其の参:爛菊の意識が目覚める時
瞬間、鋭い電流が爛菊の脳内を駆け巡り、それまで閉ざしていた目を大きく見開くと直後、爛菊が雅狼を思い切り突き飛ばしていた。
しかも尋常ではないその力に雅狼は部屋の奥まで吹っ飛び、壁に叩きつけられる。
そのまま落下すると雅狼は床にしたたか尻を打つ。
「う……っ、なっ、この力……!?」
驚愕を露にする雅狼だったが、ソファーから上半身を起こして深く俯いた状態で小刻みに震える小さな両肩を自分で抱きしめている彼女の異変に、雅狼は無言で眉宇を寄せる。
するとくぐもった声で爛菊は小さく述べた。
「あ……わ、わたくし……は……」
そしてスイと雅狼へ顔を真っ直ぐに向けると、無表情にはっきりとした口調で言い放った。
「この爛の本当の名は、朝霧爛菊」
落ち着き払った様子の彼女の双眸は、白銀の光を帯びていた。
「その目……その言葉……ああ、そうだ爛菊。俺はずっとお前を探していた。お前の魂を。そしてやっと容姿もそのままのお前を見つけた」
雅狼は叩きつけられた壁に背中を預けたままの姿勢で冷静に告げる。
だが爛菊が瞬きした時、確かに白銀の輝きを帯びていたはずのその双眸は、いつもの黒い瞳に戻っていた。
グラリと、爛菊の起こしていた上半身が、ソファーから床に傾く。
これに雅狼は反応すると素早い動きで彼女の元へと駆け寄り、倒れこんできた爛菊を自分の腕の中に抱きとめた。
「爛菊、お前は俺のものだ。この世に誕生した時からそれは決まっていた。あんな勘違いした身の程知らずな老人の元には戻しはしない。今後お前は、ずっと俺の側にいてもらうぞ爛菊――」
自分の腕の中で気を失ってしまった爛菊を優しく抱きしめてから雅狼――千晶は、彼女を抱き上げてその場から連れ去った。
まどろむ意識の中、まるでフラッシュバックのようにいくつかの映像が脳裏をよぎる。
これは、知っている。
身に覚えのある記憶。
遠い、とてもとても遠い昔の記憶。
蘇る感情。
それは愛。
今まで決して感じたことのないもの。
しかしどういうわけか、それを知っている。
これもやはり、遠い遠い昔に芽生えた愛。
大切な存在。
自分へと伸びてくる逞しい手。
それを掴むことなく闇へと堕ちる。
その目に映るのは長い金色の髪をした男と、鮮やかな深紅の血。
ああ、そうか。
自分は死んだのだ。
何者かに殺されて。
そんな自分をこの男は必死に助けようとしてくれている。
彼は……その男の名は――。
「――千晶様……!」
自分が言い放ったその声に響きに、驚きと共にハッと目を覚ます爛菊。
「呼んだか」
すぐ側で声がして、爛菊は更に驚愕を覚えながらそちらへ顔を向ける。
彼女が横たわるベッドの脇に、椅子に腰を掛けた金髪の男が座っていた。
彼はウルフカットのヘアスタイルをした、爛菊の通う学校の担任教師だったが、爛菊は自分の中に蘇った僅かな記憶の中で遥か昔から彼を知っていた。
彼の本当の名は雅狼如月千晶。
獣なる妖である人狼を統べる帝。
ずっとずっと遠い昔に、爛菊を寵愛していた男だ。
「千……晶、様……」
爛菊は上半身を起こすと、記憶の中で自分が呼んでいた言い方で改めてもう一度、彼の名を口にする。
「思い出したか。俺との関係を」
千晶は静かな口調で尋ねてきた。
「はい……僅かな記憶ではありますが、爛は貴方から愛されておりました。そしてまた、この爛も貴方のことを……爛は一度、死んだのですね?」
浮かない表情の爛菊の言葉に、千晶は落ち着き払った様子で答える。
「ああ、そうだ。そして妖だったお前は、こうしてただの人間に生まれ変わった。俺はようやくお前を見つけたのだ爛菊」
無表情に無言を返してから爛菊は、更に無感情で呟くように尋ねる。
「爛は……もう貴方に抱かれたのですか千晶様」
これに千晶はふと微笑を浮かべる。
