其の佰参拾伍:記憶なき時間
【登場人物】
・雅狼朝霧爛菊(18歳)……前世が人狼皇后だった人間の少女。二百年間、犬神の皇に魂を捕われて記憶と人狼の能力を奪われ、ただの人の子として現世に転生させられた。神鹿から妖力吸収の力を授かり、再び人狼に戻る為に数多くの妖怪と出会う。
・雅狼如月千晶(327歳)……あらゆる妖怪のトップ大神乃帝である人狼の王で、爛菊の夫。二百年前に妻を失ってからずっと転生を信じて探し続けて、ついに爛菊を見つける。彼女を元の立場に戻すべく、人間界で爛菊の手伝いをする。
・雅狼左雲渚(320歳)……千晶の弟で司とは双子の兄にあたる王弟。丁寧な敬語を主とする。千晶が留守の間は帝代理を務めていた。常に落ち着いた姿勢で周りを見ている。
・雅狼八雲司(320歳)……千晶の弟の一人である人狼国の王弟。傲慢で言葉遣いも悪く、爛菊の存在を快く思っていない。前世の爛菊を殺害し、200年もの間牢獄に入っていた。それでも一応、国を思い面倒見も良く誰よりも家族思いだったりする。
・暁朧(年齢不詳)……人狼国で先代から太政大臣を務めていて今は千晶に仕えている。いつも全身を黒の衣装で包む寡黙無表情な性格だが、密かに爛菊を愛していることは司と爛菊以外、誰も知らない。
・飛鳥壱織(529歳)……元々はツンデレで一人を好んでいた妖怪、丹鶴。祖母は若い頃に人間に恩返しをした鶴。爛菊の通う高校の保健医をしていて、極度の潔癖症。高慢な性格で趣味は編み物。高度な治癒系能力を持つ。最近、神格妖怪である座敷童子、此花に惚れられて以来一緒にいることが多いようだ。
・此花(推定400歳以上)……元々は人間の頃、口減らしされた地縛霊だったが人間からの半ば都合の良い祭祀により、神格化された座敷童子。年齢を操ることができる。壱織への想いからようやく自由を得た。
・狗威獣右衛門白露(推定338歳)……犬神族の皇。かつては人狼族の配下だったが人間による犬神信仰の手段に理解ができずやがてそれは、次第に人狼族への恨みへと変わる。人狼皇后である爛菊の魂を捕らえ二百年間かけて浄化し、自分の妃に迎え入れ人狼国乗っ取りを企んでいた。
朧は白昼堂々、嶺照院邸に乗り込んだ。
「白露! どこだ白露! どこにいる!」
この騒ぎに嶺照院の主が姿を現した。
「どうしてここに狼なんぞが?」
過去、仔狼であった朧を捕らえていたことなど、もうすっかり忘れているらしく怪訝な表情を浮かべている。
「貴様! 白露はどこにやった!!」
朧はウォンと吠えた。
だが当然人間には、狼である朧の言葉は伝わらない。
しかし嶺照院はニヤリと不敵な笑みを浮かべると、腰にぶら下げていた竹筒を手に取った。
「良い機会だ。この度手に入れた我が神の調子を、使役して試してみよう」
そうして竹筒のふたを取ると、中からウゾッと大量のうじ虫があふれ出てきた。
意味がまるで分からない朧であったが、不思議にもそのうじ虫から、白露の匂いを感じた。
「行け! 犬神よ。あの狼を殺すのだ!」
嶺照院の言葉に、うじ虫は竹筒から一斉に飛び出すと庭の地面に着地するなり、それらは何らかの形を成し始めた。
「グルルル……」
状況が理解できないまま、朧はとっさに身構える。
「大いなる神と犬神……果たしてどちらが強いか見極めて、それ次第では狼も我が手中にしてくれよう……クックック」
嶺照院は不気味に笑う。
モゾモゾ蠢いていたうじ虫から形成されたものは。
「ま……ま、さか、お前は……!」
「ウゥウウウ……」
うなり声を上げ始めたその姿は、白露だった。
朧は信じられない気持ちで動揺を露にする。
「白露……これは一体……!?」
だが白露は、相手が朧だとは解っていない様子だった。
白露が犬神だと!? そもそも犬神とは何だ!?
