其の伍拾陸:相手の真実を知れ
グチャグチャ……パキ、グチャ……ネチャネチャ……ゴクン。
人気のない薄暗い路地の奥から、何やら柔らかい物を咀嚼する音が聞こえる。
周囲には、さびた鉄のような臭いが漂う。
おそらく血の臭いだ。
よく見れば、そこに一人誰かがしゃがみこんでいる。
両手を血まみれにして、肉塊を持っている。
口の中にある分を嚥下すると、再び手に持った肉塊を豪快にガツガツと喰らいつく。
モグモグ……クチャ……ゴクリ。
肉塊から溢れ出る血液を、零さないように口で啜り上げる。
まさに血一滴、骨すらも残さずきれいにその肉を喰い尽くさんとしていた。
一番柔らかいはらわたは、もうとっくに胃の中だ。
やがてほぼ食べ終えたところで、まるで食事のデザートのように最後に残しておいた眼球を、視神経の部分を指先でつまみ上げてから、上を向いて口を開け中へと放り込んだ。
「アキ、今朝はまたたびありがとう! 久々にすっごくいい気持ちになれたよ」
「そうか。そいつは良かった」
リビングで、学校から持ち込んだ生徒のテスト用紙を採点しながら、千晶はぶっきらぼうに答える。
鈴丸が理性を取り戻した時には、爛菊と千晶と雷馳の三人がいないのに車が残されている疑問よりも、彼にとってはまたたびの方が最優先されていた。
「でも、一体またたび、どうしたの?」
おやつ代わりにいりこをかじりながら、その袋を片手に鈴丸はソファーに座る。
爛菊は読書を、雷馳は目をキラキラさせながらテレビアニメを観ていた。
「昨夜、爛菊と一緒に山で採ってきた」
「ランちゃんと? またどうして」
「お前は昨夜何をしてたんだ」
千晶は用紙から顔を上げずに、手を動かしている。
「昨夜はまず双葉ちゃんに会って、それから集会に行ったよ。分かってるでしょ?」
「集会の日はどんな時だ」
「えーと……ああっ! そうだ! 満月だった! ランちゃん大丈夫だった!?」
昨夜ソファーで眠っていた狼姿の爛菊が、丁度背もたれに隠れて見えず、鈴丸は気が付かなかったようだ。
「ええ。狼にはなったけど、今まで得た妖力のおかげで自我はもう失わなかったわ」
鈴丸に心配されて、爛菊は本から顔を上げると答える。
「ラン殿はフカフカモフモフで気持ち良かったぞぃ! わしはラン殿に抱かれて眠ったのじゃ!!」
「おい雷馳。言葉に気をつけろ」
はしゃぐ雷馳に、賺さず千晶が鋭く指摘する。
「それで千晶様と野山デートをして、その時にまたたびをついでに摘んで帰ったのよ。スズちゃんが喜ぶだろうって」
本来の目的は鈴丸なしで、矢桐双葉を探る為だが。
ちなみに三人はあれから先に家へ帰り、鈴丸は後で帰ってきた。
鈴丸はおそらく双葉に突然キスされた上に、口説かれたのであれからしばらく、屋根の上で呆けていたのだろう。
自分から女を誘うことは多いが、女の方からあれほど直接且つ情熱的に誘われたのは、初めてだったからだ。
「今、双葉ちゃんにもプレゼントしたんだ。またたび。初めてだったらしくてすっごく興奮してたよ」
愉快そうに言う鈴丸に、雷馳がニヤリとする。
「コーフンしてたじゃと? あながち、そんな彼女に鈴丸もコーフンしたんじゃないかの?」
すると千晶の方から、雷馳の額のど真ん中に赤ペンが飛んできた。
「いてっ」
「おっとスマン、手が滑った」
「あらライちゃん、丁度ダーツの的みたいになって素敵よ」
雷馳と千晶と爛菊の含蓄ある会話に、どうやら鈴丸は気付いていないようだ。
“お前はセクハラジジイか! 今度余計なこと言ったらコンパスの針でその額の的を刺すぞクソガキ!”
