんだったら、あいつの妖力半分吸収しちゃえば?」
「冗談でしょ!? あんな失礼な奴の妖力なんて、こっちから願い下げよ!」
「何だ、どうした。爛菊、あの飛鳥に何かされたのか?」
剣呑な思いを覚えて心配する千晶。
「ランちゃん、壱織に無礼な態度をされてご機嫌斜めなんだ」
鈴丸の言葉に、千晶は納得する。
そして千晶と鈴丸は同時に口を開く。
「まぁ、あれだけ極度の潔癖症だったらな」
「まぁ、あれだけ究極のナルシストだったらね」
これに二人はお互いに顔を見合わせる。
そしてまた二人同時に、声を発した。
「ナルシストの上に潔癖症!?」
それまで黙って話を聞いていた朱夏が、口を挟む。
「何だか面倒くさそうな相手ね」
「うん。うちの学校に養護教諭として来た男なんだけどね、鶴の妖なんだ。しかも、あの有名な昔話にある鶴の恩返しの孫!」
鈴丸は愉快そうに答えた。
「飛鳥はその祖母からの命令で、人間界へ恩返しを兼ねて人間界にいるらしいから、害はない。ただ、あいつは治癒能力を持っている。今後何かと利用価値はありそうだから、奴の妖力吸収はどのみちしない方が賢明だな」
「ふむ。治癒能力があるから、その鶴は保健医になっておるのか」
千晶の言葉に、雷馳も自分なりに納得する。
「とりあえず爛は、あの男と関わりたくはない」
爛菊の不機嫌さが、今の話題で更に蘇った。
「一体、何を飛鳥からされたんだ」
千晶の問いに、不愉快そうに口を噤んでいる爛菊の代わりに、鈴丸が答える。
「野蛮だとか、淫行だとか言われたの」
すると突然、これに反応したのは雷馳だった。
「何じゃとぉ!? ラン殿にそんな無礼な言葉を使うのは許せん! ラン殿はまだ清らかな乙女だと言うのに! ラン殿の敵は、わしの敵じゃ! のぅ、お母さん!!」
「そうね。女の敵ね」
朱夏も、爛菊の真意を忖度して頷いた。
「よし。じゃあ俺が仕返ししてやろう」
「おもしろそう! 僕もやる!!」
千晶の言葉に、鈴丸も挙手した。
翌日の朝。
壱織は学校に出勤してくると、職員室でタイムカードを押してから保健室へと向かった。
早めに来たので、まだ生徒の数も疎らだ。
彼が早めに出勤するのは、なるべく多くの人――または生徒――とすれ違わないまま、保健室へと行けるからだ。
保健室に入ってしまえば、一人の時間を堪能できる。
そうして壱織は、そそくさと保健室の引き戸を開ける。
当然だが、誰もいない。
壱織は鼻歌を口ずさみながら、中に入るとピシャリと引き戸を閉めた。
デスクに着くと、ひとまず昨日の昼休みに千晶が持って来た資料に目を通す。
生物学と保健医は、僅かなところで繋がりがある。
今回は細菌などについての、警告ポスターを取り寄せる為だった。
その時突然、壱織の膝に何かが飛び乗ってきた。
ギョッとして見ると、そこには――。
「ミャオン」
「ひぃぃぃぃっ! ねっ、猫ぉぉおぉ~!?」
壱織は絶叫を上げて、椅子から飛び退いた。
そこには二又の尻尾を持った三毛猫が、金と青のオッドアイで壱織を悠然と見つめていた。
「なんで! なんで!? どうしてここに猫がいる!?」
そして自分のズボンを見て、更に絶叫する。
「けっ、毛がついたじゃねぇか! 汚らわしい!!」
壱織は大慌てで転がすタイプの粘着テープへと手を伸ばし、コロコロとズボンに付いた猫の毛を取り除く。
すると、今度はどこからともなく呻き声が聞こえた。
「う、う~ん……うるさいぞ……もう朝か……?」
これに束の間硬直してから壱織は、物凄い形相で側にあったカーテンを開け放った。
そこにはベッドがあり、明らかに誰かが寝ている。
だが頭には獣耳が、そしてベッドには尻尾が出ていた。
「こ、の……っ、ケダモノがあぁぁぁーっ!! さっさとベッドから出やがれ! 何て不衛生な!!」
「ああ、おはよう飛鳥」
「おはようニャン、飛鳥先生」
上半身を起こして伸びをしている千晶に続いて、猫から人の姿になったが耳と尻尾だけは残している鈴丸が、背後から壱織へと肩越しに両腕を回してきた。
「ギャアアア!! 獣が図々しくこの高貴な俺に触るなぁぁぁーっ!!」
壱織は叫びながら、鈴丸の手を振り払って逃れる。
「おっ、お前ら、一体いつからここに!!」
「一晩アキと一緒にここに泊まったの。ベッドも二つあるからね。でもお楽しみはこれからだよぅ~!」
鈴丸がこの上ないくらいの、意地悪な表情を壱織に見せる。
「何やら、俺の妻を野蛮呼ばわりしたとか」
「それはあの女が突然俺に、ビンタをしてきたからだ!」
「でもその前に、壱織の方から淫行呼ばわりしたからでしょ。自業自得じゃん」
「この俺以上の美しさは他にいない。しかも女という生き物は好きこのんで淫行をしようとする。不潔だ」
「それは一方的なお前の偏見だろう」
千晶は壱織の言い分に、呆れる。
彼の言葉に、一瞬言葉を詰まらせたものの、思い出したように壱織は声を荒げる。
「とにかく!! 今からベッドの掃除をしなくてはいけなくなったじゃねぇか!! 早く出て行けよお前ら!!」
「そうか。今日一日、忙しくなりそうだな飛鳥」
千晶は腰を掛けていたベッドから立ち上がると、悪辣な表情を浮かべた。