其の伍拾壱:爛菊の応酬
双葉に逃げられた鈴丸は、渋々学校へと向かっていると近所の飼い猫、クロミに出会った。
黒虎のメスで、鈴丸の数多い彼女のうちの一匹である。
「おはようクロミちゃん! 朝の散歩?」
「ンニャウ。ニャニャオン?(おはよう。鈴君も?)」
「ん? 僕は学校に行くついでに、人探ししててね。矢桐双葉ちゃんって子で、猫又候補生!」
「ニャアァ、ニャニャンニャ! ミャ~ウミャオン(あぁ、あの子ね! 私達猫の間では最近有名よ)」
屋根の上で、鈴丸は猫座りしてクロミと向かい合っていた。
「え? そんなに? 僕は昨日初めて会ったから、今もまた見つけて声かけたら逃げられちゃったんだ」
「ニャオニャウン、ウミャアア~ミャア。ニャニャニャ、ニャア~ンニャア~ンニャア~ン(無理無理、だってあの子人間嫌いだもの。でもね、野良猫にとってはあの子の存在は天国よ)」
「天国?」
以下、猫の鳴き声省略。
「そう。行き場のない野良猫に住み処とご飯を与えて、面倒見てるのよ」
クロミは言いながら、肩の辺りを毛繕いする。
「へぇ~……! そうなんだぁ~……!」
彼女の話を聞いて、鈴丸は目を輝かせる。
「あら、なぁにその顔。まさか、矢桐双葉に惚れたの? これで何匹目の彼女?」
「え、いや、その……」
白けたクロミの金色の瞳からの視線に、鈴丸は動揺を露わにする。
「ほ、惚れるわけないじゃない! だってまだあの子のことはよく知らないし……」
「クス。あなたのそういう嘘がつけない正直なところ、好きよ。だからこそ言っとく。私はあの矢桐双葉が嫌いなの」
「え、どうして?」
「言動がバラバラなのよ。胡散臭いし、あの子の方から先に私のことを毛嫌いしてるもの。だから別にわざわざ自分から、好かれようとは思わないだけ」
「何でクロミちゃんを嫌っているんだろう?」
「さぁね~。私にも謎よ。じゃ、行くわ。またね鈴君」
「あ、うん。またねクロミちゃん……」
長い尻尾をくねらせて、しなやかに歩きながらその場を立ち去って行くクロミを、鈴丸は戸惑いながら見送った。
「可愛い……可愛い猫……よしよし、いい子にしておいで。そうすれば私と一緒にいられるから……強くなって、大きくなって……猫……猫、いい子」
窓から朝の日差しを受けた一室で、たくさんの生まれて間もない仔猫達にそれぞれの母猫達が、母乳を飲ませている。
他にも、生後三ヶ月以上の仔猫達も、双葉が用意した生魚を食べていた。
「そんなに慌てないで。ちゃんとみんなの分、あるから……いい子、いい子ね……ああ、お前達の面倒を見るのに夢中になりすぎて、私の朝食忘れてた……」
双葉のお腹がグゥと音を立てる。
「今回はどの子を私の食事に連れて行こうかな……――決めた。お前にしよう。私と一緒に食事しようね」
双葉はべっこうの成猫を、優しく抱き上げた。
「ニャオ~ン」
「ええ、いい子……いい子ね……」
彼女に頭を撫でられて、その成猫は嬉しそうに喉をゴロゴロ鳴らした。
学校の昼休み。
爛菊は二階の校舎の廊下を歩いていた。
手には、図書室で借りた本を胸に抱いている。
そしてふと、ある場所で立ち止まった。
生物学教室。
中には一人の女子生徒がこちらに背を向ける形で、長テーブルにポツンと座っていた。
何やらご機嫌に鼻歌を口ずさんでいる。
「早く雅狼先生来ないかな~。あの無気力な喋り方、眼鏡の奥の琥珀色の瞳、着崩した服装。でも間違いなくあれはダイヤの原石。磨けば絶対に超クールビューティーでハンサムな男になる! それをこのアタシがしてやるんだもんね~!」
女子生徒ははしゃぎながら独り言を口にして、嬉しそうにしている。
これを聞いて爛菊の額の血管が浮き出る。
