其の柒拾弐:雲外鏡への扱い
「百年」
「何ぎゃと!?」
抑揚のない口調と冷ややかな目で見下してきた千晶に、雲外鏡は聞き返す。
「百年分だ。今回の貴様の失態により、百年分の妖力を分けてもらうぞ」
千晶と雲外鏡の取り引きが始まったのを他所に、鈴丸はテイルの為に早速キッチンへと向かい、ソフトフードの入っている缶詰を取り出している。
「本来なら貴様を、拳で叩き割ってやるところだ」
言いながら千晶は、ゆっくりと拳を持ち上げた。
これに雲外鏡の表情は必死なものに変わる。
「待てっ! 待て待て落ち着け! オイラも女房からの伝心で散々嫌味やら文句やらと責められて、我ながら自分がしでかしたことを反省させられたところだぎゃ!!」
雲外鏡に手はないが、もしあったのならそれを突き出さんばかりに慌てふためいた。
「オババはどこに行ってしもたのじゃ?」
「呉葉はきっと嶺照院に戻ったはずよ。爛たちが戻ってくるまで待っていられないだろうから」
雲外鏡に怒りを向けている千晶を他所に、雷馳が口にした疑問を爛菊が答える。
「そもそも話も聞かないうちに、俺の妻に行った仕打ち許すべからずか」
「ひっ、久し振りに箱から外に出してもらってオイラも、興奮して調子に乗ってしまったのぎゃ!」
「おかげで俺の妻は散々な目に遭わされたのだ。しかもよりによって荒廃地区に送りやがって……」
「てっきりただの人の娘かと思って……」
言い淀む雲外鏡に、千晶は憤怒の形相を見せる。
「だから話を聞かなかった貴様が悪いんだろうがっ!」
「もっともぎゃ。すまんかった……だから百年分は勘弁してくれ! でなくばまた百年分の妖力を溜めなぎゃいけなくなるぎゃ!」
雲外鏡は必死の形相で、千晶と交渉する。
「フン……まぁ、司の分の妖力を吸収したし、あまり慌てて完全体に戻ろうとしても、まだ人間的の肉体がいきなり増幅した妖力に耐え切れず、暴走する危険もあるからな……。敢えて、百年分は目を瞑ってやろう……」
すると爛菊が、二人の間に入ってきた。
「この狼の耳と尻尾、まだ自力で戻せないの。だから自由に耳と尻尾を出し入れできるくらいの、妖力を分けてくれればいい。雲外鏡」
これに雲外鏡は目を輝かせる。
「その程度でいいなら、喜んで妖力を分けてやるぎゃ!」
「何か、思いのほかケチじゃのぅ雲外鏡は」
皿にあるキャットフードを食べている、テイルの側にしゃがみこんでいた雷馳が感想を口にした。
するとそれに答えるように、雲外鏡が言った。
「分ける妖力が多すぎると、異界の入り口の能力が失われてしまうぎゃらな」
そう聞くや、千晶は納得する。
「せっかく入手した異界の扉が失われるのは惜しいな。いいだろう。そこまで差し障りのない程度の妖力を、彼女に分けてもらおう」
「今回の詫びの意味も含めて、妖力を分け与えるぎゃ。嶺照院爛菊」
雲外鏡は、途端に真面目な表情で指摘するように言った。
すると千晶が否定した。
「違う。彼女の本当の正体は、雅狼朝霧爛菊だ」
だが雲外鏡は、冷静な様子で口にする。
「それは妖名だぎゃ? こっちではあくまでも嶺照院爛菊だぎゃ。それを条件にこの娘とオイラは今現在、契約状態にあるぎゃ」
「? どういう意味だ」
これに雲外鏡は意味深に表面を、キラリと輝かせる。
「オイラは今から二百年前に、この人間界の天皇が嶺照院に授けた鏡だぎゃ。よって、オイラは嶺照院に仕える立場。当主がその娘にオイラを与えた時点で、娘とオイラは侍従の立場になったぎゃ」
しかし千晶は、雲外鏡の言葉に腕組みしてふんぞり返った。
「じゃあ何か貴様。その主である爛菊を異界に飛ばしたということか。大した度胸だな」
それに雲外鏡は慌てて言い訳を述べる。
「久し振りに箱から外の景色を見た時に真っ先に会ったのぎゃ、あの戸隠の鬼女だったものだから、警戒してつい妖力縛りが解けた時、勢いで異界の扉をぶっ放してしまったぎゃ! 何せ妖力吸収だの何だのと不穏な会話をしている上に、周りは妖だらけだったから混乱もするぎゃ! それでつい本性を現してしまったぎゃ」
それまで黙って千晶と雲外鏡のやり取りを聞いていた爛菊が、口を開く。
「ではあなたは今現在、爛の下僕状態にあるのね?」
「そうだぎゃ」
雲外鏡の肯定の言葉に、千晶は威圧的に言い放った。
「だったら尚の事、爛菊に逆らわず黙って妖力を分けろ」
「分かったぎゃ」
こうして何だかんだとあったが爛菊は、改めて雲外鏡から妖力を分けてもらった。
その後、爛菊は未だに出しっぱなしになっている狼の耳と尻尾に意識を集中すると、ふとそれらは体内に隠しおおせることに成功した。
