其の伍拾肆:満月の夜とまたたびと
夜中の一時頃に猫の集会から戻って来た鈴丸は、時間的に真っ直ぐ風呂場に向かい遅い入浴を済ませてから、自室に戻ると布団を敷いて眠りに入った。
雷馳は狼になっている爛菊の懐で気持ち良さそうに眠っているのを、千晶が渋々雷馳を部屋まで運び布団に寝かせる。
それまでおとなしく、雷馳と共に眠っていた爛菊がこれを機に目を覚まし、大きなあくびをする。
「爛菊。せっかく狼になっているのだから、野生の血が騒ぐだろう。俺も付き合うから、今から夜の山へ行って自然を満喫しよう」
これを聞いて狼姿の爛菊は、嬉しそうに尻尾を大きく振る。
「もっともっと、妖力を得ればお前の本来の毛色になるのだが、まだ今は無理そうだな。元来の狼の姿になったお前は、ずっと美しい」
「クゥーン」
爛菊は千晶の言葉に、小首を傾げた。
家を出ると、深夜の山へと赴く千晶と爛菊。
そこで千晶も金色の毛並みをした狼と化すると――爛菊に合わせた普通サイズ――彼女と一緒に野山を駆け回り、じゃれあった。
ウサギを見つけると、捕まえて千晶は爛菊へと与える。
人間である時よりも、狼になって野性的な部分が大きく占めていた彼女は、千晶から与えられた野ウサギを口の周りを血だらけにしながら、肉を味わった。
次にキジを見つけた千晶は、これも捕まえて今度は自分が食す。
ウサギとキジを平らげた二匹の狼は、山の高い場所へと行くと一緒に遠吠えをして本来の狼らしさを堪能する。
「ウオオオォォォォー……ン」
少し離れた場所にいた鹿が驚いて、その場から逃げ去ったのに気付いて、本能から二匹揃ってその鹿を追いかける。
三キロ程走った時、一陣の風が吹いた。
「こんな時間に騒々しい。ここはもう俺の領域と知っての所存だろうな」
ふと現れた人物に、狼姿の爛菊と千晶は足を止める。
「お前達が追っている鹿は、うちの所有物だが?」
これに爛菊は申し訳なさそうに首を項垂れる。
「おっと、スマン和泉。夢中になりすぎてすっかり気付かなかった。今夜は美しい満月だろう?」
金色の狼から、人の姿になって千晶は相手へと言った。
「成る程。皇后がその影響を受けたのは分かったが、だからと言ってお前まで何だ千晶」
白い長襦袢姿に腰まで長い美しい白髪を少し乱した状態で、千年妖怪の上に神鹿の主、鹿乃静香和泉が眠そうにあくびをする。
「狼が鹿を追って何が悪い。俺は狼になってしまった爛菊に、夫として付き合ってやっていただけだ」
「別にそれは構わんが、俺の領域の鹿を標的にするのは認めん」
「だったら目印でもつけておけ。紛らわしい」
「その前に俺の領域に入ってしまったことに気付け。このアホ狼」
普段の和泉らしからぬ言葉遣いだ。どうやら相当寝起きが悪いらしい。
先程まで爛菊と千晶に追われていた鹿は、天の助けとばかり和泉の背後に避難すると、そのままどこかへと行ってしまった。
「ん? 見たところ皇后は、もう自我を失ってはいないようだな。それだけ妖力を得たと言うことか」
「ああ。だがまだまだだ。せいぜい人間以上の運動能力と爪と牙などが増えたくらいだな。ああ、そうだ。ところでうちの鈴丸がだな……」
「何だ。その話長くなりそうか? こっちは眠いんだが。明日にしろ」
昼間の和泉と比べると態度が悪い彼の言葉に、思わず千晶は怫然とする。
「じゃあ単調直入に言う。またたびをくれ」
「あ? またたびだと? そんな物、そこらの山にいくらでもある。自分で勝手に採って持って行け」
和泉の更なる放擲な言い方に、千晶は憤怒すると言い返した。
「いつか鹿刺しにしてやる」
「あ、そう。それまで楽しみに待っていてやるよ。ではおやすみ、皇后」
「ウォン」
和泉は平然と千晶に返してから、爛菊には優しく声をかけると眠そうにしながら再び風と共に姿を消した。
