其の参拾伍:優しさと喜びの温もり
本来ならば離れにある部屋の一つを以前、鈴丸が使用していたが爛菊が来てからは千晶のいる本邸の方へと、部屋は移動された。
一応下働きという立場上、一階の部屋を与えられている。
北向きで玄関側の方が鈴丸の部屋だが、東向きの浴室側にも空部屋がありそこがこの度、雷馳の部屋となった。
本人は二階の方が空に近いからいいと意見したが、居候ごときの身分は鈴丸同様一階で充分だし、一階だろうが二階だろうが窓が二つも付いている部屋なのだから空は拝めると、千晶から却下された。
「何じゃい! 帝の割には寛大さに欠けておるわぃ! このケチッ! ケチンボ! ドケチ!!」
「何だったらお前ら雷獣族の住処がある空に帰ってもらっても構わんぞ」
「ぐ……っ!」
千晶から冷ややかに指摘されて、言葉が詰まる雷馳。
両親もいない孤独な雷馳は、更にまだ妖怪の中では幼いのもあって雷獣族の中にいても肩身は狭く、身分もない。
故に今回、爛菊の優しさに触れて心中ではこの上なくホクホクと温かい、喜びに満ちていた。
この気持ちを手放したくないのが雷馳の本音だ。だが。
「べ、別にわしは、いつ戻っても構わんのじゃが、ラン殿のご厚意をむざむざと無下にするのは失礼と言うものであろうが。ラン殿のわしへの“愛情”が冷めるまで、やむを得ずわしはこの野暮ったい家に身を置いてやるのじゃ。喜ぶべきことじゃぞ千晶とやら」
腕を組み、胸を張って顎を上げ、フンと雷馳は威張る。
直後。――ガシッ!!
雷馳はその自分の背丈よりも大きく無防備な尻尾を千晶に掴まれるやヒョイと持ち上げられ、近くの窓を開けた千晶が一言。
「出て行け」
「わぁー! わっ、分かった! 分かった! 分かったからわしをここから追い出さんでくれぇ!!」
逆さまに吊るし上げられてジタバタと暴れながら、必死で雷馳は千晶に懇願する。
このやり取りを冷静に見ていた爛菊は、落ち着き払った口調でリビングのソファーに座ったまま声をかける。
「千晶様、子供に乱暴は良くない」
「……分かったよ」
溜息混じりで答えると千晶はしぶしぶと、それでいて徐ろに雷馳の尻尾からパッと手を放した。
よってドタンと雷馳は床へと落下し、しこたま全身を打った。
雷馳は上半身をゆっくり起こしながら、特に痛みを覚えた肩に手を当てる。
「いたたた……っ! うっ、うぇ~ん! ラン殿っ、怖かったよ~ぅ!!」
立ち上がると転がり込むように爛菊の元へと雷馳は駆け寄る。
「大百足へ果敢に立ち向かったライちゃんなのに、千晶様は怖い……?」
ソファーに座っている自分の膝に泣きついてきた雷馳に、爛菊はそっと水色の髪をした頭を撫でながら尋ねる。
これに雷馳は彼女の膝から上げた顔を俯かせて、ボソボソと答えた。
「こやつの場合は、まだ幼気なわしに精神的圧力をかけてくる違いがあるものじゃから……」
雷馳の言葉に千晶は呆れながら、窓辺に立ったまま前髪を掻き上げる。
「お前、あれだけ子供扱いするなと言っておきながら今になって幼気だと? 爛菊の優しさを逆手に取っているな?」
「そうなのライちゃん?」
まだ自分の膝に縋り付いている雷馳の両肩に、爛菊は両手を置いて静かに尋ねてみる。
すると凄い勢いで雷馳は顔を上げて、大きく首を横に振った。
「ううんっ! そんなことないぞラン殿! ただ……今までラン殿みたいにわしを扱ってくれた者がおらなんだから……わし、嬉しくてつい……甘えとうなるんじゃ……」
雷馳は落ち着きなく視線を泳がせ、赤面しつつ口をとがらせる。
「ライちゃん……」
「だったら初めから素直にそう言えば良いものを」
同情を覚える爛菊に続き、千晶が投げやりに言葉を口にする。
するとこれに敏感に反応して背後の千晶を振り返ると、雷馳は声を荒げる。
「む……っ、ぬっ、主も男ならいちいち口に出さずとも態度を探ってそれくらい察せい、このたわけ!」
それまで窓辺に立っていた千晶は、リビングの空いているソファーに身を投げると言った。
