其の肆拾壱:鈴丸の両刀使い疑惑
その日の夜、帰路に着くと夕飯を済ませてそれぞれ入浴にする。
雷馳は服装こそ爛菊のおかげで新調されたが、彼女と出会うまで雷獣族の国で孤児で満足な生活を送れずにいたせいもあり、肌は随分と汚れていた。
「丹念に雷馳を洗ってやれ鈴丸」
「え~っ! 僕がぁ!?」
千晶に言われて鈴丸は、あからさまに不服さを込めた口調で応える。
「お前はここの下働きだろう」
「チェーッ、分かったよ。じゃあついでに全身の洗い方を教えてあげるから覚えるんだよ雷馳」
千晶からの命令に渋々頷いてから鈴丸は、雷馳に自分の後に付いて来るように促す。
すると今度は雷馳まで不服さを訴える。
「わしはラン殿と一緒の方が良い――」
ガンッ!!
「俺の妻と混浴しようなど図々しいぞ貴様」
突然の千晶から受けた握り拳に、雷馳は頭を抱えた。
「チッ! 子供であるのを特権にして上手く利用しようとしたが、甘かったか……」
雷馳は舌打ちすると小さな声でぼやいてから、開き直ったように声を大にした。
「何が悲しゅうて男と一緒に風呂に入らんとならんのじゃ。女と一緒に入る事こそ男の悦びと言えように」
「あのね雷馳。まだガキの分際で一丁前にエロ気丸出しにしてんじゃないよ。それにお前と僕が一緒に風呂に入るのは今日だけ。どうせ人間界での入浴の仕方も分からないだろうから、教えてやるだけさ。明日からは自分一人だけで入りな」
呆れ果てながら鈴丸はそう告げる。だが雷馳は負けじと爛菊との混浴にかじりつく。
「ラン殿、わしと一緒に風呂に入りとうないか!?」
鈴丸の言葉を聞き流してパッと明るい表情を、雷馳は爛菊に向けてみる。
「……まだ子供のうちから変態感丸出しなのは嫌い」
爛菊はダイニングテーブルで一人、雷馳へ見向きもせずにお茶を啜りつつスパンと切り捨てた。
「あうぅ……嫌われるのはイヤじゃ……」
「分かったらさっさと付いてきな。パジャマ……寝間着と下着も持ってくるんだよ」
「うむ……」
雷馳はガックリと項垂れながら、今日の午前中に買い物をした紙袋からパジャマと下着を取り出すと、鈴丸と一緒にバスルームへと向かった。
「さて爛菊。俺達も一緒に風呂に入るか」
「……」
何気ない感じでサラリと言ってのける千晶を、爛菊はジト目で無言の答えを返す。
「分かってる。冗談だ」
千晶は本心では半ば本気で言っておきながら、少し残念そうにもう一つの浴室へと歩いて行った。
この家には二世帯住宅なので浴室は二つある。
いつもなら千晶と爛菊がそれぞれ先に入るのだが、今回は千晶の後に爛菊は入浴することにした。
三人を見送ると爛菊はダイニングで一人、種なしの乾燥はちみつ梅をお茶請けにしながら、食後をゆっくりと過ごすのだった。
「帝はあれから上手くいっていますか? 朧」
ここは人狼国の城の謁見を目的とした大広間。
上段の間にいる一人の優美な青年が、すだれ越しに相手へと尋ねた。
朧と呼ばれた中年くらいの外見をした黒い前髪を軽く後ろに流し、肩甲骨くらいまで長い後ろ髪を一つに束ねた男が、正座をし床に両手を着いた姿勢で答える。
「はい。帝は着実に人間界で皇后の妖力回復と、元の人格形成に努めておられるご様子」
「そうですか。一刻も早く皇后が以前のものに戻ることを、願うばかりです」
すだれの向こうで、青年は静かに口にする。
「僕もこうしてこの場を預かっている身。帝が無事皇后を連れ帰るその時まで、代理として守る責任がありますからね。重要な立場上、迂闊に気が抜けませんので」
「然様でございます。その分、この朧も微力ながらお力になればと存じます」
「僕がここまで頑張れるのも、朧のおかげでもあるのですよ」
「は、有難き幸せ」
すると、ふとすだれの向こうから嘆息が漏れた。
「問題は、僕の弟ですね……しっかり見張っておくのですよ朧」
「御意に」
落ち着きのある丁寧な口調でそのまだ若い声は、この初老でもある朧へと淡々と語りかける。