「あいつ……自己表現まで乱暴になっていた……まさかあそこまで寝起きが悪いとは、新たな一面を見たりだな……」
「クゥーン……」
口角を引き攣らせる千晶に、爛菊は鼻を鳴らして彼を見上げた。
家に帰って四時間程眠った千晶は、鈴丸の部屋を訪れた。
ドアを開けて中を覗いてみると、すっかり恍惚感にとらわれて床でゴロゴロ転がっては這いずったりする、尻尾が二本の三毛猫姿に戻っていた。
明け方前に帰路に着いた千晶が、帰りながら山中でまたたびの葉を――時期的にまだ花も実もついてなかったので――大量に収穫し、家に帰るとそれをすり鉢で擦って鈴丸の部屋に置いたのだ。
この日は週末で、学校は休みである。
なのでいつもより少し遅い起床をして、鈴丸の事情を知っている爛菊が朝日と共に人間に戻ってから、彼の代わりに朝食を用意した。
今回、千晶が鈴丸をまたたびで潰したのは訳がある。
例の矢桐双葉の正体を確認する為だ。
今や彼女に夢中の鈴丸は、千晶達がこぞって会いに行こうとすれば、止めるだろう。
何でも人間嫌いらしい上に、そんな彼女に余計な警戒をさせないように。
よって千晶は鈴丸抜きでまずは地道に、近所の聞き込みをするのを予定した。
何でも爛菊の話によると、双葉の家に人の気配がないらしいからだ。
かと言って、空き家でもなさそうだ。
朝食を終えて、千晶は爛菊と雷馳を連れ双葉の家に行ってみる。
車だといざと言う時の小回りが利かないので、鈴丸同様それぞれ自力で屋根での移動だ。
双葉の家を知っている爛菊を先頭に、千晶と雷馳が付いて行く。
そして家の前に到着した千晶は、屋根から下りてまずは家の表札を確認した。
――“矢桐”
双葉の苗字と違いはない。
中の気配を探ってみると、どうやら双葉は家を留守にしているのも分かった。
その間に爛菊がふと顔を顰めて、懐から取り出したハンカチで鼻を塞ぐ。
すると丁度、隣の住人が家から出て来た。
その住人に千晶は声をかける。
「すみません。矢桐さんのご主人に用があって来たのですが、お留守のようで……どちらへ行かれたか、ご存知ありませんか?」
彼に声をかけられたその五十代くらいの主婦は、一緒にいる着物姿の爛菊と整った服装の雷馳を見て、品の良い家族だと受け取ったらしい。
疑うことなく、主婦は口を開いた。
「矢桐さんご夫婦なら、世界一周旅行に行かれて一ヶ月くらいは戻らないみたいよ。いいわ~、羨ましいわよね」
「お子さんもでしょうか?」
「いえいえ! お兄ちゃんの大地君は県外の大学で寮生活をしているわよ。この前、連休が取れたからって三日ほど家にいたみたい。やっぱり高校生の妹一人、家に残ってるのは兄として心配だったのね。双葉ちゃんも大地君が帰ってきて凄く嬉しそうで、本当に大地君と双葉ちゃんは仲の良い兄妹だわ」
「そうですか。どうもありがとうございます」
「世界一周旅行のおみやげを楽しみに待ってなさいな。私もそうだから! ウフフ……それじゃあ、ダンス教室があるので失礼しますわね」
「はい、こちらこそ」
こうして車に乗って、その場を立ち去った主婦とは反対方向を歩いてから同じくその場を後にする仕草を装ってから、周囲に誰もいないのを確認し側にあった五階建てマンションの屋上に、三人は跳び移った。
そして口を開いた千晶が言った。
「これはどうやら、矢桐双葉は猫又ではないな」
「そうね。先程のご婦人がおっしゃる通り、人の親の娘であるのが本当なら、双葉さんは元々猫ではないことになる」
爛菊も自分の意見を口にする。
すると雷馳が声を潜めて、二人に声をかけた。
「家の前で誰かが止まったぞ。女の子じゃ」
雷馳に言われて、千晶と爛菊も屋上から下を覗き込む。
「あの方が双葉さんよ」
爛菊の言葉に、千晶は眉宇を寄せて言った。
「鈴丸は厄介な者に目をつけてしまったな。あの娘から、邪気が溢れている」