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其の弐拾陸:今は昔



 時は人間世界でいう年号の1764年、明和元年。

 ここは人狼族の集落の一つ。

 妖怪界にある人狼族の地域で、都がある城下町とはずっと離れた田舎。

 爛菊(らんぎく)はそんな田舎に生まれたまだ幼い娘だった。

 母親はとても優しく、我が子である爛菊を心から愛していた。

 幼い爛菊も当然母親のことが大好きで、また父親に対しても(しか)りだった。

 人間界寄りの、人狼族地域の北側に位置しているのもあり食料である獲物を狩るのに男達は、度々狼の姿で人間界へと下りる。

 父親はこの集落の首長をしていて、アルファとして手下の男達を引き連れエゾジカを追うのだ。

 遠出をする時は決まって三日は集落を離れる。

 人狼族でもやはり普通の狼と生態は一緒で、首長である父親は狼の社会でいうところの第一位“アルファ”であり、最下位は“オメガ”となる。

 オメガ達はこの集落で一番年下である爛菊の面倒を見る役割も担っていた。

 よってこの集落も、本来の狼社会と同じで腹違いや父違いなどの兄弟姉妹で構成されていて、皆家族として三十人くらいの集まりでできていた。

 第一位(アルファ)はそれぞれオスとメス一頭ずつとなっているので、爛菊の父親である首長と母親が位置づけられている。


「はは様、見て見て!」

「ええ、ちゃんとここで見ているわよ」

 ある日、幼い爛菊は縁側に座って母親が見守る中、庭で手鞠(てまり)をして遊んでいた。

 すると突然、静かに我が娘を見つめていた母親がふと顔を顰め、首に手を当て前方に上半身を傾け片手を床に突いた。

 だが爛菊は手鞠遊びに夢中で、まだ母親の異変に気付かない。

「人に卑下(ひげ)する犬ころ家畜、我らを追いかけ生意気に、牙を()ければキャンキャンと、喉笛喰らって犬殺し」

 爛菊の人狼族内で語り継がれる手鞠唄を背後に聴きながら、母親は体を引きずるように片手で部屋へと這って行く。

 なるべく娘の爛菊に悟られないように気を使っていたが、母親の苦痛は更に酷くなり顔面蒼白に全身から脂汗が滲み出る。

挿絵(By みてみん)

