其の弐拾柒:それは記憶の彼方
半ば白昼夢の感覚で、爛菊は我に返った。
「あ……千晶、様……」
爛菊は目前にいる千晶の姿を改めて確認する。
「ああ、俺だ。何か思い出したようだな」
爛菊の目からは、とめどなく涙が溢れていた。
「ええ……爛の……人間に生まれ変わる前の前世の記憶……」
相変わらずポロポロと涙がこぼれる爛菊の頬に優しく手を当て、千晶は親指で涙を拭ってやる。
その手に爛菊は自分の手を重ねて、千晶の温もりに安らぎを覚える。
「前世で爛のはは様は……何者かの呪術によって爛が幼いうちに、亡くなられてしまっていた……」
「ああ。俺はお前の母君に会ったことはなかったが、前世のお前から話は聞かされている。確か、月詠殿と仰っていたな」
「ええ。あんなに優しかったはは様が、呪術の邪気のせいで凄絶な死に方をした。今こうして記憶が戻ってもとても辛い……!」
泣きじゃくる爛菊を、千晶はそっと優しく抱きしめる。
爛菊は彼の腕の中でしゃくりあげていたが、はと何かを思い出して顔を上げる。
「ちち様は……十六夜様はどうなさっているの……?」
「十六夜殿は今もご健在だ。しかしもう長い間、人間界には下りてきていない。会えるとしたら、人狼族の住処に行かなければならない」
千晶の言葉に、爛菊は安堵の息を漏らした。
「では、ちち様に再会する為にももっともっと妖力を蓄えて、完全な人狼に戻らなければ」
「そうだな。十六夜殿は俺にとっても義理の父親だからな。生まれ変わったと言えど外見も前世とそのままのお前に、きっとお喜びになられるだろう」
父の健在に束の間表情を綻ばせた爛菊だったが、またもやふと表情が陰る。
「でも……はは様を呪い殺したのは一体誰……」
これに千晶が落胆の口調で答える。
「呪術は相手の命を奪い終わったら痕跡が消えてしまうからな。こう言っては何だが、十六夜殿がもう少し早く戻っていれば、その痕跡が辿れた。俺は勿論のこと、一集落の首長の立場でいる十六夜殿にもそれだけの力がある。何であれ、今でも犯人は謎のままだ。ただ……いや、まぁいい」
語尾で何か言いかけてから、首を振って口を噤んでしまった千晶の様子が気になったが、今はまず別のことを爛菊は気にかけた。
「けれど、なぜ突然前世の記憶が……一瞬のフラッシュバックは今まであったとしても、これだけ長い前世帰りは大概眠っている時だったりするのだけど」
「おそらく今回、今まで以上に大量の妖力を吸収したことで、記憶も相応に取り戻したのだろう。きっと今後も、今回のようなことが増えてくるはずだ。爛菊、お前は人狼皇后として、しっかり前世の記憶を受け入れてゆけ」
「はい、千晶様……」
改めて爛菊の目尻に溜まっていた涙を、千晶は人差し指の関節で拭い去るとそのままそっと、彼女にキスをした。
爛菊も、彼から与えられる温かい口づけを素直に受け止めるのだった。
そういえば千晶との触れ合いの時でも、時折前世の記憶がフラッシュバックすることを爛菊は脳裏で思い出しながら。
「へぇ、縊鬼がかい? あんな低級の小鬼など、敵にもならなかっただろう」
昼食の時間、いつものように屋上で弁当を広げていた爛菊と鈴丸の二人に混ざって今回は千年妖怪、信州戸隠の鬼女である紅葉もその場に揃っていた。
相変わらず藍色を基調とした着物姿に、サイドの髪をおろして後ろ髪はまとめ上げ簪で留めている格好で、悠然と屋上のフェンスの縁に腰を掛けている。
爛菊が学校にいる間、唯一本来の姿でいられるのでもれなく紅葉も暇潰しに遊びに来ていた。
“紅葉”として存在しているので、普通の人間から姿は見えない。
爛菊からの話を聞いて紅葉は言うと、クスクスと笑いながら細長い煙管を燻らす。
「千晶様にとってはね。だけど爛にとっては、正直抵抗できなかった」
「でもそれだけ妖力を高めた縊鬼から妖力を全吸収したんでしょ? だったらランちゃん丸儲けじゃん。良かったね!」
他人事のように笑顔を見せる鈴丸に、爛菊は内心複雑な気分になる。
「今となっては、だけど」
嘆息と共に鈴丸の言葉へそう言い返す爛菊。
「それでも私が見る限り、爛ちゃんの妖力もやっと十分の一ってところだね」
紅葉の言葉に、指摘された本人以上に驚きを見せたのは鈴丸だった。
「え! まだたったそれだけ!? 結構ランちゃん頑張ってるのに」
これに紅葉は平然と答える。
「爛ちゃんは実際、人狼皇后だろう。それを見越せば、それだけの器に納まるだけの妖力を得るにはまだまだ全然足りやしないよ」
彼女に言われて、爛菊も迷うことなく首肯した。
「確かに呉葉の言うように、ようやく妖気を察知することができるだけで、まだ人狼らしさには遠く及ばない。第一変化どころか爪も牙も持たないもの」
呉葉とは以前述べたが、紅葉の本名だ。
また、千晶は人の姿でも獣らしく鋭い爪と牙を出現させられるが、爛菊にはまだ不可能だ。
ちなみに第一変化も以前述べたように、獣の耳と尻尾を出現させることだ。
「あんたはよく分かっていないかも知れないけどね、ニャンコロ。人狼族ってのは隠された裏の顔が実在するんだよ。それを思えば、皇后ともなるには途方もない妖力が必要になってくるのさ」
「ニャンコロ言うな! でも裏の顔って何」
とりあえず紅葉に言い返しておいてから、ふと鈴丸が疑問を口にする。
これには爛菊も首を傾げる。
「それは時と共に学ぶんだねニャンコロ。爛ちゃんもいずれ分かるさ。ま、悪いことではないのは確かだよ」
「あーっ! また僕をニャンコロ呼ばわりしたぁ!」
「ニャンコロはニャンコロだよ」
紅葉はクスクスと愉快そうに笑いながら、煙管の煙を口の中で燻らせた。
「千晶様に聞けば教えてくれるかしら。その人狼族の裏の顔のこと」
「さぁてねぇ。時期的にはまだ早いと判断しそうだけどね」
「その通り」
紅葉の言葉に引き続き、突然別の声がそれに答えた。
振り返ると、そこには外した眼鏡を片手にした千晶がいた。
「えー! 何で? いいじゃん教えてくれたってさぁ!」
抗議を露わにする鈴丸。
だが千晶は落ち着き払った様子で答える。
「物事には知らない方が幸せな時もある」
これに負けじと鈴丸が食いつく。
「じゃあ知ったら幸せじゃなくなるの?」
「いや、都合の良し悪しの問題だ。そんなことより俺の弁当は用意したか鈴丸」
「全く。これだから大人は嫌いだよ。はい、牛カルビ丼」
鈴丸は不満を口にしながらも、千晶の為に作っておいた弁当を差し出す。
爛菊は、鈴丸が女子から作ってもらった弁当を食べていた。
人気者の鈴丸は女子から持て余すくらいに弁当を貰うので、本来弁当の用意をしなくても構わないのだが、おかずがいつも魚なので肉派の千晶からの苦情により彼だけの分を鈴丸は用意したのだ。
余談ではあるが、山育ちの紅葉は山菜料理を好みとしていた。