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其の弐拾弐:花子の天敵、加牟波理入道



 自分の目前に姿を現した爛菊を見るや否や、加牟波理入道はハァハァと言いながらベロリと舌を伸ばしてきた。

 しかし爛菊(らんぎく)は奥のトイレから三番目の方に立っていたので、舌は届かない。

 だがそれでも爛菊を怯ませるのは絶大の効果があった。

挿絵(By みてみん)

「――気持ち悪い」

 傍らに立っていた千晶(ちあき)の腕に顔面蒼白でしがみつく爛菊。半ば涙目になっている。

 この反応は恰もゴキブリ等の害虫を見るのと一緒だった。

「ちょっと! 早く妖の力を取り戻したいんでしょ!? この際選り好みしないでさっさと妖力吸収しちゃってよ!!」

 花子がトイレの個室から爛菊に檄を飛ばす。いや、檄と言うより八つ当たりに近い気もする。

 一方では、すっかり小鳥を平らげてしまった鈴丸(すずまる)が別の個室で、ゲェと毛玉(羽根)を吐き出していた。

 今のこの現場は、すっかり協調性を失ってしまっている感じだった。

 唯一冷静に状況を把握していた千晶は、自分の腕にしがみついている爛菊に優しく諭した。

「安心しろ爛菊。加牟波理はこれ以上窓から入ってはこられない。この距離からでも構わないから妖力を吸収するんだ」

「え、ええ……」

 しかし、その荒い息遣いのせいでその呼気を浴びる形になるのは否めない。

 その生臭い息に必死で爛菊は堪えながら、声を振り絞って唱えた。

加牟波理入道(がんばりにゅうどう)、お前のその妖力、この爛菊が貰い受ける……っ!」

 二本指を額に当てると、浮かび上がる文字のタイミングに合わせて、勇気を振り絞り息を吸い込んだ。

 だが、瞑目していたその隙間から見えたのは加牟波理入道の、鼻の下がだらしなく伸びきって更に頬を紅潮させ、大興奮している顔だった。

 この衝撃に慌てて目をきつく瞑る爛菊。

 青白い気体が、加牟波理入道から現れて、爛菊の口内へと吸い込まれる。

 やがてそのまま加牟波理の姿は透けてゆき、最後にはすっかりと消えてしまった。

「よし、よくやったぞ爛菊!」

「うう……あの生臭い息まで吸い込んでしまった……気持ち悪い……」

 爛菊はメンタル面に見事なクリティカルヒットを受けていて、千晶に力なく凭れ掛かっていた。

「や……やっと変態妖怪がいなくなった……! ありがとう! 本当にありがとう! えっと、その……」

 心に虹と星と太陽がいっぺんに現れたような喜びを表情と態度に示しながら、花子は爛菊をどう呼ぶべきか戸惑いを見せる。 

 それに気付いて爛菊は、相変わらず青白い顔をしながら答えた。

「爛菊よ。でも、確かにあんなものが側にずっといられたら、さぞかし辛かったでしょうね。花子さんのお役に立てて……ぅぅっ、よ、良かった……」

 爛菊は時折、口を押さえる。

「では爛菊さん。改めて感謝するわ、ありがとう。あの変態妖怪のせいでずっと嫌な思いをしてきたの。もう今後その必要がないと思うと、これからは心安らかにこの厠神としての力を遺憾なく発揮できるわ」

「本当に何よりだわ……ぅぷっ」

「クスクス。じゃあお口直しに私の妖力をお礼として分けてあげる」

「ええ。こちらこそ改めてお願い」

「どうぞ」

 首肯した花子の笑顔には、幼女のような無垢のものが感じられる。

 爛菊の顔色は優れなかったものの、何とか懸命に妖力吸収の行動に移す。その前に、彼女は花子の呼び方を尋ねた。

「トイレの花子さんと、厠神の花子さん、どちらで呼べばいい?」

「クスクス、そうね。最近ではもうトイレの花子さんで馴染んでいるから、そっちでいいわ」

「分かった。ではトイレの花子さん、あなたの妖力をこの爛菊に分けたまえ」

 花子と向かい合うと、爛菊は二本指を額に当て紫色に輝く文字を浮かび上がらせ、軽く吸気した。

 すると花子から青白い霧の気体が発生し、爛菊の口内へと吸収される。

 妖力吸収を終えて爛菊がふと目を開くと、花子の中心をパシンと光が弾け、それまで巫女姿だった外見が最初の時に見た白シャツに赤いスカートの姿に戻った。

「これでしばらくはまた本来の妖力に回復するまでは、私も厠神としてのさっきの姿には戻れないわね。まぁでも、最近ではこっちの服装の方が馴染んでいるから別にいいんだけど」