「いいや。俺は寝込みを襲うほど落ちぶれてはいない。ただ、お前の前世の記憶を引き出したかっただけだ。だがお前はキスをしただけでこうして僅かではあるが記憶を取り戻した。今はそれだけで充分だ。何も慌てることはない。ゆっくりと自分のペースで全てを取り戻せばいい」
彼の言葉に、相変わらず爛菊は人形のように表情を微動だにせず、小さく首肯する。
何せ嶺照院に嫁いでからというもの、全ての感情を殺して今まで生きてきたせいで上手く表情に出しにくくなってしまっているせいもあった。
爛菊はようやく気づいたかのように、小さな動きではあったが周囲を見渡してから抑揚のない口調で、ポツリと呟く。
「ここはどこですの?」
千晶はこんな調子の爛菊の今までの環境を知ってか知らずか、特別気にした様子もなく答える。
「俺の家だ。言ったはずだ。お前の自由を叶えてやると。純潔こそは奪いはしなかったが唇は奪った。勿論、ファーストキスなのだろう?」
これにはさすがの爛菊も、思い出すと頬を紅潮させた。
「クックック……いいだろう。ともあれもうお前は俺の女だ。嶺照院に戻る必要はない。これからは自由を満喫するといい」
言い残すと千晶は部屋を立ち去ろうと椅子から立ち上がり、彼女に背を向けたが爛菊から半ば慌てるように声をかけられた。
「あのっ! ……何と申したら良いのか……その、ありがとうございます千晶様」
「その敬語、躾けられて使用しているのならもうやめろ。前世の記憶が僅かであっても戻ったのなら、当時と同じ口調に戻しても俺は構わん。寧ろ、その方がいい。もうしばらくゆっくり休め。そして気が向いた時にそのベッドサイドにあるベルを鳴らすといい」
千晶は体を斜に向けた状態で爛菊へと言葉を返す。
「はい、分かりまし――あ……えっと、ええ、分かったわ」
今しがた敬語をやめるよう千晶に指摘されたことを思い出して、爛菊は戸惑いながらも以前の自分――前世の頃に使用していた砕けた口調で答える。
「よし、それでいい」
千晶は納得したように首肯してから、静かに部屋を出て行った。
彼を見送ってから爛菊は奇妙な、どこかくすぐったい感情を覚えた。
それは喜びと呼ばれるもの。
本心からこんな感情を抱いたのは、人間としてこの世に生まれて初めての事だった。
今までまるでお互い関心を示さなかった学校の担任教師が実は前世での繋がりがある男で、あれだけ息苦しい思いをしてきた嶺照院から助け出してくれた。
尚且つ単純ではあったがたった一言の褒め言葉。
相手が前世で確かに自分が愛したであろう千晶だったからこそ、得られるささやかな幸福感だった。
この2つを思えばこその、心の底からの喜び。
そう。爛菊は彼への愛を思い出してしまったのだから。
人狼族の帝、雅狼如月千晶への当時の愛情を。
しかし――果たして当時の自分はつまりどういう立場だったのだろうか。
それがまだ分からない切なさ。
だが記憶を取り戻した今、爛菊は当時と同じように千晶への愛しさを感じていた。
この世に“人間”として誕生してからの、初めて覚えた――思い出した――恋愛感情だった。
でも何であれ、今はこうしてその彼が自分を側に置いてくれる。
思っただけで再びくすぐったい喜びの感情に満たされる。
嶺照院にいる時は、感情を殺していたというよりも失われていた。
感情を表に出すのははしたないことだと躾けられていたのもあった。
しかしここは違う。
いや寧ろ、感情を出さずにいるのが不可能なほど爛菊は解放感に満ち溢れていた。
そういえば――学校の生物学教室にある千晶の個室で彼からキスをされた直後、走馬灯のように蘇った記憶の断片があった。
「爛の本当の名は……朝霧爛菊……」
前世での自分の名前。
ここでふと疑問が浮かんだ。
今現在人間として生まれ変わってからも、名前が同じ“爛菊”であること。
偶然にしてはどこか出来過ぎている。
だがその疑問を解くことは出来ずじまいだった。