其の拾陸:産声高く泣ける赤子
鈴丸はノックもなしに美術室の戸を開け放った。
しかし同時に、赤ん坊の泣き声がパタリと止む。
机や椅子が並べられている室内の隅の方には、たくさんのイーゼルと共にそれに立てかけられている大きなキャンバスもいくつかあった。
ザッと見る限りは人影はない。おまけに妖気も消えた。
「誰かいるの!?」
鈴丸は室内へと声をかける。
するとしばらくして、ガタリと小さな音がした。
イーゼルが集まっている所からだ。
鈴丸はそちらへ歩を進める。
だが彼の気配に気付いた何者かが、巨大キャンバスの裏から飛び出して来た。
その者は鈴丸をやり過ごして美術室の出入口へと走り出したが、更に素早く鈴丸が相手の手首を捕まえた。
ハッとした様子で相手は鈴丸へと振り返る。
「萩沢さんだよね? どうかしたの? 良かったら相談に乗るよ」
しかし顔面蒼白で脂汗まで掻いている萩沢美園は、苦悶の表情で顔を歪めながら叫んだ。
「無理よ……あなたには分からない……っ、私のこの苦しみは、誰にも理解できない!!」
萩沢は空いている方の手で、徐に右目の眼帯を捲った。
するとあるべきはずの右目がすっかり潰れて、代わりに不気味な赤ん坊の顔が浮かび上がっていた。
「!? それは――」
「オギャア!!」
赤ん坊の腫れ物は一声鳴いたかと思うと、口からピンボールほどの火の玉を鈴丸に向けて吐き出した。
「くっ……!」
火の玉を払い除けようと咄嗟に鈴丸は、萩沢から手を離してしまった。その隙に彼女は鈴丸をその場に残して走り去る。
「チ……ッ! こんなもの」
鈴丸は火の玉を手で鷲掴みにすると、グッと握り締めた。
すると火の玉はあっけなく鈴丸の手の中で蒸発する。鈴丸の掌は微塵も焼けただれてもいない。
少ししてから萩沢と入れ替わるようにして、千晶が姿を現した。
千晶は煩わしそうに眼鏡を外すと、鈴丸に声をかける。
「俺も微弱ながら妖気を感じてここに来た。相手はどこだ」
「今すれ違わなかったの? セミロングに眼帯を付けた女子だよ。あれは二重の妖怪に取り憑かれてるね」
鈴丸は火の玉を握り潰した手を両手でパンパンと払いながら述べた。
「ああ、ここから飛び出して来た女子なら、爛菊が後を追った。――で、二重の妖怪って?」
これに鈴丸はあからさまに顔を顰めた。
「はぁ!? アキってばまだただの人間のランちゃんに相手を追わせたの!?」
思わず戸惑いを露にする千晶。
「いや、だって今の子からは妖気を感じなかったから大丈夫かと――」
「あの眼帯で隠しているからだよ! その間は妖気が消えるんだ!」
鈴丸の言葉に、千晶は今度は焦りを見せる。
「で、二重の妖怪ってどういう意味だ!」
「人面瘡とたたりもっけだよ! それが合体してあの萩沢って子の右目に宿ってる」
「人面瘡とたたりもっけが? やれやれ。その萩沢って子はろくな事してないな。行くぞ鈴丸」
千晶は嘆息吐くと、鈴丸を促して美術室を後にしその場から逃げ去った萩沢を追った。
「待って! 萩沢先輩!」
「一体嶺照院さんまで、私に何の用があると言うの!?」
二人は体育館の裏で顔を合わせていた。
そこは太陽の日も当たらず常に陰っていて、湿っぽく滅多に人が来る事はない場所だ。
爛菊は萩沢のことを今初めて知ったが、萩沢の方は学校中で名高い爛菊の存在を知っていた。
向かい合っていた二人の間には、二メートルほどの距離がある。
爛菊は宥めるように静かに声をかけた。
「萩沢先輩に良くない噂が立っていると知って、放ってはおけなくて。良かったら少しでも助けになれると思ってこうして追って参りましたの」
彼女の言葉に、萩沢は苦渋の表情を浮かべる。
「いくら嶺照院さんであっても、私の身に生じた呪いは消せないわ……」
「呪い……?」
「これよ!」
萩沢は叫ぶと、眼帯を取り除いた。
同時に、潰れた右目にある赤ん坊の顔をした腫れ物が、泣き声を上げる。
「オギャア、オギャア……」
そんな中で萩沢は声を大にして告げる。
