其の参拾弐:解毒治療
「さて、では始めようか」
和泉は三毛猫姿の鈴丸を仰向けの形で寝かせる。
猫の姿なので、こうした格好をされると思わず可愛い。
「本当なら直接肌に梵字を書くところなんだが、腹部の毛を刈ったら後で目覚めた鈴丸から文句を言われかねないからな」
言いながら和泉は、手にしていた長方形の紙の束の一枚目に朱色の墨で筆を走らせると、それを束から切り離して鈴丸の腹部に貼り付けた。
紙に記された朱色の文字は縦長に繋がった、切れ目のない梵字だった。
もちろん、千晶も爛菊も何を書いているのかは読めない。
見方によってはまるで幼児が描いた、奇妙な模様にも見える。
そんな二人を他所に、和泉は手で印を結びながら何やら唱え始めた。
「ノウモ バギャバテイ バイセイジャ クロ ベイルリヤ ハラバ アラジャヤ タタギャタヤ アラカテイ サンミャクサンボダヤ タニヤタ オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャサンボリギャテイ ソワカ」
引き続き今度は素早い動きで右手の人差し指と中指を立て、自分の正面の空間に複雑な動きで手刀を切り始める。
縦に四回、横に五回と九字の印を切る。
まるでマスを書いているかのようだ。
「天元躰神変神通――力!!」
最後の一句で手刀の先を鈴丸の腹部の上に置かれた長方形の紙――護符に当てると、和泉は瞑目しながら静かに手刀を握った左手の中に収めた。
すると護符は一瞬緑色の炎を上げたかと思うと、たちまち消滅した。
少しして、仰向けになっている鈴丸はスゥと息を吸った。
「ニャア……ン」
一声小さく鳴くと、やがて穏やかな呼吸となる。
先程までの荒い息遣いではなくなっている。
「どうなったの?」
「ああ、解毒はしたよ。もう鈴丸の体内には一滴の毒も存在していない。今は苦悶した疲労感から眠っているだけだ」
爛菊の言葉に和泉は答えると、スッと立ち上がって神棚の方へと向かった。
爛菊は和泉の言葉に心底安心する。
やがて神棚から戻って来た和泉の手には、黄色や橙色に小さく煌めく粉のような物が入った小瓶があった。
「鈴丸が目を覚ましたら、これを飲ませるといい」
「これは……?」
和泉から小瓶を受け取りながら、千晶は尋ねる。
「琥珀の粉末だ。毒の免疫効果がある。今後多少の毒には、これによって得た新たな妖力で防ぐことができるだろう」
「大百足のようなものでも?」
「いいや、そこまでの効力はないよ。大百足ほどの毒から免れるには、鈴丸の歳月での成長によって増加する妖力次第」
千晶に続いて和泉に尋ねた爛菊だったが、彼の返事を聞いて少しだけ気を落とした。
しかしそれは、妖である以上当然のことであり、仕方のない事だ。
とにかく鈴丸は、まだ妖としては幼すぎるのだから。
「ちなみに皇后、妖力吸収にてどれくらいの力を得たかな?」
「まだ……大百足を倒して人並み以上の体力を得たくらい。他には妖気を感じ取れるようになったとか」
「そうか。やはり人狼皇后としてはまだまだだな」
「ええ、呉葉にも言われた」
爛菊の言葉に、刹那和泉は黙考する。
「呉葉……ああ、信州戸隠の鬼女、紅葉のことか。そう言われると確かに彼女の本名は呉葉だったな」
しかし和泉の言葉を軽く聞き流して、爛菊は突如話題を変える。
「あの、もう鈴丸は引き取っても?」
「ん、ああ、構わないよ」
爛菊の反応に特別和泉も気にせず首肯する。
「ところでその雷獣、どうするんだい? 良かったらこちらで預かろうか?」
「いいえ。せっかくの出会いだから、爛が手当てをして空に還す」
爛菊は和泉の申し出をまたもやあっさりと軽く断る。
雷獣の住処は雲の中なので、空が生息域だ。
「ふむ。ではせめて浄化だけでもしておこう」
「浄化?」
和泉に言われて、爛菊は自分の膝の上で横たわっている雷獣を撫でている手を止め、顔を上げる。
「ああ。大百足とやりあった時に、瘴気に何度も当てられているみたいだ。この若さの雷獣では、このまま看病をしただけでは衰弱しきっていずれ死ぬだろう」
瘴気と聞いて、爛菊は大百足の周囲にたくさんの青白い火の玉があったことを思い出す。
確かに、この雷獣はあの火の玉を受けてから気絶した。
爛菊は納得すると、自分の膝の上で横たえている小さな雷獣をそっと優しく抱き上げた。
「ええ、だったらお願い」
爛菊は三毛猫姿の鈴丸と大差ない大きさの雷獣を、両手に乗せて和泉に差し出す。
代わりに、今度は未だ仰向けのまま横たえられている鈴丸を、自分の腕の中に抱き上げた。
爛菊、千晶、和泉の三人が囲む中央に今度は雷獣を横たえると、和泉はその体へ静かに手の平を当てた。
しばらくしてから、和泉はゆっくりとした動きでその手の平を雷獣から離す。
するとまるで釣り上げられるようにして、上へと持ち上げた和泉の手の平と雷獣の間から、青白い火の玉が揺らめきながら現れた。
大百足がいた時に見たのは拳くらいの大きさをした火の玉だったが、きっと何発も食らったからだろう。
それは一つに寄り集まり、車のタイヤ程の大きさがあった。
熱はまったく感じなかったが、その大きさの火の玉に爛菊はつい上半身を仰け反らせる。
すっかり自分の手の平の上へと、雷獣の体内にあった大百足の瘴気である火の玉を吸い出すと、和泉はもう片方の手を大きく振りかぶって口走った。
「滅!!」
同時に片手を振り下ろして、パンと両手の平同士を打ち合わせる。
和泉の手の平の上で揺らめいでいた車のタイヤ程もある火の玉は、あっと言う間に呆気なく雲散霧消してしまった。
「……お前にとっちゃあ瘴気は蚊を叩き潰すにも等しいな」
平然と口にする千晶に、和泉はふと笑う。
「所詮は大百足程度の瘴気だからな」
言うと和泉は両手をパンパンと振り払った。
爛菊にとっては、あれだけの大きさの瘴気をいとも簡単に消し去る和泉の力の偉大さに、瞠目せずにはいられなかった。
しかしまた、あれだけの大量の瘴気を受けながらも戦っていた雷獣にも、感心を覚えた。
「さぁ、後は皇后の看病次第だ。連れて帰っても構わないよ」
和泉はニッコリと笑うと、まだ意識を取り戻していない雷獣を猫にするかのように、首根っこをヒョイと掴んで爛菊へと差し出した。
これに爛菊は再び不快感を覚えて抗議した。
「弱っているのだからもう少し優しく扱って!」
爛菊は雷獣を受け取ると、両腕の中に収める。
ちなみに鈴丸は彼女の膝の上だ。
「おやおや、これはすっかり私は皇后に嫌われてしまったかな」
苦笑する和泉を睥睨しながらも、爛菊はやがてふと視線を落とすと呟いた。
「いいえ。今回スズちゃんとこの雷獣を助けてくれたことには感謝している。思わず焦りから感情的になってしまっただけ。ありがとう」
「クスクス……礼には及ばないよ。しかし、貴女に嫌われていなくて安心した」
和泉は言うと、その美しいまでの碧眼で優しく爛菊を見つめた。