其の柒拾壱:人間界への帰宅
客間で朝食を終え、茶を飲みながらくつろいでいる四人だったが、そのうちの一人はくつろいでいると言うより苦しんでいた。
「いたたた……うぅ、頭痛いぃ~……」
鈴丸は頭を抱えながら、うつ伏せに畳の上で倒れていた。
「お前がまたたび酒なんていう、三流もののひどい酒を呑むからだ」
「猫又族にとってはまたたび酒は三流じゃないもん……上等酒だもん……ただ単純に呑み過ぎただけだもん……うぅぅ……」
他人事のように呆れながら言う千晶に、何とか言い返す鈴丸。
「俗に言うところの“調子に乗った”ってやつじゃのぅ」
「二日酔いね」
雷馳と爛菊もそれぞれ口にする。
すると、渚がやって来た。
手には水の入った湯呑みを持っている。
「これはこれは。すっかり参っているみたいですね。鈴丸さん」
「はい……あ、お見苦しいところをお見せして、すみません……」
渚の登場に、それまで倒れこんでいた鈴丸は青い顔で、のそりと体を起こす。
「ああ、お辛いでしょうからどうぞそのまま。あ、でもそうしたら薬が飲めませんね」
「……薬……」
「はい。使用人に言って二日酔いに効く薬を用意させて、お持ちしたのです。どうぞ、お飲みください。少しは楽になるかと思いますよ」
渚は笑顔を浮かべて、上半身を起こした鈴丸に粉薬と湯呑みを差し出した。
「すみません……ご面倒おかけして……いただきます」
相変わらず鈴丸は青い顔で、渚からそれを受け取るとノロノロとした動きで、薬を口の中に流し込む。
「ぅぶ……っ、にが……っ」
酷い苦味を掻き消すように、慌てて水で流し込む。
「クスクス……良薬口に苦しですから」
渋面する鈴丸に、渚は可笑しそうに笑いかける。
するとふと、鈴丸の表情が和らぎ青い顔もたちまち消え失せた。
「あ? もう胸焼けと頭痛が消えた!?」
「即効性がこの薬の、更に良いところなのですよ」
鈴丸と渚の会話に、雷馳がボソリと呟く。
「やれやれ。これで鈴丸の呻き声に悩まされずに済んだわい」
これに今度は爛菊が、愉快そうにクスクス笑った。
すると障子の向こうから、声をかけられる。
「失礼。帝、付喪の里より、雲外鏡をお連れ致しました」
落ち着き払った低い声。朧だ。
「そうか。入れ」
千晶は短い言葉で彼を中へと促す。
静かに障子が開き、長駆の朧が相変わらずの無表情で、室内に足を踏み入れる。
その後ろからは、何やら灰色で小さめな雲に乗った丸い形の雲外鏡が、姿を現した。
よって当然、フワフワと宙に浮いている。
これがこの異界での付喪の里に棲まう、雲外鏡の移動手段らしい。
朧の後ろから、前へと進み出る雲外鏡。
その鏡の表面には、女の顔が浮かび上がっていた。
雲外鏡は千晶の前へと出ると、静かに唇を開く。
「何やら人間界にいるうちの旦那が、人狼皇后殿にご無礼を犯したとか」
彼女の言葉に、千晶は威圧気味に顎を上げる。
「ああ。奴は彼女の話を聞く前に、いきなりこの異界の、しかも荒廃地区に飛ばした」
千晶は片膝を立てた状態であぐらを掻き、横柄な態度で手に持っていた閉ざした扇をバシッと、もう片方の手の平に打ち付ける。
「それは申し訳ありません。何でも聞くところによると、皇后殿は妖力を吸収するお力をお持ちだとか」
「そうだ。わけありでな」
千晶の返事に、女雲外鏡は彼の隣にいる爛菊の方を向いて、見つめる。
「なるほど……半妖なのですね」
「本来は立派な妖だった。ある事情で人間に転生させられたのだ。よって元の力を取り戻すべく、神鹿の御業により妖力吸収の能力を借りている」