「こうしてアイパッチを外せば右目の痛みは消えるけど、代わりにこれを誰かに見られてしまう。それが嫌でアイパッチで隠せば、次第に痛みが増していく……この苦しみがあなたには分からないでしょう!?」
それに爛菊は小さく呟く。
「人面瘡にたたりもっけが混同している……」
改めて爛菊は、赤ん坊の泣き声が響く中で声を上げた。
「あなた、赤ん坊を殺したのね」
「どうしてそれが……!」
萩沢はビクリとすると、みるみるうちに顔面蒼白になる。
彼女の問うような言葉に、爛菊は冷静に答えた。
「その腫れ物は誰かを殺したら犯人へ形になるの。更に腫れ物が赤ん坊ということは、その怨念が取り憑いた証拠。大体の見当は付くけど、一応どうしてそういうことになったのか、経緯を聞かせて」
すると爛菊の言葉を聞いた萩沢は、ヘナヘナとその場にへたり込んだ。
人面瘡の正体は人間もしくは動物を殺すと、その犯人に腫れ物となって顔が現れる奇病だ。だが今回はそれに加えて“たたりもっけ”の正体である赤子の死霊で、死んだ赤ん坊を粗末に扱うとその相手と家族を代々呪い続ける。それが人面瘡に憑依した状態なのだ。
人面瘡だけであればどうにか処置はできようものの、たたりもっけは悪質な赤子の怨念だ。
怪異を起こすだけでなく、自分の屍を粗末に扱った本人を病で苦しめ、また最悪な時には一家を全滅させることまで可能だ。
萩沢が脱力すると共に、右目の赤ん坊の泣き声も小さくなっていく。
ガクリと項垂れた状態で、萩沢は力なく語り始めた。
「わ……た、し……私……五歳年上の彼氏がいて親に内緒で付きあっていたの……出会いは向こうから街で私に声をかけてきたのが最初で……ついOKしちゃって、一ヶ月付き合って……すると私、妊娠しちゃって、そのことを彼に告げたら私とは遊びだからそんな重い責任は持てないって捨てられちゃって……ぅうっ……! 親には言えないし、子供の堕ろし方とかも分からないし怖くて……っ! グスッ!」
語りながら萩沢は、とめどなく溢れてきた涙を止める事ができない。
彼女の側に静かに歩み寄った爛菊は、しゃがみこむと萩沢の肩に手を置いた。
「酷い男……確かに、赤ちゃんをそう簡単には堕ろせないわ……」
爛菊の相槌に、萩沢はしゃくりあげながらも言葉を続ける。
「でも次第にお腹も大きくなってきて、仕方ないから学校休んで部屋に閉じこもっていたけど……赤ちゃん、産まれちゃって! けれど親には内緒だから知られるのが怖くて、産声を上げそうになったから口を塞いでいたら赤ちゃん、死んじゃって! もうどうしたらいいのかますます分からなくなっちゃって! ヒック!」
「それで……どうなさったの?」
「バックに遺体を入れて……海に捨てたわ……ごめんなさい……本当にごめんなさい……っ!! 私ったら何て酷い事を……!!」
これに爛菊は悲愴な表情を浮かべる。
どうやら萩沢は、出産する時に相当苦痛や声を押し殺したらしい。
己が母親である萩沢の涙に、右目の腫れ物の赤ん坊はおとなしくなって黙っていた。
まるで母親から宥められたかのように。もしくは、この懺悔を聞き入れているのだろうか。
「でも、私にはどうする事もできなかったの……!! 本当に、どうしたらいいのか何もかも分からなくて……!」
「……せめて避妊さえしていれば……」
「だって彼が言ったのよ! 愛があるなら必要ないって!!」
萩沢は爛菊へ訴えるように顔を上げると、泣きじゃくりながら叫んだ。
「何て卑劣な男なの……その男――赦せない……」
いくら彼女が十八歳だからといっても、性知識の詳しいノウハウは未熟だ。
この場合、未熟が罪と言うならば年上の男の方が巧くリードし、言動の責任も取るのが理想である。
なのにその男は全責任をこの年下の彼女に押し付けて美味しい思いだけしてとんずらしたわけだ。
「大丈夫です萩沢先輩。わたくしが良い解決に導いてさしあげます……」
爛菊は呟くように言うと、漆黒の双眸に怒りの色を含ませた。