 ついに耐え切れず、苦しみは声となって口から漏れる。

「ぅ……っ、ぅう、あ……ガァ……ッ」

 しかし爛菊の手鞠唄は続く。

 手鞠を衝きながら二番目の唄を楽しそうに口遊(くちずさ)む。

「頭を残して埋めませう、餌も与えず様子観る、一体いつまで保つのやら、頭上で一輪の梅が咲く」

 母親の呻き声は苦痛に比例して大きくなる。

「グウウゥ……ッ、ガアッ、ウォォン! ウォォォォーッ!!」

「!?」

 爛菊がようやく異変に気付いて手鞠を衝く手を止めると、母親の方へと振り向く。

 騒ぎを聞きつけて、自分達の家族を守る任を請け負っている最下位のオメガ達も駆けつけた。

「……はは様……?」

月詠(つくよみ)様! 誰かっ! 水をお持ちして!」

 一人のオメガの言葉に、慌てて別のオメガが湯のみに水を入れて戻ってきた。

「はは様! はは様お水よ! 少しは落ち着けるかも」

 爛菊はオメガの一人から湯のみを受け取ると、ゆっくりと歩み寄った。

「水……? あ、ああっ! ひぃっ! 近付かないで! 水、怖いっ!!」

 母親の月詠は爛菊が差し出した湯のみを手で払いのけた。

 爛菊は手から湯のみを取り落とし、畳の上に中身がぶちまけられる。

「ひぁぁっ! 水が怖い! う、うぅぅっ!!」

 月詠は叫ぶと喉をかきむしり、唾液が口から吹き出して泡のように垂れる。

 唾液を飲み込もうとしても喉に激痛が走る為、口内に溜まった唾液を吐き出すしかないのだ。

 ふと微風が室内に吹き抜ける。

 するとこれにも月詠は敏感に反応した。

「いや! 風がっ、風が痛い!!」

 口から唾液を飛沫させながら悲鳴を上げて、結い髪を手で掻き乱し身につけている着物を剥ぎ取らんばかりに、(えり)を引っ張る。

 どうやら極端に水と風を恐れているようだ。

 一見狂犬病のように見えるが、(あやかし)である人狼族が一般の自然病にかかることはない。

「これは……まさか邪気によるもの……?」

 一人のオメガが小さく呟く。

「……はは様……?」

 近寄ろうとした娘に、月詠は鋭い目つきで牙を剥いて威嚇する。

「寄るな……っ、寄ってはいけない……!!」

 母親の剣幕に恐ろしさを覚えて後ずさる爛菊。

「ガゥゥッ! ギャオオオン!!」

 絶叫とともに月詠は畳の上でのたうち回っては、短い痙攣(けいれん)を引き起こしている。

 しかし爛菊はやはり母親を心配して近寄ろうとした時、腹違いの姉オメガから腕を掴まれた。

「行くのはおよし、お爛。お前の母様は恐らく邪気に取り憑かれている。今の私達ではどうしようもないよ」

「でも……っ、はは様が……!」

「分かってる。今他の者に人間界へ使いを出した」


 ちなみに、わざわざ探し歩かなくとも彼ら人狼族には、遠吠えがある。

 しかも妖であるのも手伝って、妖力で普通の遠吠えよりも遥かに響く。

 更に半ば超音波みたいなものも作用するので、遠くにいる人間には聞こえない。

 遠くの音も聞き取れる狼の耳が有利に働くことも一つにある。

 

 着物から肩や胸元まではだけてしまっている月詠は、足をピンと伸ばした状態で両手を畳に突いて大きく仰け反り、天井を仰いでブルリと大きく痙攣し白目を剥いたかと思うと、次第に狼の姿に変わっていった。

 妖力で人の形を成すことすらできなくなってしまったのだ。

 真白い毛をした狼に戻っても尚、月詠はもがき苦しんでいる。

 ただ悲痛げに、周囲が息を呑んで静まり返る中で彼女は、苦悶の声を力なく漏らしていた。

「助けて……助けて!」

 爛菊はついに耐え切れなくなり振り返ると、涙ながらに側にいる姉オメガに縋り付く。

「ねぇっ、助けてよ! このままじゃ、はは様が可哀想!」

「我らだって辛いんだ。まさかこんな目に月詠様が……お前の母様がなるなど誰も予想すらしていなかったのだから。一体どこの誰が月詠様に呪術をかけているのかさえ分かれば、そいつを殺しに行けるのだけど」


 やがて夜は更け、爛菊の母親が邪気に取り憑かれて半日が経過した。

 月詠はもはや体力を失い狼の姿でグッタリと横たわり、時々大きな痙攣を起こす。

 目も白目を剥いていて口の周りは吹き出す泡で(よだれ)まみれになっていた。

 集落の留守を預かるオメガ達全員が集まり、月詠の様子を悲痛な面持ちで遠巻きに見守っている。

 下手に近寄っては月詠に噛み殺されかねなく、皆近づけずにいるのだ。

 爛菊は腹違いの姉に泣き縋りながら、これを(なだ)める彼女の腕の中で疲れて寝入ってしまっていた。

 すると突然、大きな一陣の風が吹いた。

 堪らず月詠はギャンと鳴いて全身を引き攣らせる。

 しかし風とともに現れたのは、一匹の立派な灰色狼だった。

 これに気付いてオメガの一人が大急ぎで着流しを持ってくる。

 灰色狼は関節や筋肉が軋む音とともに男の人型へと変化して、着流しを受け取るとそれを羽織った。

「月詠!!」

 男は爛菊の母親の名前を叫んで側へと駆け寄る。

 この声に爛菊も目を覚まし、はと顔を上げた。

「ちち様!」

 彼はこの集落の首長であり爛菊の父親でもある、雄のアルファだった。

 しかし時既に遅く、月詠は狼の姿でクゥンと小さく鳴いてから彼の手を一舐めすると、爛菊へと視線を向け一筋の涙を零して静かに息を引き取った。


「月詠!!」

「はは様ぁぁーっ!!」


 夫と娘は、死んでしまった彼女に縋り付くことしかできなかった……。





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