「子供の次は男としての同意か。お前のような小僧と俺を同類にするな」
途端に真顔になったかと思うと雷馳は、爛菊の顔を見上げて心配そうに口にする。
「ラン殿、本当にこの男で大丈夫なのかの? 夫にする相手は……」
「この老人小僧……やはり追い出してやろうか」
握り拳を作る千晶に、雷馳はソファーと爛菊の間に無理矢理全身をねじ込ませて、彼女の背後に隠れながらあっかんべーをするのだった。
「ところでライちゃん。何か特別に好物なご飯類、ある?」
「む? わしは好き嫌いはこれと言ってない。ある程度何でも食べるぞ」
爛菊に尋ねられて、雷馳は彼女の隣に移動してソファーに座り直すと、答える。
「そう。じゃあお粥の残りがある。瘴気をたくさん受けた分、今はまだ胃腸も弱っているはずだから、まずはお粥を食べて消化を馴染ませよう。その後にでも、キャンディーをあげる」
「おか、ゆ……」
爛菊に言われてそう小さく呟いてから、雷馳の腹が思い出したようにグゥと鳴った。
「そう言えばわし……一昨日から何も食しておらんのぉ……では、ラン殿の言葉に甘えて頂いてやるかの。その代わり味が悪ぅたら承知せんぞ」
空腹を訴える腹に両手を当てると、途端にツンと取り澄ました表情で雷馳は威張る。
「厳しい言葉」
爛菊は雷馳の言葉にポツリと言い残して、キッチンへと向かった。
その一言が意味深さを感じさせ、思わず雷馳は彼女の気を悪くさせたかと不安を覚えた。
しかし、三分もしないうちにお粥が用意されて、ダイニングテーブルに移動して食べ始めた時には、不安感もすっかり消え失せていた。
お粥を一口一口食べるごとに、雷馳は他人から初めて得る温もりで喜びによる感動からか、美味い美味いと半ば涙目で言葉にする。
雷馳は周囲の存在も忘れ必死にレンゲを口に運びながら、こうしてたちまちペロリと平らげてしまった。
「こんなに美味い飯を食うたのは、生まれて初めてじゃ……恩に着る、ぞ……ラン……殿……」
安心感を得たのか、途端に雷馳はウトウトし始めた。
やがては崩れるように椅子から大きく傾いた彼を、素早く千晶が受け止める。
「何だかんだと言いつつも、こういう所がまだまだ子供だな。部屋に運ぶから爛菊、布団を敷いてくれないか」
「ええ。キャンディーは目が覚めてからね」
爛菊は千晶が指定した部屋に向かいつつ、チラリとソファーを一瞥して三毛猫姿のままの鈴丸の様子を確認した。
鈴丸は穏やかに寝息を立てている。
これに爛菊は安心して歩を進めた。
翌朝――。
昨日の嵐とは打って変わって空は透き通るような青空で、太陽の光が降り注いでいた。
そんな中。
「ラン殿っ! ラン殿はどこじゃっ!! こうなったら千晶でも構わん! 誰かおらんのかーっ!!」
ドタバタという激しい足音に、千晶は二階にある自分の寝室ではたと目を覚ます。
「ったく……子供ってのは迷惑なくらいに朝が早いものだな……」
すると離れの自分の部屋で寝ていたであろう爛菊が、この本邸とつながっている二階の廊下のドアを開けて入ってきたようだ。
「どうしたのライちゃん」
「居間にっ! 居間に猫又が寝ておるのじゃ!!」
「ああ、彼ね。彼も一緒にここへ住んでるの」
「猫又を、人狼が!?」
「不思議かも知れないけど、そうなの」
「奴はここの下働きだ」
爛菊がしゃがみこんで雷馳を宥めている中、一つの部屋のドアが開いてのそりと千晶が目をこすりながら姿を現す。
「下働き……!?」
背後に立つ千晶を振り返って、雷馳は彼の言葉に驚愕を露わにする。
「ああ。俺はそう扱っているがな。何だったらお前もその一員に加えてやってもいいぞ」
「昨夜は猫の姿で寝ていたから気付かなかったんだね。さぁ、大丈夫だから一緒に下へ行こう」
怯えている雷馳の手を繋いで、襦袢姿のまま爛菊は千晶も一緒に一階へと向かった。
するとソファーに猫耳と二又尻尾姿の鈴丸が寝ていた。
「かろうじてここまで人の姿に戻れたようだな」
千晶は言いながら、のんきに大きなあくびをした。