其の陸拾肆:下賤妖怪達の襲撃
「おい雲外鏡! 貴様、俺の妻を一体どこへやった!?」
千晶の怒声に、雲外鏡は他人事のように答える。
「妻だと? 今オイラが吸収した人の娘のことだぎゃ?」
「吸収だと!? 出せ! 今すぐ出せ! 出さなければ貴様を叩き割るっ!!」
「何ぎゃと!? お前、この付喪神であるオイラを無下に扱うつもりかだぎゃ!? このバチ当たりめぎゃ!!」
「付喪神だろうが何だろうが所詮人間から見れば、貴様も俺達妖と変わらない」
雲外鏡の抗議に、突然落ち着いた口調で冷ややかに言う千晶。
「オッ、オイラを割ったら先程の娘の居場所は永遠に分ぎゃらなくなるぎゃ!? それでもいいだぎゃ!?」
すると紅葉が煙管をふかしながらサラリと述べた。
「まぁ、大概が異界だけどね」
これに暫しの沈黙。
「場所さえ分かれば貴様などもう用はない」
鋭利な目つきをした千晶は、握り締めた拳を雲外鏡に構える。
これに雲外鏡は慌てた。
「分ぎゃった! 分ぎゃったからオイラを叩き割らんでくれ!! さっきの人の娘と同じ場所にお前を送ってやるぎゃら!」
確かに、自力で異界に行って宛もなく爛菊を探すよりも手っ取り早くはある。
異界とは、魑魅魍魎が蔓延る妖の住む世界。
そこへまだ人間臭い爛菊が放り込まれたとなると、あらゆる不浄なる物の怪の格好の餌食だろうことは、誰が思っても明らかだ。
だが千晶は更に雲外鏡を脅迫する。
「送らなくていい。貴様が爛菊を異界からこちらへ戻せば済むことだ。さぁ出せ。今すぐ俺の妻をここへ出すんだ」
「そいつは無理だぎゃ。あくまでもオイラが身を置いているのはこの人間界。向こうにいるわけではないぎゃら、こちら側の入り口でしぎゃない。異界にあるオイラと対になっている雲外鏡を通さなければ、向こうぎゃらこっちには戻ってこれないぎゃ」
「何だと……!?」
千晶の表情が険しくなる。
元々異界の住人である千晶達は、別に雲外鏡がなくとも行き来は可能だが、まだ人間寄りの爛菊には不可能だ。
「爛菊と同じ場所へ送れ」
修羅の如き表情で恫喝してきた千晶に、雲外鏡は慄然とすると表面から光を放った。
「オイラの中に飛び込むぎゃ。そしたら先程の娘の元へ行けるだぎゃ」
この言葉に返事をすることなく、千晶は躊躇うことなく光の中へと飛び込んだ。
鈴丸は、ようやく出血が止まった鼻から詰めていたティッシュを取ってゴミ箱に捨てると、飼い猫――嫁――のテイルの前に跪いて言った。
「僕達、少しの間留守にするけど、大丈夫だね? テイル」
「ミャア~ゥ(いってらっしゃい)」
テイルは一言鳴くと、彼の足に軽く顔をこすりつける。
そんな彼女の頭を優しく撫でると、鈴丸は立ち上がって雲外鏡の光の前に立った。
すると雷馳が紅葉の着物の袖を掴んで、立ちすくんでいた。
「ん? どうしたの雷馳。お前は来ないの?」
「わ、わし、雷獣国から外に出たことがないから、他の異界がどんなものか不安で……」
「お前も立派な妖怪だろう。恐れることは何もないよ。いい社会見学と思えばいいさ」
「う、うむ、そうじゃの」
雷馳は鈴丸の側へ駆け寄ると、彼の上着を掴む。
「じゃあ、行ってくるよ紅葉」
鈴丸に声をかけられ、紅葉は紫煙を口からゆっくり吐き出しながら、口角を引き上げた。
「ああ。久しぶりの異界だろう。ついでに息抜きでもしてきな」
こうして紅葉とテイルに見送られて、鈴丸と雷馳も雲外鏡の放つ光の中へと飛び込んだ。
