其の肆拾参:喜び実る変化
翌朝、目を覚ました爛菊は爽快な気分だった。
初めて千晶と向い合って出会った当時の記憶を取り戻すことができて、どこか内心くすぐったいような喜びに溢れていた。
“笑顔に溢れていた方が、きっと亡くなられた母君殿も喜ぶぞ”
当時の千晶の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
「ええ、はは様……」
これまでは、先の母親の凄絶な死の記憶ばかりが脳裏をよぎり心は密かに沈んでいたが、今回の記憶のお陰で気持ちに変化が生まれる。
爛菊は左の胸にそっと手を当てると、瞑目してから微笑みを浮かべた。
学校の制服に着替えてから本邸のダイニングに向かうと、既に三人は揃っていてテーブルにも朝食が並んでいた。
千晶は型崩れしたスーツ姿、鈴丸は学校の制服の上からエプロンをかけていて、雷馳も用意された小学校の制服姿だった。
「おはよう、みんな」
爛菊の登場に、同じく挨拶を返しながら明るい表情を向けてくる鈴丸と雷馳。
しかし千晶は眠たそうにあくびをしている。
構わず爛菊は彼の肩にポンと手を置くと、満面の笑顔で言った。
「おはよう、千晶様」
彼女が人間として生まれてからおそらく初めて見せる、この上なく屈託ない笑顔に千晶は口を開け目を丸くして爛菊を見るなり、思いがけずに胸が大きく高鳴った。
「お? 今朝のランちゃんの笑顔は眩しいくらいに輝いてるね!」
「何か朝から良いことでもあったかの? ラン殿」
これに嬉しそうにフフと笑ってから、爛菊は頷く。
「ええ、とっても!」
弾むような彼女の返事に、相変わらず千晶は見惚れている。
「さぁ、お待たせ。朝食にしよう! ライちゃんは今日から小学生だから、頑張ろうね!」
「う、うむ! ラン殿! 何だか今のうちからそのショーガクセーにドキドキするわい!」
爛菊は椅子に座ると、両手を合わせた。
「では、いただきます!」
彼女に続いて、鈴丸と雷馳も食前の挨拶をする。
だが無言で自分を見つめてくる千晶に、爛菊が煽った。
「ほら、千晶様も!」
斜向かいに座る彼女の笑顔に、千晶はどぎまぎと呟くように言う。
「あ、い、いただき、ます……」
こんな様子の千晶に、鈴丸はニタニタと横目で見ながらご飯に箸をつける。
雷馳だけが何事もなく、朝食にがっついていた。
爛菊達が通う学校は幼稚園から大学までの一貫校なので、千晶が運転する車に爛菊達三人は乗り込んで登校した。
ひとまず先に雷馳と鈴丸を小学校の前に降ろす。
ちなみに鈴丸が従兄という設定で保護者代理として、職員室まで付き合うことになった。
周囲にいるたくさんの子供達に少々不安を露わに戸惑っている雷馳に、爛菊は車の中から激励する。
「大丈夫。頑張っておいでライちゃん」
「う、うむ……」
「さぁ行こう雷馳。じゃあ二人とも後で教室でね!」
雷馳と手をつなぎ、手を振ってくる鈴丸に爛菊も首肯しながら、笑顔で手を振り返す。
二人が校門をくぐって見えなくなると、千晶は車を発進させる。
暫し無言の車内。
このままだといつもの光景だが、先に口を開いたのは爛菊だった。
「記憶を――取り戻したの」
「記憶を?」
「ええ」
「どの辺りだ」
千晶はハンドルを切りながら静かに尋ねる。
「爛がはは様を失った後に、うちの集落へ千晶様が爛を励ましに来た時の」
「ああ、あの時に初めて俺達は言葉を交わしたんだったな」
「ええ。その時に言われた千晶様の言葉が蘇って」
「んー……随分昔のことだから、俺の中では曖昧だな」
「亡くなられたはは様の為に笑顔でいろって言ってくれた」
これにようやくハッとした表情で、千晶は助手席の彼女を見た。
「だから今朝からあんなに笑顔で、口調も明るいものになっていたのか!」
「フフフ……」
爛菊は首肯しながら笑い声を漏らす。
「そうか、そうか、そうか、そうなのか!」
千晶も心から湧き起こる喜びに、高揚感を露わにする。
高校の職員専用駐車場に車を滑らせエンジンを切るや否や、待てないと言った様子で彼は爛菊を力強く抱きしめた。
「今日は最高の朝だ。俺は凄く嬉しいぞ爛菊! またお前の本心からの笑顔を取り戻すことができて!!」
「爛も、千晶様……!」
「この時をどんなに待ち侘びたか知れない……!」
「クスクス……はしゃぎすぎ、千晶様。前世の記憶回復はまだまだこれから」
「あ、ああ、そうだな……」
千晶は彼女から上半身を離すと、愛しそうに頬へ手を当て親指で撫でてから、そっと唇を近づける。
これに爛菊も応えて、彼と唇を重ねた。
「響雷馳と言います。どうぞよろしくお願いします」
朝の小学一年生の教室で、クラスメイトを前に挨拶する雷馳。
学校に通うからには苗字がないと不便だろうと、また爛菊が雷繋がりで“響”と名づけてくれたのだ。
本来の言葉遣いも、なるべく人間の子供相手には通用しないので学校にいる間だけは改めるように指摘され、雷馳が雷獣国で目上の大人に使っていた言葉を使用するよう、心がけることにした。
その容姿端麗さに、男女ともに息が漏れるのが聞こえる。
「こう見えても響さんは男の子です。お間違いのないようにね皆さん」
女性教師の言葉に、今度はざわめきに変わる。
この小学校では基本、男女ともに建て前はお互いを“さん”付けで呼び合うようになっている。
「では響さん、あの空いている席に座ってください」
教師に言われて雷馳は、自分の席へと足を運ばせる。周囲の輝く瞳で注目を浴びる結果に内心、密かに挙動不審になりそうになりつつ、必死で冷静さを装いながら。
席に着くだけでもおかげで雷馳は一苦労だった。
今まで学校になど通ったことのない雷馳にとっては、右も左も分からないスクールライフが始まった。
約七十年生きている実年齢からすると充分、ここにいる生徒は勿論のこと教師に対しても、ずっと先輩ではあるのだが。
休み時間、教師が教室を退出するなりどっとクラスメイトが雷馳を取り囲んできたので、雷馳はギョッとする。
「ねぇねぇ、趣味は?」
「得意なことは何?」
「何が好き?」
「嫌いなものってある?」
一斉に質問攻めに遭い、雷馳は目が回りそうになる。
彼の返事を催促するように束の間静まり返る周囲に、雷馳は一番最後に聞き取れた質問に答えた。
「嫌いなものは、とりあえずムカデ」
やがてお昼になり、給食の時間となった。
まさか食事まで提供されるとは思いもしなかった雷馳は、これに甚く感動した。
雷獣国で孤児だった彼にとって、“食べる”というのはこの上なく貴重で特別なことだったからだ。
凄い……人間というのはこんなにも豊かな種族であったのじゃな……。
内心、密かに思う。
また、孤児だった彼がこんなにも注目を浴びる存在であるのを初めて味わった雷馳は、慣れてくると調子に乗りたくなるくらい嬉しくもあった。
お昼休みになると、校舎案内として担任教師が彼を引き連れて、校内を歩き回る。
覚えることが多すぎて、半ば必死な初日を迎える雷馳なのだった。