朧はその言葉に顔を伏せたまま、力強く答える。
彼の返事を満足そうに、すだれの向こうにいる上段の間の青年は大きく真白い尻尾を一振りした。
「苦労をかけてばかりですね、朧には。時々そんなお前に心苦しく思う時があります」
「いいえ、恐れ多いお言葉。これが某めの務めですゆえ。どうか気を楽になさってください」
「いつもありがとうございます。朧」
「は……」
青年の言葉に、朧も喜びを露わにするが如く、その灰色の尻尾を一振りした。
顔は一切無表情ではあったが。
鈴丸と雷馳が入浴を始めてから五分後。
「ヒィヤアアァァァァーッ!!」
突然ヒステリックに狂い出したような絶叫が響き渡り、爛菊は思わず手にしていた湯のみをテーブルの上に取り落としてしまった。
あの情けない感じの叫び声は、紛れもなく雷馳のものだ。
そして一瞬、妖気を感じたがすぐに消える。
何事があったのかと思われるが、女の爛菊が入浴中であろう男のいる風呂場に駆け込むのは躊躇われた。
どうしたものかと狼狽えていると、バスローブを羽織った千晶が姿を現した。
「ライちゃんの悲鳴が……!」
「ああ。俺が様子を見てくるからお前はここで待っていろ爛菊」
千晶が鈴丸達がいる浴室に駆けつけると、全裸姿の雷馳が顔面蒼白で彼を見つけるなり千晶に涙目で飛びついてきた。
「鈴丸がっ! 鈴丸が突然わしの背中を舐めてきたんじゃ! 奴はとんでもない変態じゃぞ千晶ぃぃーっ!!」
「な……っ」
千晶は驚愕すると同時に、脱衣所で立ち尽くしているパンツ一枚姿の鈴丸へと、視線を走らせる。
彼は手にシャンプーの詰替え用を持って立っていたが、雷馳の言葉に目を据わらせる。
「おい。もっと落ち着いて状況をよく見てみなよ雷馳。お前が放電ったのはあいつ」
鈴丸が指差す方へと浴室の中を覗き込むと、そこには青い肌に爬虫類のような皮膚を持つ骨と皮だけに痩せ細り、薄い髪を油で撫で付けたような姿の妖怪と思しき者が、雷馳からの電撃を直に受けてその異常に長い舌を投げ出し倒れていた。
「僕はシャンプーが切れているのに気付いて、雷馳を浴室に残しこれを取っている間に事態が起こったみたいだね。僕が気付いた時にはもうああして伸びていた」
鈴丸はそう千晶へと言いながら、浴室のタイルに倒れている妖怪へと顎をしゃくる。
「お前……相っっ当汚れていたんだな、雷馳。こいつは“垢舐め”だ。浴室などの垢を主食としている妖だ。大概は汚れた浴室の床や桶に付いている垢を舐め回すとされているが、お前に直接舐めてきたってことはそれだけ垢舐めにとって、お前は最高のごちそうだったんだろうよ。しかも、垢舐めを呼び出すくらいにな」
千晶に指摘されて、コロッと雷馳は態度を変える。
「何じゃ。鈴丸ではなかったのか」
「当たり前だろ! 誰が悲しくてお前の裸を舐めるもんか!」
「まぁー……とりあえずこの際だからこいつの妖力、爛菊に吸収させよう。飛んで火に入る、だ」
千晶は頭を掻きながらぼやくように言うと、ぶっきらぼうな歩き方で爛菊を呼びに行く。
「はぁ~……雷馳が不潔だったばっかりに妖力奪われちゃうなんて、この垢舐めも不憫だねぇー……」
「さっきからわしのことを汚いだの不潔だのと何度も言うな! 傷つくじゃろうが!!」
嘆息混じりで呟くように言う鈴丸に、雷馳は声を荒らげて彼を見上げる。
これに鈴丸は余裕げに弛緩させた表情で、見下ろしながら言った。
「うん、全裸で言い返されたって同情の余地なしだからね雷馳。とりあえず垢舐めを片付けた後で精一杯全身を洗うことだよ」
「ぐぬぬ……っ!!」
鈴丸の言葉に言い返せずにいた雷馳だったが、別の気配を感じて素早く背後を振り返った。
そこには、爛菊が瞬き一つせずに立っていた。
こうして雷馳は全裸姿を彼女に見られ、不運にも姿を現した垢舐めから半分だけでも、爛菊は妖力を吸収させてもらおうと言うことになった。