着いた先は、どんよりとした紺碧色の空に瘴気が渦巻く、荒れ地で不気味さ漂う場所だった。
草花一つなく、生気を失った枯れ木がいくつか朽ち果てた姿で、頼りなく立っている。
「雲外鏡め……よりによって荒廃地区に爛菊を飛ばすとは。戻ったら絶対にただではおかん」
千晶は独りごちると、周囲を見渡した。
彼の外見は完全な人の姿ではなく、狼の耳と尻尾が出ている。
すると姿は見当たらないが、爛菊の匂いを嗅ぎつけた。
「こっちか!」
千晶は彼女の匂いがする方へと駆け出そうとした途端、少し遅れて姿を現した鈴丸にぶつかる。
「いったぁ! いきなり何だよアキ!」
「お前こそ間が悪い! そこを退け!」
抗議する鈴丸を横へと払いのけ、千晶は爛菊の元へと走り出す。
「何じゃここは! 何じゃここは!!」
すっかり周囲の雰囲気に怯えた雷馳が、鈴丸にしがみついて騒いでいる。
鈴丸と雷馳も完全な人間の姿を解き、それぞれの耳と尻尾を出現させた。
「とりあえずアキの後を追いかけよう」
先を走って行く千晶へと、鈴丸も走り出す。
これに慌てて雷馳も後に続く。
やがて瘴気の霧の中から、薄っすらと爛菊の姿が見えてきた。何やらしきりに両手を振り回している。
徐々に近付くにつれ、どうやら妖怪に襲われている様子だった。
周囲にいる無数の妖怪に、爛菊は必死に立ち回っている。
見たところ、虫系の低級妖怪のようだ。
これらを彼女は、自分の唯一の武器である爪で切り刻んで殺している。
「クソッ! 爛菊!!」
千晶は虫系妖怪の群れの中に飛び込んだ。
トンボやハエ、クモなどの外見をしているが、どれも歪さがある。
目が数個あったり、針を持っていたり、大きさが倍あったりなどだ。
中には変異で何か分からないものもいる。
「あの中心にランちゃんがいる! 助けなきゃ!!」
「どうかムカデはいませんように!!」
鈴丸と雷馳も無数の虫系妖怪の群れへと、身を躍らせる。
「風刃の舞!!」
千晶は唱えるや腕を伸ばした片手を、頭上に突き上げ大きく輪を描くとグッと拳を握った。
すると風が巻き起こり、彼の周囲にいた妖怪達が次々と一気に切り刻まれていく。
引き続き、今度は両手を上から下へと大きく振り下ろしながら、唱える。
「風圧よ、地を削れ!!」
これに千晶の前方にいた妖怪達が上からの強力な風によって、地面に押し潰された。
その場の地面がこの影響で、扇状にえぐれる。
「焼き尽くせ猫又の火!!」
「唸れ稲妻の鞭!!」
鈴丸と雷馳の声が後に続く。
火が舐めるように妖怪達を覆い、稲妻が次々と妖怪達を伝って流れる。
これにより、爛菊を取り囲んでいた無数の低級妖怪達は、あっと言う間に壊滅した。
土埃の中から、肩で息をしている彼女が姿を現した。
美しく艶やかな長い黒髪は乱れ、着物もあちこち破れていて、必死に抵抗したその鋭い爪は妖怪達の体液で汚れていた。
「千晶……様、スズちゃん……ライ、ちゃんも……ハァ、ハァ、来て、くれたのね……あり、がと――」
息を切らしながらも薄っすらと弱々しく微笑んだ爛菊は、安心したかのようにふと意識を失いその場に崩れ落ちる。
直後、千晶が彼女を受け止めていた。
「ランちゃん!!」
「ラン殿!!」
鈴丸と雷馳の二人も側へと駆け寄る。
だが千晶は、彼女の体が燃えるように熱いのが着物を通して分かり、それでいて唇は紫色になっているのに気付く。
「瘴気に当てられたか!」
千晶は下唇を噛むと、拳を握り締めた。