其の弐:香り溢れて色づく紅梅
翌日の学校の教室。
嶺照院爛菊は自分の席の椅子に座って、ぼんやりと窓の外のグラウンドを眺めていた。
教室はいつものように明るく騒がしい。
しかしこれでも日本有数の格式高い法人学園の一つであり、誰もかれもが大富豪の子供ときている。
その中でも、爛菊の立場は一番高かった。
嶺照院というと、宮家の遠い親族。公爵家に位置する。
誰も爛菊に逆らえない。
生徒も、教師も、保護者も委員会も――。
もっとも、だからと言って何らかの問題を起こす彼女ではなかったが。
爛菊は、影に身を潜める貴妃のような立場だった。
しかし、ゆえに心から許せる友もできずにいた。
全員が建前で接してくる。
建前で会釈し、建前で取り繕う。
そんな相手の対応が爛菊は、本当はたまらなく嫌だった。
相手がそうなのだから、彼女も建前で応えるが心には虚しさしかなかった。
ホームルームが終わると、しばらくしてから担任教師が入室してきた。
みんなたちまち席に戻ると、まるで水を打ったように静まり返りクラス委員長の掛け声の後に、みんな一斉に教師へと朝の挨拶を口にする。
「おはようございます!」
しかし長い沈黙。
教師はただ黙って教卓に両手を突き、眉宇を寄せて瞑目していた。が、やがて大きな欠伸をして見せた。
「くぁあぅ! ふはぁ~、出そうで出なかったんだよ欠伸が。あー、スッキリした。お、よぅ、みんな。おはよう」
何とも教師らしからぬ態度である。
何せ外見も教師らしからぬ容姿であった。
金髪のウルフヘアにアンバーの瞳。片耳にはピアス。着崩したワイシャツ、ネクタイ姿に上から白衣を羽織って、眼鏡をかけている。
見るからに奇妙な怪しさで、格好いいのかオタクくさいのか分かり辛いせいか、他所からの好き嫌いが極端に分かれるタイプだった。
ちなみに髪も目の色も生まれつきで、だが国籍は日本人だそうだ。
専攻は生物学を教えていて、いつもだるそうでやる気がなさそうにしているが、なぜか学園長にその腕を買われているらしい。
名前は雅狼千晶。二十七歳。
「えー、今日は……午後からだな、生物は。あとは他に何か……言うことあったっけ?」
「先生。期末テストはどうなっているんですか?」
生徒の一人に指摘されて、彼はキョトンとした表情を見せる。
「……あ、そっか。今日じゃん。ってことは今日の授業は午前中だけだな。いかん、時差ボケしてる。明日からだと勘違いしてた。二時限目が生物のテストな。あとは各々の担当教師から聞くように。以上」
相変わらず締まりのないだらけた教師。
よほど自由気ままな人生を今まで生きてきたのだろう。
自分とはあまりにも正反対な立場の担任教師の雅狼が、爛菊には珍しい動物を見るようでいつも不思議そうに観察するのだが、そんな彼女にこの教師が一度でも目を向けたり声をかけたりすることはなかった。
あの教師の性格だと、これだけ格式高い女子生徒に関わるのを面倒臭がって、自分から避けている雰囲気があった。
それが何となく分かるからこそ、爛菊もこの教師に自ら関わる事はしなかった。
十七歳になったこの高校二年の担当になって、もうすぐ一年が終わろうとしている。
つまり約一年間この教師を担任としてきたが、一切の交流はなかった。
あと一ヶ月もすれば終業式を迎えて、三年生に進学すればまた別の担任教師に代わるだろう。
何事も、なかったように――。
「キャアア!!」
午後、ほとんどの生徒がテストを終えて帰り、誰もいなくなった校内にある理科室の中の、更に奥にある個室から女の悲鳴が上がった。
理科室の教室のドアには鍵がかけられ、しかもその個室にも鍵がかけられている。