「あなたが彼を磨くですって? 一体あなた、何様のつもり」
冷徹な言葉を背後から投げかけられて、女子生徒は驚愕を露わに振り返る。
「れ、嶺照院さん! あ、あの、どうしてここに……!?」
「あなたこそどうしてここに」
腕組みをして無表情に言い放つ爛菊。
「ア、アタシはここで雅狼先生からシンポジウムのレポートを……」
「そのシンポジウムのレポートを、何度雅狼先生からチェックしてもらえば終わるの」
抑揚のない爛菊の言葉は、辛辣さを含んでいた。
彼女にしては珍しい。
「自力でこなせずにいつまでも雅狼先生の手を煩わせているようじゃあ、どうせシンポジウムも成功しないんじゃない?」
「そんな……」
「言っておくけど、雅狼先生にはもう相応しい彼女がいる。目をつけても無駄」
「え!?」
「理解できたなら、諦めてさっさとこの教室から出て行きなさい」
爛菊の横柄な態度に、女子生徒はうろたえつつも慌てて持ち物を手に、彼女の脇を通り過ぎる際一度頭を下げてから、忸怩から頬を紅潮させて逃げるように教室を後にした。
嫉妬心で昨夜はあんな女子生徒の企みをまだ知らずにウブに泣かされた上、彼女の本心を知ってはらわたが煮えくり返っていた爛菊は、幾分気持ちがスッキリして図書室へと向かった。
本を返してから、図書室から出てきた爛菊は、外の渡り廊下でふと猫の鳴き声に気付いてそちらへと視線を移した。
すると植え込みの間に、灰色で黒い縞模様のがっしりした体つきの成猫が、彼女を見つめていた。
「こんなところで、どうしたの?」
「ニャオー……ン」
控えめな声で鳴く猫。
見る限り普通の猫で、妖怪ではなさそうだ。
なので、その猫が何を言いたいのかは理解できなかったものの、用事があって爛菊を呼び止めたことは分かった。
「もしかして、スズちゃんに用があるの?」
「ニャア」
そうだと言わんばかりに、猫ははっきりと頷いて見せた。
「じゃあ、スズちゃんのところに連れて行ってあげよう。おいで」
爛菊が猫へと手を伸ばすと、その子は後退りして警戒する。
「もしかして、人間が怖い?」
これに猫は、金色の目を伏せる。
「そう。分かった。ならスズちゃんを呼んであげる」
言うと爛菊は、鈴丸へと念話を飛ばす。
「今呼んだから、すぐに来るはずよ」
彼女の言葉に、猫は無言を返す。
それから鈴丸が来るまでに三十秒もかからなかった。
「はいランちゃん、呼んだ?」
「この猫が、あなたに用があるみたい」
「ん? ……――やぁ! グレイじゃない! どうしたの自分からこんな人が多いところに来るなんて、珍しい」
「この子人間嫌いなのね」
「いや、グレイはものすっごい小心者で怖がりな性格でね。飼い主にだけしか心を許さない子なんだ。だから他の猫にも近寄らない。いわゆるロンリーキャットで、クロミちゃんのお兄ちゃん」
「ああ、近所で飼われていて爛達が遊園地にデートへ行くとき、スズちゃんも誘いに行った黒猫ね」
「うん。それでグレイ、何の用事?」
鈴丸はしゃがみこんで、そのグレイという名の猫と視線の高さを一緒にする。
「ニャアニャン……ニャオニャオン」
「え? グレイ、双葉ちゃんの家を知ってるの!?」
「ニャン。ニャアニャアニャオン。ミャアミャーオン。ウニャア(ああ。さっきクロミに会って聞いたんだ。矢桐双葉を鈴丸が探していると。だから教えに来た)」
「ありがとうグレイ。ランちゃんも一緒に行こう!」
以下、猫の鳴き声省略。
「ちなみに、俺は小心者の怖がりではなく、警戒心が強く何者をも信じないだけだ」
グレイは素っ気ない口調で鈴丸に指摘すると、身を翻す。
鈴丸は爛菊へと振り返って誘うと、先に進み始めたグレイの後に二人は続いた。