其の柒拾:過去の記憶
春が訪れた庭園の空を、ツバメが囀りながら飛び回っている。
池では見事な錦鯉が悠然と泳いでいた。
この広い庭園を、一人歩いているとふと誰かに呼び止められた。
「朧、朧」
これに彼は立ち止まり、声の方へと顔を向ける。
すると数メートル程離れた場所に、艶やかな着物姿の爛菊が立っていた。
「如何がなされましたか。爛菊様」
「ここへ来て」
彼女に呼ばれるまま、朧は側へと歩み寄る。
「ご覧」
そう言って彼女が手を差し伸べた先には、椿の木がありたくさんの紅色をした花が咲き乱れていた。
「どう思う?」
そっと一輪の椿の花を包み込むように、爛菊は優しく触れる。
「とても見事な美しさに思います」
彼女の手の中にある花を見つめながら、朧は低い声で述べた。
「爛は、この季節がとても好き。桜に桃、沈丁花、菫……そんな中で特に、椿の花はとても堂々と主張しておきながら、散り際は残酷なまでに儚い……」
「如何にも」
短く答える朧に、爛菊は花へと顔を近づけて胸一杯に、鼻で吸気する。
そんな彼女の横顔を、うっとりと見惚れる朧。
「良い香り。ねぇ、朧。この椿の花言葉を知ってる?」
「は……残念ながら存じません。是非爛菊様からご講釈を」
彼の言葉に、爛菊はふと微笑みかけた。
「この椿の花言葉は、“理想の愛”“控えめ”“慎み深さ”“美徳”“至上の愛らしさ”“完全な愛”……」
爛菊はまるで歌うかのように、静かに語った。
「ほぅ……この一つの花に、六つもの言葉を含んでおられるのですか」
感心する朧に、爛菊はゆっくりと首肯すると、彼へと尋ねる。
「この六つの言葉の中で、朧はどの言葉が好き?」
これに朧は、暫し黙考して答える。
「そうですな……――“至上の愛らしさ”でしょうか」
「理由は?」
「貴女に……爛菊様に相応しい――」
ここまで言ってから朧は、ハッとして彼女から視線を逸らす。
しかし爛菊は、そんな彼を逆に見つめた。
「朧は……爛のことをそのように見ているの……? 朧は爛を愛して……?」
「そんな、恐れ多い……仮に真であっても、最早叶いますまい」
すると顔を下に向けている朧の頬を、彼女の手が触れた。
大きく胸が高鳴る。
自分よりずっと背の高い朧を見上げながら、爛菊は微笑む。
「嬉しいわ朧。でも爛には千晶様がいる。爛は千晶様を“完全な愛”としている。今の朧の発言は、黙っておきましょう。二人だけの、秘密よ朧」
爛菊は囁くように言った。
「爛菊様……」
朧は、自分の頬に当てられた彼女の手に、自分の大きな手をそっと重ねた。
今すぐ彼女を抱きしめたい。
この手に口づけしたい。
彼女をいっそ、帝から連れ去りたい。
……だが、爛菊の心は千晶にある。
朧は、彼女の手の温もりだけでもと、心の底に刻んだ。
――ハッと朧は目を開ける。
夜明け前の空の薄暗さが、室内の影をぼんやりと浮かび上がらせていた。
もうすぐ日が昇る。
……夢、か……。
朧は布団から上半身を起こすと、夢で彼女に触れた手をしばらく見つめていた。
「爛菊様……」
朧は口の中で小さく呟いた。
それは二百年前の、確かな事実。
森の中にそびえ立つ、一本の大きな赤松の木。
その下で、まだ少女の爛菊は先程狼になって仕留めた、ウリ坊の後ろ足を持って立っていた。
「このウリ坊の肉、千晶様喜んでくれるかな……お口に合えば良いのだけれど」
爛菊は一人、呟く。
すると突然、頭の上に松ぼっくりがコツンと落ちてきた。
リスだろうか。
そう思いながら爛菊は松の木を見上げると、枝に腰掛けている人影が見えた。
「誰……千晶様?」
松の針葉が茂っているせいで顔が隠れていて、よく確認できない。
だが、この日この場所で千晶と待ち合わせしたのだ。
ここに来るのは彼以外、考えられずに爛菊は声を弾ませる。
「もうっ! 千晶様ってば、イタズラはやめて!」
するとその人影が、笑い声を漏らす。
「クックックック……」
「!?」
直後、人影が枝から飛び降りて来た。
紅い髪に紅い瞳。黒い狼の耳と尻尾。
「誰!?」
「ふーん。お前が兄者の想い人か」
「あ、兄者……?」
男は爛菊の周りをゆっくりとした足取りで歩きながら、まじまじと彼女を眺め回してくる。
