其の柒拾参:親子の愛情を求めて
気のめいるような雨の音。
少しずつやんできていた雨音が、今新たに降り始めたかのように勢いを盛り返す。
これを窓越しから外を眺めていた鈴丸は、実際気がめいっていた。
「ヤダなぁ~、もう。今日が雨なんて、天気予報では言ってなかったじゃん。これじゃあ洗濯物が外に干せないよ。室内干しは臭くなるからヤダし」
四月に降る春の雨は、時期としてはやはりまだ冷たい。
一度だけ、どこか遠くで雷鳴が聞こえた。
これに敏感に反応し、獣耳をヒョコンと飛び出させてしまった人物が一人。
「春の嵐の割りには激しいわね。多分この様子だと雨、やみそうにないみたい」
爛菊の言葉に応えるようにして、ついに稲妻が雨風で白濁する景色を切り裂く。
それを見て鈴丸は、重い溜息を吐いた。
「今日はコインランドリー行きだね……」
「じゃあ爛も連れてって。自分の分の洗濯物があるから」
朝食を終えて、リビングでお茶を飲んでいた爛菊が彼に頼む。
下働きを務めている鈴丸が、みんなの汚れ物を洗濯するのだがやはり、爛菊は女だという理由もあり自分の分は自分で洗濯している。
本邸と離れとで、洗濯機が二台あるのだ。
一方、千晶は自分の斜め横に座っている雷馳を、お茶を飲みながら視線だけで白々と見ていた。
目を輝かせ、太くて平たい大きな尻尾を振りながらそわそわウズウズと、落ち着きない雷馳に千晶がボソリと言った。
「行って来い」
「えっ!?」
彼の一言に、雷馳の獣耳がピクリと千晶の方へ向く。
「やりたいんだろう? 稲妻乗り」
「うむっ! 行ってきて良いか!? 行ってきて良いか!?」
「うるさい。何度も同じこと言わせるな。行って来い!」
「ヒャッホーイッ!!」
喜びを口に出すや否や、たちまち人の姿から雷獣の姿に変化する雷馳。
これに気付いて窓を開けた鈴丸を横目に、カワウソとムササビが合体したような獣姿で、雷馳は両手足にある膜を広げると重く垂れ込めている雨雲の中へと、飛び込んで行ってしまった。
「こんな日を喜べるのは雷獣くらいだよ……」
「他にもいるけどな」
再び嘆息吐く鈴丸に、さりげなく口にする千晶。
「ゥミャ~ウ……」
テイルは鈴丸の足元で、せっせと前足で顔を洗っていた。
迸る稲光の中に身を任せ、心地良さそうに稲妻乗りを愉しむ雷馳。
雲の合間を縫うように稲光が走る度に、バリバリとまるで木が裂けるような乾いた、甲高い音を立てる。
雷馳の体内には、雷槌のエネルギーが補充されていく。
「美味いのぅ、最高じゃのぅ、春の雷は格別じゃ」
雷獣姿の雷馳は更に発生した別の稲妻へと跳び移って、流されるままに滑空する。
するとふと、声が聞こえた。
「おい。アイツあの孤児の野郎じゃねぇか?」
「ホントだ。最近見ねぇと思ったら、こんな所にいやがった」
「ハッ! お、お主ら……いつもわしを小馬鹿にしてくる下々の小僧どもか!!」
雷馳は言うと、墨を零したような色をした雨雲に着地した。
稲妻と同化できる雷獣は、雲に乗る能力が備わっているのだ。
そして雷馳と声の主は人の姿に変化した。
「クハハハッ! おい、こいつまだジジイみたいな喋り方してるぜ!」
「何だっけ? 本当は王族の血を受け継いでいるとか、嘘ぶっこいてたよな!」
二人のいじめっ子は言葉を交わすと、一緒になって雷馳を指差して爆笑を始めた。
確かに、雷馳が嘘をついたのは事実だった。
孤児である雷馳は、雷獣国で最も権力のある立場を後ろ盾にして、我が身を守ろうと必死だった。
これに雷馳は言葉を詰まらせると、唇を噛み締めて俯く。
このいじめっ子二人は、雷馳より十年分は年上だった。
きちんと両親もいる。
親の愛情を受けて育ったいじめっ子達は、親の愛情を受けたこともなく自力で生きてきた雷馳を、雷獣国のクズとして扱っている。
「クズが一丁前に稲妻乗りかよ!?」
「雷獣の恥だからこれからは、もう稲妻乗りするな」
これに雷馳は下で拳を握りしめ、必死に応酬した。
「雷獣が稲妻乗りをするのは本能じゃろうが! それにそうしなければ体内に雷を蓄積できずに死んでしまう!!」
するといじめっ子二人は腕を組んでふんぞり返ると、顎を上げて言い放った。
「てめーなんか死ねばいいんだよ」
「どうせ悲しむ奴は誰もいねぇって!」
そうして二人は大はしゃぎして、大爆笑して見せる。
――悲しむ奴は誰もいない――
この言葉に衝撃を受けて、雷馳の頭の中で反芻された。
自然と、ポロリと涙が一粒、零れる。
とても哀しくて、そして悔しかった。