「良かった。あのままだったら外も歩けなかったわ」
爛菊はホッと胸を撫で下ろす。
「早く完全体に戻れば、そのような苦労をせずに済むのにのぅ。正直、耳と尻尾を出している方が楽じゃろう?」
雷馳に言われて、爛菊は首肯する。
「そうね。確かに多少の窮屈感は残るわね」
すると今度は、鈴丸が口を開く。
「僕達、獣の妖はみんなそうだよ。まぁ、ある程度妖力が上がれば体の一部として馴染んでくるから、少しは楽になるけどね」
そんな中、千晶はまだ雲外鏡を前にしていた。
「とりあえず、お前を今後どうしてくれようか」
抑揚のない冷ややかな千晶の言葉に、爛菊が答えた。
「床の間に……離れの客間にある床の間に置いたらどうかしら。一応、付喪神っていうこともあるし」
「こんな第三者に俺達の生活を見聞きされていると思うと、安心できん」
あくまでも千晶の態度は冷たい。
しかし雲外鏡は挫けることなく、寧ろアドバイスしてきた。
「そこは大丈夫だぎゃ。嶺照院の娘が下す命令に、オイラは従わざるを得ないぎゃら」
「つまり……ランちゃんが例えば“眠れ”とか“目覚めろ”とか命令すれば絶対的に逆らえないってこと?」
鈴丸の質問に、雲外鏡は表面に浮き出している顔を、首肯させる。
「その通りだぎゃ」
これに爛菊が、何かを思い出すように人差し指を顎に当ててから言った。
「そういえば神社でもよく鏡を祀ってあるわね。お餅とお酒を供えて」
爛菊の何気ない言葉に、雲外鏡は目を輝かせた。
「餅と酒を供えてくれるだぎゃ!? オイラは嶺照院の下僕なのに!?」
「え、ええ、まぁ……。天皇から授かったことと、それに三種の神器にも鏡があるから、一応……」
爛菊は戸惑いながら言う。
「本気か爛菊! こいつはお前を死なせかけたような奴だぞ!?」
千晶が驚愕の表情で指摘する。
だが爛菊は落ち着いた様子で答えた。
「もう過ぎたことだし、爛もこうして無事だったし、雲外鏡もわざとではなかったみたいだし、それにどうせ離れの客間は誰も使わないじゃない。床の間に祀ってもそういう意味ではプライバシーの見聞きも不可能でしょう? 供物をあげる時以外は眠らせておけばいいわけだし」
彼女の意見を聞いて、雲外鏡は涙を流しながら言った。
「ありがとうだぎゃ、ご主人様!」
こうして、千晶にとってはおもしろくはなかったが、雲外鏡は離れの客間の床の間に飾られることになった。
ちなみに単純に丸い形をしている雲外鏡は、桐箱に一緒に入っていた雲の模様が彫刻された鏡を支える台に乗せられる。
そして爛菊は静かに雲外鏡へ、声をかけた。
「今はまだお眠り、雲外鏡」
彼女の命令に、鏡の表面に浮き出ていた顔が、中へと吸い込まれるようにスゥと消えた。
「またこの家の同居人が増えたな」
リビングにて千晶の投げやりな言葉に、鈴丸が笑って答える。
「雲外鏡はいるもいないも一緒じゃない? 供物を与える以外はほとんど意識はランちゃんに眠らされてるわけだし、異界の方の雲外鏡と違ってこっちでは自由に動けないんだから」
爛菊は雷馳と一緒に、手軽で簡単な餅を作っていた。
時々雷馳がつまみ食いをしている。
そんな光景をリビングのソファーで、千晶は眺めながら言った。
「まったく。相変わらず健気なことだ。爛菊らしい……」
前世の頃の爛菊を思い出しながら。
ちなみに少しまだ窮屈感に慣れないという理由から、爛菊はこの家の中だけでは狼の耳と尻尾を出しっぱなしにすることにした。
雷馳との餅作りが楽しいと見えて、彼女は真珠色に輝く白銀の尻尾をパタパタ振っている。
これにさっきまで不機嫌だった千晶は、彼女への悪戯心を覚えてソファーから立ち上がり、キッチンへと歩み寄る。
彼に背を向けている爛菊は、それに気付かない。
片栗粉が顔に付いている雷馳を見て、愉快そうに笑っていた。
が、突然背後から尻尾を掴まれて、思わず爛菊は喘いだ。
「ヤァァ~ン!」
「ククク……やはり尻尾が性感帯の一部なのも、前世と一緒か。それでこそ俺の爛菊だ」
しかし、すっかり恥ずかしさで顔を紅潮させた爛菊が、彼へと振り返ったかと思うと彼女の平手打ちが炸裂した。
「千晶様のエッチ!!」
左頬に真っ赤な手形をつけてリビングに戻ってきた千晶に、鈴丸が冷静に言った。
「ホント、異界の遊郭での変身と言い、今と言い、つくづく場所をわきまえないね。アキってば」
「ちょっと確認したかっただけだ……」
呟くように言うと千晶は、何事もなかったかのようにテーブルにあるコーヒーを啜るのだった。