其の陸拾捌:邪悪なる血族
人狼皇后専属女中の手によって、湯浴みを済ませてから着物を着替え直す爛菊。
「着付けは済んだか」
朧が襖越しに声をかける。
これに女中達が返事した。
彼女達が襖の方へ歩み寄ると、少しの間を置いてスィと襖が両方から開けられる。
その先に見えた光景に、朧は目を見張った。
上部から淡い桃色に足元へかけるにつれて、紅色へと濃淡している引き振袖姿がいつもの彼女を、一段と美しく艶やかにしている。
髪もまとめあげて一房おろしている大垂髪型だ。
「何と見事な美しさ……二百年前以来だ」
彼の呟きに、爛菊は戸惑いを見せる。
何せ皇后としてこの宮殿に一時的に戻ったものの、完全に前世の記憶を取り戻してはいないからだ。
「またこうして貴女のお姿を拝見できて、某朧は、心の底から光栄に思いますぞ。爛菊様……」
思わず彼女に触れたくて、手を持ち上げる朧は伸ばしかけたそれをグッともう片手で抑えると、クルリと爛菊に背を向ける。
「あの……朧さん?」
「“さん”は要らない。どうか朧とお呼び頂きたい」
「で、では、朧……」
これに朧の胸は大きく高鳴る。
だがしかし、それを振り切るように斜め下に向けていた顔を、正面に向けた。
彼女に、背を向けたまま……。
「帝がお待ちです。参りましょう」
それまで低く渋い声で囁くように口にしていた彼の口調が、気持ちを切り替えるようにはっきりとしたものに変わっていた。
「……はい」
爛菊は朧の様子を不思議に思いながら、頷くと先を歩き始めた朧の後をしずしずと付いて行った。
「こちら側にある対なる雲外鏡が必要だと?」
謁見部屋で渚が千晶に尋ねる。
鈴丸と雷馳も一緒だ。
「ああ。俺達だけなら何も雲外鏡を通さず、普通に人間界への穴を潜れば済むんだが、爛菊がいるからな。彼女の肉体はまだ、人間寄りだ」
「それでは、穴に入った瞬間に肉体が引き裂かれてしまいますね。一体どうするおつもりです? 兄上」
「だから今から付喪の里に……――」
ここまで言って、千晶ははたと今いる自分の居場所を思い出した。
「そうか。今までは人間界にいたから、自分で動く癖がついていた。使いの者を出せばいいのか」
「はい。久し振りのご帰郷なのですから、兄上はどうぞ爛菊妃とごゆるりとなさいませ。勿論、鈴丸殿と雷馳殿もご一緒に」
ニッコリと、渚は満面の笑顔を鈴丸と雷馳の二人に向ける。
とにかく彼は、いつでも笑みを絶やさない、だからこそ笑顔のよく似合う青年だった。
「ありがとうございます。お世話になります」
「お世話になります」
鈴丸の後を、雷馳もおずおずとしながら続く。
「……司は?」
千晶が突然ふと口走ったこの名に、それまで笑顔だった渚の表情が曇る。
「……相変わらずです」
「……そうか」
この僅かな含蓄ある二人の会話の間に、刹那重苦しい空気が流れた。
だがすぐに、渚が話題を切り替えた。
「何にせよ、今宵は宴に致しましょう。兄上」
「ああ、そうだな」
すると襖の向こうから、低くて渋い声が届く。
「爛菊様のおなりでございます」
「通せ」
千晶の返事を待って、静かに開けられる襖。
そこには、見まごうばかりに美しく仕上がった爛菊が立っていた。
朧は彼女の足元に跪いて控えている。
「爛菊……実に愛らしい姿だ」
囁くように口にした千晶の声に、艶がこもっている。
「素敵だよランちゃん!」
「ラン殿……綺麗じゃのう……」
はしゃぐ鈴丸に、うっとりする雷馳。
「やはり爛菊妃は、こうでなければ」
当然のように、渚は微笑む。
爛菊も、安心したかのように笑みを浮かべると室内へと歩を進めて、千晶の隣りに座る。
すると渚が何かに気付いて、クスクスと笑う。
「おやおや。爛菊妃が豪勢に身なりを整えられると、兄上と鈴丸殿、雷馳殿の身なりも気になるところですね。皆さんも和服にお着替えください」
