其の伍拾:人見知りの激しい猫
家から飛び出した鈴丸は、買い物の時に見かけた人影から感じた猫の気配を追う。
人影は鈴丸の動きに気付いてか、屋根から屋根へ、または木から木へと飛び移りながら逃走する。
「待って! 待ってよ! 僕はあやしい者じゃないから止まって!」
だが人影は止まるどころか、余計速度を上げた。
「あー、もうっ! だーかーらーぁ、待ってって言ってるのに!」
鈴丸の言葉とともに、人影がハッと前方に気付いた時には、彼が目の前に立っていた。
行く手を塞がれて慌てて止まる人影。
「待ってってば」
これに人影は威嚇の声を上げる。
「フゥー!!」
「大丈夫だって。安心して。僕は君に何もしないよ」
鈴丸はそっと声をかける。
その人影の正体は、鈴丸と同じくらいに若い少女だった。
肩甲骨辺りまで長いオレンジ色の髪が、ゆるやかに波打っている。
エメラルドに光る目の瞳孔を縦長に細め、鋭い爪と牙をむき出しにしていた。
「君は――君も僕と同じ、猫又なの?」
「……」
少女は無言で鈴丸を警戒している。
「ひょっとして、猫又になったばかりでまだよく自分のことを、解かっていないのかな?」
「……解かっている」
小さい声に、鈴丸は尋ね返す。
「え?」
「私は……私は、猫」
相変わらず蚊が鳴くような小さな声だったが、鈴丸は頷いた。
「うん。それは解かる」
またもや沈黙が続く。
「僕の後を、付けてきたの?」
「……」
少女は無言のまま、鈴丸から視線を逸らす。
「僕は猫俣景虎鈴丸」
「すず……まる……」
「そう。猫又族長の息子」
「猫又族長の息子……」
「そうだよ。良かったら猫又族の国に連れて行ってあげる。君、名前は?」
「双葉――矢桐双葉」
彼女は言いよどむように口にする。
「双葉ちゃんだね。おいでよ。新たな猫又の住人として、洗礼を受けさせてあげる」
鈴丸は笑顔を見せると、双葉に手を差し伸べた。
「シャーッ!!」
双葉は自分に触れそうになった鈴丸の手を、バシッと払いのけると素早く彼から背を向けて鈴丸を残し、その場から逃走した。
鈴丸は、双葉がその手に残した爪痕から滲み出る血を、そっと舐めながら呟く。
「矢桐双葉……君はまた、必ず僕に会いに来るよ」
そうでなくては、双葉が鈴丸の後を追って来るわけがないのだから。
「どうだった? スズちゃん」
家に戻って来た鈴丸に、爛菊が声をかける。
「逃げられちゃった。でも、名前は教えてもらったよ。矢桐双葉ちゃん」
「しかし妖気は感じなかったがな」
今度は千晶が口にする。
「多分、まだ猫又になって間もないからだよ。そこまで妖力が身に付いていないんだ、きっと。どうやら極度の人見知りみたい」
「女の猫又か。よもや惚れたかの? 鈴丸。その双葉とやらに」
「さてね~。さ、夕食作ろ」
雷馳の言葉に鈴丸ははぐらかすと、改めてキッチンへと戻った。
鈴丸が夕食を作っている間、雷馳の宿題を爛菊がリビングで見てあげていた。
そもそも妖怪のほとんどは人間の字を読み書きできない者が多いが、雷馳も違わずそうだったので小学一年生の基本学習である、ひらがなとカタカナの練習をしていた。
ノートでの書き取りの後に、教科書の音読、そして算数だ。
全ての宿題を終え、爛菊がノートの書き取りのチェックを入れる。
それも終わった時、丁度夕食ができて食卓に並ぶ。
デミグラスソースたっぷりのふわとろオムライスと、野菜サラダ。
雷馳の希望通りだ。
「何だ。今夜はオムライスか」
千晶が半ば不満そうにぼやく。
これに鈴丸が笑顔で答えた。
「明日はビーフシチューにしてあげるから」
「分厚い牛肉がゴロゴロ入ったのにしてくれ」
「了解」
「おいしそうね。さぁ、いただきましょう」
みんながダイニングテーブルに着いたところで、爛菊が声をかける。
「それでは、いただきます!」
みんなは揃って口にすると、食事を開始した。
「猫……猫……いい子。もっとお食べ……」
夜の帳が下り、すっかり暗くなった公園のベンチに、少女が一人。
その足元では、生魚を食べる猫が蹲っていた。
お前は――強くなって、大きくなって――
「猫……よしよし、いい子にしておいで……」
可愛い……可愛い、猫。
「ミャアァオ~ゥ」
「うん……大丈夫、大丈夫よ……いい子でいればお前は、私と一緒でいられる――猫……お前が強くなればなるほど……私も一緒に、強くなろう……」
魚を食べ終えて、猫は彼女の足元からベンチに飛び乗ると、少女――双葉の隣で毛繕いを始める。
「お腹いっぱいになった……?」
「ンニャア」
「そう、それは、良かった……」
双葉は妖艶に微笑んだ。
茶トラの猫は、満足そうに喉を鳴らした。
翌朝。
「え、今日は車で学校に行かないの? スズちゃん」
支度を終えた爛菊が、そう鈴丸に問いかける。
「うん。もしかしたら、また双葉ちゃんがこの辺にいそうだから」
「好きにしろ。行くぞ」
千晶はぶっきらぼうに言うと、爛菊と雷馳を車へと促す。
「そうするよ。それじゃあ学校で。行ってきま~す!」
鈴丸は笑顔で三人へと手を振ると、身軽に塀から他所の家の屋根へと跳び移って姿を消した。
これを見送ってから、爛菊は車の助手席へと乗り込んだ。
一方鈴丸は、周囲を確認するように学校の方角へと屋根伝いに向かっていた。
半分ほどまで来た時、学校の方向とは逆の右手側にある、ここから遠く離れた屋根で寝そべる格好でひなたぼっこをしている双葉の姿を見つけた。
「やっぱりいた」
鈴丸は嬉しそうに呟くと、双葉の方へと進んで行く。
「双葉ちゃん、見~つけた!」
この声に双葉は驚きを露わにして飛び起きると、四足姿勢で背中を丸めて威嚇する。
側には、背中が黒で腹は白い猫が一匹と、紫色の風呂敷に包まれた丸い物体があった。
「大丈夫、僕だよ。鈴丸だよ」
「いきなり忍び寄るとは卑怯だ! これでは安心もできやしない! さ、行こう」
双葉は鈴丸に言い放つと、紫色の包みを持って一緒にいる猫に声をかけてから、共にその場を立ち去ってしまった。
「また逃げられちゃったか……」
鈴丸は呟くと、わしわしと頭を掻いた。