「こんな身分の低い女を好きになるとは、兄者も物好きなこった。まぁ確かに、顔は美人だけどな」
男は言うと、素早く腕を伸ばしてガッと爛菊の顎を掴んだ。
「な、何するの!?」
「てめぇ如き小娘が、兄者と一緒になって親皇妃になられては困る」
「やめて!」
爛菊は男の手を払うと、後退った。
「クックック……思いのほか、気が強い女だが……ここでいっそてめぇを傷モノにしてしまえば、親皇妃になる危険性はなくなるな」
爛菊は怯えて狼の尻尾を丸めると、その場から逃げ出そうと踵を返した。
だが手首を掴まれて、引き倒される。
気が付くと爛菊の上に、男が跨っていた。
必死で抵抗するも、押さえつけられた手首はビクともしない。
「やめて! 離して! 誰か助けてぇーっ!!」
「俺様に逆らうな! 俺様は親皇殿下の実弟、王弟殿下だぞ」
「お、王弟……!?」
これに爛菊は獣耳をパタリと後ろに倒して、顔面蒼白でブルブルと震え始めた。
目からは、次々と大粒の涙が零れる。
「フン。泣いても無駄だ小娘」
爛菊は悲鳴を上げることも叶わず、自分に覆い被さってくる男に逆らえずにいた。
直後。
「司っ!!」
別の声とともに、爛菊に覆い被さっていた男が何者かに突き飛ばされる。
「ハッ!!」
爛菊は慌てて飛び起きると、赤松の木を背に後退る。
腰が抜けて立ち上がることができずにいた。
「クソッ! 渚、てめぇ!!」
「彼女に手を出してはいけない!!」
「邪魔をするな!」
「司こそ兄上の恋愛を邪魔している!」
蒼い髪と瞳をした白い狼の耳と尻尾を持つ、紅い髪の男と同じ顔と声の男が立ち塞がる。
千晶の弟で、双子の兄弟の渚と司だ。
「このままだとこんな田舎娘が、親皇妃になっちまうかも知れねぇんだぞ!?」
「それでも構いません! 兄上が選んだ道なのですから!!」
「ったく。俺様の兄はどいつもこいつも誇りってもんがなくていけねぇ」
「少しは情熱というのを学びなさい」
二人は今にも争い始めんばかりに身構え、睨み合っている。
爛菊は、人狼族にある山の麓の小さな集落の長、十六夜の一人娘ではあるが貴族には入らない。
そういう意味では、王弟にとっては所詮田舎娘でしかなかった。
「やる気か渚」
「お前がそのつもりなら、司」
渚は言うと、グルルと唸り声を上げる。
そんな彼に身構え睨みつけていた司だったが、渚が本気であるというのが分かると、戦闘態勢を解いた。
「フン。兄者も渚も寛大なこった。おい小娘。今回は渚に救われたな。だが覚えていろ。俺様はお前が兄者の妻になることを絶対に認めねぇ」
司は吐き捨てるように冷ややかに言うと、側に落ちていた、爛菊が仕留めたウリ坊の足を乱暴に掴み上げて、その場を立ち去った。
渚は、赤松の下で小さくなって震えている爛菊へと振り返ると、ニッコリと優しい笑顔を見せた。
「もう大丈夫ですよ。どうぞ安心してください爛菊さん」
渚は言いながら歩み寄ると、爛菊の前で片膝を突いてしゃがみこんだ。
「今のは千晶兄上の弟であり、僕にとっても弟である雅狼八雲司。彼の言うことは一切気にせず、どうぞ兄上との交流を今まで通り続けてくださいね」
渚は優しい口調で爛菊に声をかけると、懐から手巾を取り出して爛菊へと渡す。
「これで涙をお拭きください。兄上から、あなたはとても笑顔の似合う方だと聞いていますよ」
「あ、あ……あの……貴方様は……」
爛菊は相変わらず尻尾を丸め、耳を倒して震える声で渚へと尋ねる。
「ああ、これは失礼。僕は雅狼左雲渚と申します」
「渚……さま……、千晶様は……」
「すみません。兄上は突然の賓客にて今しばらく席を外せずにいるのです。ですから僕がこの事をお伝えに。宜しければ、このまま兄上が来るまで一緒に待ちましょう。怖い思いをさせてしまいましたね。心から弟の非をお詫び致します。大変申し訳ありませんでした」
王弟の立場にも関わらず、今はまだこんな田舎娘である自分に慇懃で柔和な表情と穏やかな口調の渚に爛菊は次第に落ち着きながら、内心申し訳なく思うのだった。
小鳥の囀りに目を覚ました爛菊は、取り戻した前世の記憶をベッドの中で反芻した。
渚の優しさをありがたく感じると共に、司に嫌われていることを理解しながら……。