ただの狼である当時の朧にとって、妖たる存在を知らなかった。
「ゴガアァァァーッ!!」
白露は牙をむくと朧に襲いかかって来た。
「やめろ白露! 俺だ! 朧だ!!」
しかしよく見ると、白露の目からは生気が失われていた。
朧は白露の暴走を止める為、彼を真正面から受け止めた。
本来なら、朧の方が白露より力量が強い立場でもあったからだ。
だがしかし、弱かったはずの白露の力量が明らかに上がっていた。
「やめろ白露! しっかりしてくれ!」
「グルアァァァァーッ!!」
もはや言葉を持たない白露と、朧はもつれるように取っ組み合っていた。
「おお、おお、あの狼、なかなか強いぞ」
嶺照院が愉快そうに口にする。
普通の狼である朧は多くの傷を負い、出血していたが妖となっている白露からはどんなに傷つけても出血がなく、むしろ負った傷口がみるみる塞がっていた。
犬神となった白露の傷口を、彼を形成しているうじ虫が蠢き埋めているのだ。
これは普通じゃない!!
「白露、もうお前はお前じゃなくなったんだな?」
すると途端に、白露の攻撃が止まる。
「!? ――白露……!」
束の間の希望だった。
「とどめだ犬神」
嶺照院の一言に、白露は前足を朧の胸部に向けて振り下ろした。
「ギャン!!」
朧は悲鳴と共に後方へと吹っ飛ぶ。
爪で傷を負わせられるほど、本来犬の爪はそんなに鋭くはないはずだったが、朧の胸部には深い爪跡ができた。
「ク……ッ、白、露……!!」
朧は大量の出血を流しながら悲哀に彼の名を口にした。
そして残った体力を振り絞って踵を返すと朧は、素早くその場から逃げ去った。
「逃げられたか。惜しいことをした。大いなる神と犬神の両方の神を手に入れて、更なる権力の源にしようと思ったが」
「……」
嶺照院の言葉に、白露はただ黙って立ち尽くしていた。
「まぁ良い。戻れ犬神」
嶺照院の命令に、白露の全身が崩れ大量のうじ虫へとなると嶺照院が突き出した竹筒の中に、吸い込まれるように姿を消した。
朧は何とか野山まで逃げてくると、バタリとその場に倒れこんでしまった。
すっかり満身創痍の朧はもう、呼吸も絶え絶えだった。
ああ……俺はここで死ぬんだな。
胸元にできた傷が致命傷となっていた。
白露……一体お前に、何が……起こったんだ……。
遠のく意識の中で朧は白露のことを思った。
「人間は、斯くも残酷な存在だ」
突然、頭上で声がした。
ゆっくりした動作で見上げると、そこには獣耳としっぽを持った男の姿があった。
だが朧は、警戒してうなり声をあげて威嚇するが、横たわったまま起き上がることもできずにいた。
「あの犬神にされた野犬は、お前の友だったのか」
男は屈みこむと、朧の体に片手をかざした。
「グルルルル……!」
威嚇こそすれど、抵抗する力も残ってはいなかった。
「哀れなる同胞よ。我が輩がお前を引き取ろう」
不思議なことに、朧の全身が温かくなってきたが、そのまま意識を失った。
男は、千晶の父であり先代の大神乃帝だった。
「あの野犬が妖化したのであらば、我が輩からもお前に妖力を分け与えよう」
こうして朧は、人狼族の仲間入りをしたのだった。
一方遡ること三週間前、朧が白露を見失っている間、実は白露は人間に捕らえられていた。
抵抗も虚しく、白露は円状の柵の中に放り込まれると、その中には他の野犬がもう二匹入っていた。
白露を含め三匹の野犬は威嚇しあうと、それぞれが飛びかかる。
白露は人間から闘犬に利用されたのだ。
観客である人間達が盛り上がっている。
しかし白露の、その狼並みに大きな体格は全身に噛み傷を負いながらも、二匹の野犬を倒してしまった。
だがここで人間は、負傷している白露を用意していた穴へと放り込むと、頭だけを残して全身を土の中に埋めてしまった。
