其の肆拾肆:竹藪の奥から聞こえる啜り泣き
小学校の校庭を挟んで、校舎の真向かいは鬱蒼と繁る竹藪になっている。
勿論フェンスで塞がれており、立ち入りも禁止されていた。
学校生活も幾分か慣れてきた雷馳だったが、校庭に出るといつもどこからか小さな啜り泣きのような声が聞こえてくる。
それはとても微かなもので、邪気も妖気も感じられずにいたから、雷馳はきっと気のせいだろうと思っていた。
ある日の夕食時、それを食卓にいる三人に話して聞かせた。
「わし、最近妙な幻聴らしきものを聞くんじゃ」
「幻聴?」
雷馳の言葉に、爛菊が尋ね返す。
「うむ。何やら啜り泣きのような、とても微かなものじゃ。しかしこれが、学校の校庭でしか聞こえんのじゃよ」
「ふ~ん、それ気になるな僕は」
「そうだな。妖気などは妖怪の強さによって左右される。しかも昼夜で変化することもあるからな」
鈴丸に続いて、千晶も首肯する。
「だったら、夕食を終えたら行ってみましょう」
「賛成だ」
「僕も!」
爛菊の意見に、千晶と鈴丸は賛同する。
「わ、わしも行かねばならんかのぅ……?」
おそるおそる口にする雷馳に、鈴丸が言い返す。
「当たり前だろう? 言い出したのはお前なんだから」
「ライちゃんは怖がりだものね。妖怪なのに」
「妖怪でも、怖いものは怖い!」
爛菊に指摘されて、雷馳ははっきりと自分の意思を伝えると、ご飯を口の中へと掻き込んだ。
こうして夕飯を終えると少しくつろいでから、みんなは雷馳が通う小学校へと鈴丸が運転する車で向かった。
門の前に車を停めると、降車して閉ざされている門を前にする。
「この門、越えられそうか?」
「ええ、平気よ」
門の高さは約二メートルぐらいだったが、爛菊は平然と答えた。
並の人間以上に運動能力が上がって改めて妖怪化していく自分の妻に、千晶は嬉しそうに彼女の頭を軽くポンポンとたたいた。
「よし、じゃあ中に入るぞ」
千晶は言うと、彼を筆頭にして鈴丸、爛菊、雷馳と続いて門を飛び越えて、中へと侵入する。
周囲は真っ暗だったが、みんなは妖なだけあって夜でも目が見える。
校舎の裏にある校庭へと歩いて行くに従って、啜り泣きが聞こえ始めた。
ちなみにこの声は普通の人間には聞こえない。
「やはり雷馳の言う通り、ただの幻聴ではないようだな」
「微かに妖気も感じられるしね」
千晶と鈴丸がそれぞれ口にする。
当の雷馳は爛菊の着物の裾を掴んで、ピッタリと彼女にくっついて恐る恐る歩いていた。
妖は昼間より、夜の方が妖力が高まる。
なので昼間には感じにくい低級妖怪の妖気でも、夜になれば感じやすくなるのだ。
「でもこの感じだと低級みたいだよ。ランちゃん、結構妖力身についてきてるんだし、もう少し強めの妖力の相手を選んだ方がいいんじゃないの?」
「確かにそうだが、低級の近くには中級なり高級なりの強力な妖が潜んでいる場合もある。大百足と雷馳の時みたいにな。俺はそれが目的でこうして来たんだ」
鈴丸の言い分に、千晶は歩きながら答える。
校舎を抜けて校庭に出ると、啜り泣きは何やら小さな声の呟きに変わった。
「……い……まい……」
「あら? これってもしかして……」
爛菊がこの微かな呟きの内容に、心当たりを示す。
「……んまい……四枚……五枚……」
「“皿数え”っぽいね。そんな妖怪、相手にする価値あるの? 雷馳よりもずっと妖力が少ない超低級妖怪だよ?」
「低級だからと気を抜くのは禁物だぞ鈴丸。こういった妖に限って、あるパターンになった途端妖力が上がったりするものだ」