ドアの上にあるプラカードには“生物学部”と記されている。
つまりここは、雅狼千晶個人が主に使用している部屋である。
ここにあるソファーに投げ出される形で一人の女生徒と、その上には雅狼が覆い被さっていた。
「突然何をするのですか! おやめください!」
その女生徒はなんと爛菊だった。
驚愕の表情で雅狼を凝視する。
今まで一切関わろうともしなかった彼女に、こともあろうにこの教師の身分である雅狼は行為を起こそうとしていた。
「おい、何だその顔は。冗談だろう? 今更嫌がったってそれは無理と言うものだ。お前から俺を誘ってきたのだからな」
「そんな! そんなこと一度も――!!」
爛菊は頭を振って否定する。
すると雅狼は、ゆっくりと眼鏡をはずすと投げ捨てた。
その目を覗き込むと、見開かれた彼のその本来アンバーの双眸が、黄金色に光っていた。
ギクリとする爛菊。
「忘れたとは言わせんぞ。昨夜の約束――今日一日お前に分かるように、ずっとその証の白梅の小枝をこうして、白衣のポケットに挿してアピールしていたが、気付かなかったようだな」
そう言われてはと見ると、確かにそこには昨夜爛菊が手折った白梅の小枝があった。
爛菊はそれを震える手で取って、唖然としたように雅狼の黄金色に変わった双眸を見つめる。
「雅狼先生……まさか貴方が――」
「その通り。妖にして獣なる月夜に生きる者」
「妖とは……いかなるものでございましょうか」
爛菊は無表情の中にも強張った目を向けると、小さく声を震わせながら囁いた。
「――人狼だ。俺は、狼に変化する妖の帝……」
「人狼の帝――!?」
「そうだ。分かったら約束だ。お前を自由にする代わり、その清らかなる乙女を貰い受け、俺の女になってもらうぞ。どうした。やはりいざとなったら怖くなったか」
冷静沈着な様子で口にする雅狼の言葉と共に、ふと下方で何かが見えて爛菊はそちらへと視線を移した。
するとそこには、おそらく雅狼の尻から生えているだろう金色の美しい毛並みをした大きな尻尾が見えた。
爛菊はまさかと思いながら改めて雅狼へと視線を戻すと、彼の側頭部からピンと天に向いている大きな、同じく金色の獣の耳があった。
これに爛菊は恐怖で体を震わせたが、しかしはたとあの嶺照院当主である老人に抱かれる自分を想像すると、余計に身震いがした。
「ずっと前からお前を狙っていた。我が妃にと。ずっとお前を夜中、見つめてきた。爛菊、ずっとお前を欲していた。この時をどんなに夢見たか――あんな老人にその清純を捧げるくらいなら、いっそこの妖の俺の手に堕ちろ」
この言葉を聞いた瞬間、ふと爛菊は悟ったように全身の力を抜いた。
本当に今の世に妖怪がいたとは。
半ば感心しながら、彼が昨夜梅の庭で会話を交わした相手だと知って爛菊は抵抗も諦め、寧ろ受け入れるつもりでふわりと雅狼に微笑んだ。
そんな彼女に、雅狼は甘く優しい口づけをした。
唇を食むように重ねるだけの、それでいてどこか艶めかしいキス。
初めてのキスに、爛菊の胸が高鳴る。
やがて唇をゆっくりと離すと雅狼は、愛しそうに片手をそっと爛菊の頬に添える。
「……お前があんな老人の手に堕ちるのは忍びない。お前の撫子の美は古来から息づく妖怪、この俺に捧げてこそ意味を成す――」
雅狼の言葉はまるで呪文のように爛菊の警戒心を解きほぐした。
やがて彼女の清らかなる貞操を、この人狼の帝たる男は貫通させんと彼女の制服のスカートをそっとたくし上げる。
爛菊の手から昨夜、約束の証にと手折った白梅の小枝がポトリと床に落ちる。
すると不思議な事に白梅の花びらが紅に染まり始めたその時、爛菊の鼓動が更に大きく高鳴った。