こうして三人も、和服に着替えることになった。
千晶達が着替えている間に、二十枚に及ぶ妖力を吸収させた依り代を渚に預け、爛菊への妖力吸収を手伝わせた。
中身は低級妖怪のものではあったが、二十枚もあればそれなりの量の妖力を得られるはずだろう。
おかげで、更に爛菊の妖力は高まった。
が、これで満足する千晶ではなかった。
着替え直して戻って来た千晶は、渚に告げる。
「爛菊を地下牢へと連れて行く」
「え!?」
驚愕する渚に、平然と千晶は答えた。
「司は、相変わらずなのだろう? その有り余る妖力を爛菊に分け与える。そうすれば司の奴も、しばらくはおとなしくなるだろうからな」
「そうですか。分かりました。用心の為、朧も連れて行きましょう」
「構わないのでございましょうか。某は帝や渚様以上に、彼に憎まれていると思われますが」
「だからと言って、牢の中ではお前に反撃はできないだろう。来い、朧」
「は、御意に」
「鈴丸殿と雷馳殿は、ここでお待ちを。なるべく早く戻って来ますので」
渚に言われて、素直に二人はこれに従った。
地下牢への階段を降りて行くと、薄暗い獄中の奥から邪悪な気配が漂っていた。
千晶達の登場に、地下牢の入り口に立っていた看守が敬礼する。
「ご苦労様です」
その看守へと、丁寧に声をかけたのは渚だけで、後はそのまま足も止めずに通過した。
「この妖気、やはり妖力を改めて抑えなければ万が一がないとも限らない」
千晶の言葉に、渚が答える。
「一応、封印を施しているのですが、週一で封印を掛け直さなければならないほど、司の妖力は溢れています」
「その役目を、朧がしているんだな?」
「はい」
千晶の前を歩く朧は、正面を向いたまま短く答える。
爛菊は、この邪悪な雰囲気に恐怖を覚えて千晶の袖を、ギュッとつかむ。
天井付近の周囲には、いくつかの火の玉が浮いている。それがこの牢獄を照らす灯りらしい。
やがて一行は、問題の牢屋の前で立ち止まる。
「司」
千晶に名を呼ばれ、その主の眼がギラリと光った。
「どうした。兄者が自らこんな所へ、しかも俺に会いに来るとは珍しい」
彼は座り込んで片膝を立てた上に腕を乗せた姿勢で、挑発気味に言う。
火の玉の灯りに浮かび上がる、赤い髪に赤い双眸。
しかし顔は、渚にそっくりだ。
「爛菊妃をお連れしたのです」
渚が声をかける。
爛菊は覚えていないが、彼と渚は双子の兄弟なのだと解かる。
つまり彼も、千晶の実弟なのだ。
戸惑っている爛菊に気付いて、渚が優しい口調で彼女を落ち着かせるように言った。
「彼は雅狼八雲司。僕の双子の弟です」
「何だ。俺のことを忘れているのか女」
「司様、言葉を慎まれよ」
司の言葉に、賺さず朧が指摘する。
「黙れクソジジイ。貴様の声は耳障りだ」
「……」
無言ではあったが、朧は自分にとって目上の存在にも関わらず、司を冷ややかに睥睨する。
「爛菊。とりあえずこいつの妖力を半分吸収しろ」
「え、ええ……」
「何だと……!?」
確認を求める司を無視して、爛菊は千晶に言われるがまま、妖力吸収を開始した。
「雅狼八雲司。あなたの妖力を半分頂戴する」
「ふっ、ふざけるな! 誰がこんな女に――クソ! やめろぉぉぉー!!」
爛菊は一連の動きをすると、何とか抵抗しようとする司の体内から、妖力を吸収し始めた。
司から青白いもやのようなものが溢れ出し、爛菊の口内へと取り込まれる。
「う……っ、ぐ、うぅ……っ!!」
司が床に片手を突く。
妖力吸収が済むと、朧が改めて結界とともに司に妖力封印をかけた。
力を奪われた司は、憎悪の眼差しで誰となく言った。
「今に見てろ……必ずや、俺はここから脱出してやる」
「その時は容赦せん。行くぞ爛菊」
千晶は悠然と吐き捨てると、爛菊に声をかけて渚と朧と一緒に、元来た道を戻った。