「鈴丸っ! わしの妖力を馬鹿にしたな!?」
鈴丸の意見に、千晶の後に続いて雷馳が彼に抗議する。
やがて竹藪のあるフェンスに到着すると、みんなはフェンスを飛び越えて竹藪の中へと足を踏み入れた。
「六枚……七枚……」
声のする方へとみんなは歩を進める。
「八枚……九枚……」
ここまで呟きが口にした途端、一気にその主らしい妖力が上がった。
「一枚足りない! 皿が一枚足りない――っ!!」
爛菊にくっついていた雷馳が、これに怯えて全身鳥肌立たせる。
すると奥の方に、石を積み重ねて作られた古井戸が見えてきた。
古井戸からは、結髪を振り乱した若い女が重ねた皿を手に、青白く浮かび上がっている。
一般的に、九枚まで数えるところまで見ると狂い死ぬので、六枚まで見聞きしたら逃げろとされているが、妖であるこの四人には効果はない。
先頭を歩いていた千晶が古井戸へ近付く為に一歩、踏み出した直後に別の強大な妖力を感知して足を止める。
どうやら爛菊、鈴丸、雷馳の三人も気付いたらしく、おかげで雷馳は恐怖のあまり思わず雷獣の、平たく大きな尻尾と小ぶりな耳を出現させてしまった。
すると猛烈な勢いで紅蓮の鬼火が、皿数えへと突進してきた。
皿数えは古井戸から放り出されるように、地に倒れ込む。
「ああ憎らしや! 忌々しい小娘が!!」
紅蓮の鬼火は人の形を成すと、倒れ込んでいる皿数えへと手にしている鉄の煙管で何度も殴りつけ始める。
「申し訳ありません! どうか、どうかお許しください大奥様……!!」
皿数えは泣きながら許しを請うている。
「アキ、誰なの? あの鬼火の女……」
鈴丸が小声で尋ねる。
「さぁな。まぁ、只者ではないのは確かだろう」
答えてから千晶は、ズンズンと先へ歩を進めて、この二人の女の妖に声をかけた。
「おい、一体何の騒ぎだ」
これに振り返ったのは、先程皿数えから大奥と呼ばれた女だった。
細くて鋭い二本の角を額から生やして、耳まで裂けた口からは黄色い牙をのぞかせ、物凄い憤怒の形相をしている。
しかし結髪や着物姿を見る限り、大奥らしい裕福な出で立ちをしている。
「“般若”か。お前、名は何と言う?」
「名前だと!? そんなもの、とうに忘れたわ!!」
般若は皿数えを押さえ込んだまま、千晶へと怒鳴りつける。
「般若?」
そう口にしながら千晶の後に続いて竹藪から出て来たのは、爛菊だった。
更にその後ろから鈴丸も姿を現す。
雷馳は般若の形相を見るなり、飛び上がって鈴丸の背後に隠れる。
「女……!? 人の女か! この世で女は妾一人で十分じゃ!!」
般若は凝縮した黒目を赤く光らせると、懐に隠し持っていた短刀を振りかざして爛菊に飛びかかってきた。
咄嗟に動いた千晶を爛菊が遮る。
「大丈夫よ、爛にやらせて千晶様!」
言うなり俊敏な動きで般若へと肉薄すると、短刀を持っている手に鋭い爪を振り下ろした。
「ギャッ!!」
彼女の爪を受けて、般若は怯む。
その手に付けられた深い爪痕から、どす黒い霧のようなものが吹き出てくる。
「貴様……貴様ただの人の女ではないな……!?」
般若は傷ついた手をもう片手で抑えながら尋ねる。
「わたくしは、人狼皇后」
爛菊は、次の攻撃に備えて両腕を交え構えながら、静かに口にする。
「人狼皇后だと……? ふん、知れたことを!! よくもこの妾に傷をつけたな!! 許すまじぞ!!」
般若は言うと、再度短刀を振り上げた。
「危ない!! どうかお逃げくださいませ人狼皇后様!!」
皿数えの叫び声と共に、彼女は爛菊を庇うように前へと飛び出してきた。