「分かりました。今うちの旦那に妖力を分け与えるよう、伝心致しました。戻ったら改めて、うちの旦那と話し合ってください」
「いいだろう」
千晶は短く答えると、ザッと周囲に視線を送る。
鈴丸と雷馳は彼から離れた位置に、かしこまって正座をしおとなしく状況を窺っている。
渚も鈴丸の隣で、微笑みを浮かべながら座っていた。
女雲外鏡の背後では、朧が片膝を突いた形で跪き、頭を下げている。
「では今一度、我々は人間界に戻る」
「はい、兄上」
「は」
渚と朧が首肯する。
「爛菊が完全に妖力を取り戻したら、改めて帰って来よう。半妖のままでは、爛菊にはまだ体に毒だからな。この異界では」
「半分人間である以上、爛菊様に危害が及びますゆえ」
千晶に答えたのは、落ち着いた低い声の朧だった。
「ああ、そうだな。朧、その間渚をよろしく頼んでおくぞ」
「御意に」
「僕もしっかりこの国を守っておきますよ。兄上」
「世話をかけるな」
「いいえ」
改めて視線を交わし合う兄弟。
「完全体で戻ってこられるまで、お待ち申しております。爛菊様」
「ええ、ありがとう。朧」
爛菊に温和な口調で名を呼ばれ、朧の胸は高鳴る。
変わらないのは、ときめく気持ち――。
「では、準備はよろしくて?」
女雲外鏡に言われて、渚と朧以外の四人はそれぞれ立ち上がる。
それに合わせて、女雲外鏡は表面から光を放つ。
「お世話になりました。渚殿」
「楽しいひとときをありがとうございました。渚殿」
鈴丸と雷馳の一言に、渚は嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「また、いつでもお越しください。うちの帝と皇后をどうぞよろしくお願いしますね」
「はい!」
鈴丸と雷馳は二人同時に返事をすると、女雲外鏡が放った表面の光の中へと入って行った。
千晶も爛菊の手を握る。
無言ではあったが、内心憧憬の気持ちでその手を見つめる朧。
「ではな」
「それでは」
千晶と爛菊もその言葉を残して、光の中へと一緒に入って行った。
これを渚と朧が見送る中、女雲外鏡の表面の光は徐々に消えていった。
「これで役目は終えましたか?」
四人が姿を消して、すっかり静まり返って二人きりになった渚と朧に、女雲外鏡は尋ねる。
「ええ。助かりました。ありがとうございます」
立ち上がり、お礼を述べる渚。
「某が門までお送り致そう」
朧も立ち上がると再度、女雲外鏡を引き連れて部屋を後にした。
門からは、今度は別の使者が付喪の里へと送る流れとなっている。
門まで女雲外鏡を送り、その後は使者に付喪の里まで送らせてから一人、門に残った朧は空を見上げて佇んでいた。
「愛しの我が后妃よ……」
遠い目をして朧は、そっと口の中で呟いた。
「ただいまテイル!」
「ミャウン!」
人間界の千晶の家に戻るや否や、鈴丸は留守番をさせていたテイルに声をかけ、抱き上げる。
テイルも嬉しそうに喉を鳴らす。
もれなく一緒に戻った雷馳も、彼が抱きかかえているテイルの頭を優しく撫でた。
「今帰ったぞテイル」
数秒置いて、今度は爛菊と千晶が光の中から戻って来た。
「戻ったのね」
「ああ、そうだな」
千晶は彼女に答えてから、雲外鏡へと振り返る。
「さてと……一体どうしてくれようか。このクソ鏡……」
意味ありげに千晶は、指の関節をバキボキと鳴らす。
それに気まずそうな表情を鏡の表面に浮かべながら、雲外鏡は恐る恐る言った。
「お、お帰りでぎゃんす……」