炎天下の中、飲まず食わずの日々が始まった。
土の中で身動きが取れない白露が弱るのは、一週間もあれば十分だった。
すると今度は人間は、土から頭だけを出している白露の鼻先から少し離れた場所に、水と魚を置いた。
空腹と、それを更に上回る強烈な喉の渇きに、白露は水の方へと舌を伸ばしたが、当然届かない。
それでも必死に水を得ようと懸命になる白露に、次に人間がしたことは。
なんと斧で地面から出ている白露の首を切断したのだ。
こうした人間の残酷な仕打ちに、白露は意識を失う瞬間に朧の姿が脳裏をよぎった。
切断された白露の頭は、水が置かれた方へと転がっていった。
こうして野犬としての白露は死んだ。
だが人間は更に残酷無比な行動を取った。
頭部のみとなった白露を放置したのだ。
やがて白露の頭部は腐敗し、大量のうじ虫がわき始めた頃。
嶺照院の雇われ農民がそれらのうじ虫をせっせと竹筒の中へと、一匹残らず集めていった。
それまでただの野犬だった白露は、妖怪犬神となり嶺照院から使役される存在となったのである。
しかし永い永い年月を経ると、犬神は使役されることが多くなれば多くなるだけ、力を持ちやがて自我を持つようになる。
すると立場が逆転し、犬神を使役していた側の人間の方が犬神よりも下となり、まさに下僕となる。
犬神を崇める立場となり犬神の方が偉くなるのだ。
よって後々、嶺照院の子孫は白露の犬神信仰者へと成り下がった。
そして白露は仲間である強者の犬神を次々と倒し、犬神の皇の座を手に入れたのだった。
なので仲間すらの犠牲をもいとわないこの新たな犬神の皇を、他の犬神達は心底恐れるようになっていた。
白露の存在は絶対となった。
犬神の皇、狗威獣衛門白露を生み出したのは、皮肉にも人間によるものだった。
「朧……逢いたかった」
「……」
「あの時、考えもなしに身勝手な行動を取ったせいで、我は人間の手に堕ちた」
「……」
「かけがえのない友よ、兄弟よ」
「……――だがお主はそれがしの命の恩人である先代の大神乃帝を殺め、爛菊様の魂をも捕らえ封じ込めた」
「それは何も知らなかったから――」
「大いなる神と崇められる我々狼と違い、呪い神として人間の手によって生み落とされた犬神との差に、お主が我ら人狼族を憎悪したのは紛れもない事実。幼子でもあるまいし、もう今更何も知らなかったは通用すまい」
「朧……」
暫しの沈黙。
二人が言葉を交わしている間に、壱織と此花の二人がせっせと皆を治癒能力で回復させていた。
すると突然、白露は朧に飛びかかった。
――かに見えたが、白露は朧の着流しの胸元を肌蹴だしたのだ。
そこには、左肩から袈裟懸けに走る大きな傷跡が露になった。
千晶を始め、渚も、司も、もちろん爛菊でさえ、誰も朧のその傷跡を見たことがなかったので皆、息を呑む。
「これは、あの時嶺照院の祖先に命令されて我がつけてしまった傷だな」
「……」
「すまない。すまなかった朧」
「……あれはお主であってもうお主ではなかった。気にするな」
朧は抑揚のない口調で言うと、胸元の着物の襟を正す。
あの白露が、下手に出ていることに、この場にいる全員が内心驚愕した。
いよいよもって朧への謎が増す。
「……――やめだ」
「?」
「??」
「???」
ボソリと口にした白露の言葉に、皆が意味不明になる。
「大神族を乗っ取るのはやめる。今までのように今後おとなしく、配下として仕えていく」
これに更に皆は驚愕を露にした。
「然様か。我々大神族も無駄な殺生は好まん。しかしながらそう簡単に、お主が赦されるわけではないぞ」
答える朧の後ろから、五メートルの大きさはある巨大二足歩行型人狼姿の千晶が、ゆっくりと進み出てきた。