“す、すまぬ。もう言わぬからやめて”
千晶は目をギラギラさせて雷馳を睨みつけながら、鈴丸に気付かれないように念話で脅迫し、雷馳もそんな千晶の気迫に怯みつつ念話で謝った。
「猫、よしよし……いい子にしておいで。可愛い、可愛い猫……大丈夫、大丈夫よ。いい子でいればお前は、私とずっと一緒にいられる……猫、強くおなり。私も一緒に、強くなるから……」
夜の人気のない公園で、双葉は一匹の猫に生魚を与えていた。
ふと、彼女は鈴丸からまたたびをもらった時のことを思い出し、唇を指先で触れる。
「鈴丸……今のまま、いい子にしておいで。私と一緒になってくれれば、私も一緒に、強くなる、から……」
ポタリ――と、雫が目から零れる。
「可愛い……可愛い猫……大地お兄ちゃんの大好きな猫……私ずっと、いい子でいるから……だから、だからお願い、私を嫌いにならないで……!」
食事を終えた猫が、心配そうに双葉の顔を覗き込む。
「ニャアーン……」
「ああ、ごめん。食べ終わったの、気付かなくて……お腹いっぱいになった……?」
涙目で、双葉はその猫へと声をかける。
兄の頭蓋骨を包んだふろしきは、家に置いてきた。すぐに戻るつもりだから。
「ミャウ」
「そう、それは良かった……じゃあ私と一緒に、強くなれるね……」
双葉は猫の頭を優しく撫でた。
猫は喉をゴロゴロ鳴らして甘える。
「そうよ……いい子にしておいで……」
双葉の目が、エメラルド色の猫の眼に変わる。
爪が鋭く伸び、猫の頭を撫でる手がそのまま下へと、首の方に移動する。
大きく開けた口からは、やはり鋭い牙が覗いている。
「可愛い、可愛い猫――!!」
「!?」
猫が気付いた頃には、時既に遅しだった。
突然現れた気配に、夕食を終えてリビングでくつろいでいた爛菊達は、一斉に天井を見上げた。
「双葉ちゃんが来た! ちょっと言ってくる!」
鈴丸はソファーから飛び降りると、この家の屋根へと向かった。
「……」
鈴丸がいなくなってリビングに残った三人は、無言のままそれぞれ目配せする。
「どうするんじゃ千晶」
先に沈黙を破ったのは、案の定というべきか、雷馳だった。
「まぁ待て。様子を探る」
午前中、双葉を探りに行った時と比べて、妖気が濃くなっている。夜になったからだろう。
すると五分もしないうちに、鈴丸が戻って来た。
「あら、どうしたのスズちゃん?」
「双葉ちゃんがまた、またたびが欲しいって。だから取りに戻った」
爛菊の問いかけに、鈴丸は答えてキッチンへと向かうとビンに入っているまたたびの葉っぱを一枚、取り出した。
そしてまた出て行こうとする彼を、千晶が呼び止める。
「鈴丸」
「ん?」
「その娘に、俺も会って問題ないか」
「う、うーん……問題はないけど、多分逃げちゃうと思うよ」
「構わない」
「じゃあ、紹介するからおいでよ!」
鈴丸だけかと思って油断していた双葉は、いきなり彼以外に見知らぬ三人が一斉に登場したものだから、咄嗟に背中を丸めて威嚇する。
「フゥーッ!!」
「平気だよ双葉ちゃん! みんなは僕と一緒に暮らしているルームメンバーだから!」
「……つまり、鈴丸は飼い猫……?」
「それはちょっと違うような」
鈴丸が答えると同時に、双葉は素早い動きで彼が手に持っていたまたたびを取り上げる。
その一瞬の動きで、目前に迫った彼女から香る臭いに、鈴丸は口を開いた。
「血……? 双葉ちゃん、何だか血生臭いけど、ネズミか何か食べた?」
これにハッとする双葉の反応に、代わりに千晶が口を開いた。
「いいや、猫だ。ネズミなんかではなく、な」
千晶の言葉に、双葉はあからさまに動揺する。
「え……!?」
鈴丸は思わず耳を疑った。
「矢桐双葉。お前は猫又どころか妖でもない。本来は人間だな?」
千晶に指摘され、双葉は喚いた。
「違う! 私は猫だ!!」
「ああ、そうだ。今やお前は“猫娘”だ」
これに今度は、鈴丸が動揺を露わにした。
「猫――娘だって……!?」