「ありがとう。とても助かった」

「こちらこそ助けられたからお互い様よ。これからも妖に戻る為の妖力吸収巡り、頑張ってね」

 花子は言うと歩み寄り、爛菊をギュッと抱きしめてきた。

 十二歳くらいの外見なので、背丈は爛菊の胸元までの高さだ。

「ええ、頑張る」

 爛菊も微笑むと、自分より小さい花子に軽く身を屈めて抱きしめ返した。

「出産した時は私を呼んでね」

「え!?」

 咄嗟に爛菊は肩を掴んだまま驚いて身を起こし、花子から体を離して彼女を目を丸くして見下ろす。

 これに花子はニッコリといっそう笑顔を深くする。

「私、赤ちゃんの守り神でもあるのよ。排便と出産を同一視する結びつきの関係でね」

「そうなの。いつになるかはまだ不明だけど、その時は是非」

 爛菊は言ってただ同意するような人懐っこい笑顔を見せた。

「早い方がいいわよ。高齢出産になるとその分出産は大変になるから」

「ええ。でも妖に戻る事ができれば長い目で見れるわ」

「だけどそこで鼻の下を伸ばしてニヤついている変態がいるわよ。あれがあなたの旦那なの?」

 花子に指摘されて、つい無意識に口元が緩んでいた千晶は、慌てて表情を引き締める。

「お前、またこの俺に対して変態と言ったな。人狼の帝に無礼だぞ」

 威圧的に見せる千晶に、花子は悠然と言い返す。

「厠神の私には、人狼の帝なんてどうだっていいわよ。今回助けられたのはあんたじゃなくてこちらの人狼皇后、爛菊さんなんだから。何にせよ、皇后なら余計に一刻も早く妖に戻らなきゃね。応援してるわ」

「ありがとう」

「じゃあ、この変態二人をさっさと女子トイレから連れ出して」

 これに鈴丸が頭を抱えて半べそになる。

「あぅ、また僕も変態扱いされたぁ~!」

「じゃあ、またね。花子さん」

 少々いじけ気味の鈴丸を他所に、爛菊は花子に別れの言葉を告げた。

 手を振って笑顔で見送ってくれる花子を背に、爛菊は千晶と鈴丸を引き連れて女子トイレを後にした。




 家に戻って、鈴丸がキッチンで夕食を作っている時に、爛菊は千晶を自分が身を置いている離れへと連れ出した。

「一体どうした。俺をここに呼び出すとは何かあったのか?」

「ええ。どうしてもあの加牟波理入道の生臭い息の感触が、口の中から消えなくて」

「マウスウォッシュとかしてもか?」

 すると振り向いた彼女の悩ましいまでに柔らかく女らしい表情に、千晶の胸はドキリとときめきを覚える。

 爛菊が浮かべたかわいらしい中にも十分に色気のある笑顔。処女の可憐と成熟した女の魅力を併有(へいゆう)している。

 元来、妖だった人狼皇后の頃に知った性の快楽と、今こうして人間に生まれ変わっての処女としての彼女だからこそ浮かべる事のできる笑み。

 こうして爛菊は、艶のある声で静かに囁いた。

「そんなものよりも、もっと簡単に忘れられる方法がある。あなたの舌で緩和して。千晶様……」

「ら、爛菊……」

 まさか彼女の方から誘ってくるとは思いもよらなかった千晶は、動揺する心を必死に押さえ込んだ。

 そして爛菊から寄せてきた唇に千晶は静かに唇を重ねる。

 爛菊は千晶を自ら迎え入れんとばかりに口を開く。

 この彼女の口内へと千晶は舌を差し入れる。

 ゆっくりと互いを味わうように、二人はそれぞれの舌を絡ませあうのだった。




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