どうして両親が揃って愛されているのが、このいじめっ子達なのか。
それが恨めしくて堪らなくなった。
雷馳には、親は勿論のこと兄弟も友達もいない。
誰も、いないのだ。
直後、雷馳の中で生まれた悲愴感が平静さを上回った。
「ぅわああああああああぁぁぁぁーっ!!」
雷馳が叫ぶと同時に、紅い電流が彼の全身を纏った。
これにいじめっ子二人組は、驚きを露わにする。
紅い雷は、百年以上生きた上に戦闘能力の経験値が高くなければ発揮できない、雷獣の中でも高度な技なのだ。
おそらくは巨大ムカデとの激闘や、爛菊達と一緒になっていくつか他の妖を倒したのが、雷馳の妖力の成長を急速に高めたのかも知れない。
更には、人間界で学校に通い始めて得た知識も含めて。
百年超えの雷獣と比べればまだまだささやかな程度だが、それでも百年未満の雷獣相手にとっては紅い雷は驚異的だ。
普通の雷ならば雷獣同士でぶつかっても効果は平等だが、紅い雷は雷を操る雷獣への攻撃としても効果があるからだ。
「ヤベェ!!」
「逃げろ!!」
いじめっ子達は雷馳に背を向け逃走しようとしたが、既に遅かった。
紅い雷槌がいじめっ子二人の上に落雷する。
ギャッと叫んで二人共、その場に倒れてしまった。
これで冷静さを取り戻した雷馳は、まさか殺してしまったのではないかと恐れて、二人の元へと駆け寄る。
そして確認してみると、どうやらただ気絶しているだけだと解かる。
死んでいないことに安心すると、雷馳は逃げるように再度稲妻に乗ってその場から離れた。
やがて山中の地上に下りると、雷馳は出しっぱなしの獣耳を後ろに倒し、大きく平たい尻尾は地面に引きずるように雨の中、トボトボと歩き始めた。
するとガサッと茂みが動き、赤ん坊を抱いた一人の女が姿を現した。
これに雷馳は足を止め、虚無的な表情で濡れた黒髪の女を見つめる。
「可愛らしい坊やが雨の中、こんなところで何をしているの」
「何……? うぅん、別に何も……」
雷馳は呟くようにポツリと口にする。
「まぁ、いいわ。坊や、良かったらこの赤ちゃん、抱いてくれない?」
女は腰まで長い濡れた黒髪を垂らしたまま、雷馳へと歩み寄ると腕の中の赤ん坊を、腰を屈めて見せた。
彼女の腕の中にいる赤ん坊をしばらく見つめて、雷馳はポツリポツリと語り始める。
「いいのぅ、この赤子は……。ちゃあんとこうして母親が側にいる。でもわしには、母親どころか父親も、誰もいない……物心ついた時から……」
無意識に、また雷馳の目から涙が零れた。
それに気付いてハッとした表情をした女は、慌てて腕の中の赤ん坊を投げ捨てる。
「あ……っ!」
驚く雷馳に、女は答える。
「今のはただの石よ、本当は。私は産女……または姑獲鳥と言って、石を赤ん坊に変えて人に抱かせ、身動きを取れなくさせてしまう妖怪なの」
姑獲鳥とは、出産時に無事赤ん坊を産むことができずに死んでしまった産女が、妖怪化したものだ。
よって姑獲鳥は、常に子供のことを第一に想っている淋しい妖怪だった。
「いらっしゃい、坊や……」
姑獲鳥は、優しい表情を浮かべて両手を広げる。
これにフラリと、雷馳は倒れ込むように身を委ねる。
「親なしなのね、坊や……可哀想に」
姑獲鳥は雷馳を抱きしめると、その水色の髪を優しく撫でた。
「わしには……わしが死んでも悲しむ者は誰もおらんのじゃ……そう、いじめっ子達に言われた……生きていても死んでいるようなものじゃ……」
姑獲鳥の腕の中で、ボンヤリと雷馳が呟く。
すると姑獲鳥は雷馳から体を離し、両手を肩に置いてジッと見つめてきた。
暫しの沈黙の中で、葉を打つ雨音だけが響く。
「ボクさえ良ければ、私の子供になる……?」
「え?」
「つまり、私が君のお母さんになるってこと。どう?」
「お、母さん……に……?」
「ええ」
ニッコリと笑うと姑獲鳥は、改めて名乗った。
「私は朱夏。君は?」
「わしは雷馳……雷獣じゃ」
「種族なんて関係ないわ。雷馳」
「ほ、本当にわしのお母さんになってくれるのか……?」
それまで虚ろだった雷馳の目が、光を帯びる。
「ええ、雷馳。私もずっと子供が欲しかったから。なってくれる? 私の子供に」
これに次から次へと涙を流す雷馳。
「朱夏……朱夏お母さん!!」
泣き喚きながら抱きしめてきた雷馳を、再び抱きしめ返す朱夏。
「家はあるの?」
「うむ。居候になっている所がある」
「じゃあ、そこへ送ってあげるわ」
そうして朱夏は背から灰色の翼を出現させると、雷馳を抱いて千晶の家へと向かった。