其の拾参:火のない所に煙は立たず
「更には精神力で変身する分、体力の消耗も激しい。普段から体を鍛えられているのならまだしも――」
和泉はここまで言ってから、手を伸ばし爛菊の手を取った。
それに千晶がピクリと反応する。
「それまで普通の人間であったのと重ねて、この細い手を見る限り、自力で自我を保っているのは不可能。よってなるべく満月を見せずにいるかして変身させないことだ」
そこまで聞き終わってから、千晶が素早く和泉の手から爛菊の手を取り上げる。これに軽く和泉が苦笑してから、口を開く。
「本来普通の低級人狼はそこで人などを殺めることにより妖力を補っていく。だが后妃にそれを行わせるわけにはいかないだろう? 不浄の者になってしまう」
彼の言葉に鈴丸が答えた。
「それはマズイよね。不浄な行動を重ねた分だけ更に自我を失っていれば、もうただの化け物になっちゃう」
これにうむと和泉が首肯する。
「するとこの私にも近付けなくなるぞ。不浄なる行いで一度穢れてしまうと、神格化している私の清い存在には触れられなくなる」
今度は千晶がそれに答える。
「まぁ、神格化はこの際別にして、確かに清い妖怪に当たる和泉を始め、そうした存在にはな」
どうにも千晶達は和泉を神とは認めたくないらしい。その言い含めに和泉は小さく唸ってから言葉を続ける。
「む……とにかく、それで私の側に近付いた時には私の立場上、不浄となった存在を消さなくてはいけなくなる」
「じゃあ、満月にはくれぐれも気を付けなきゃいけないのね」
爛菊は恐々と吐息を震わせた。
「本来なら満月は、妖力を高めてくれるから妖怪にとっては喜ばしい時なのだが、まだ普通の人間である后妃には逆に自我を凌駕し獰猛化して手に負えなくなる。くれぐれも気を付けなさい」
和泉からの注意を受け取って、爛菊達三人は神社を後にした。
その間神社の敷地内に溢れんばかりにいる鹿を見ながら、爛菊はある疑問を口にする。
「和泉さんはもし爛が不浄の存在となって近寄った場合は消すと言っていたけれど……どうやって対峙するのかしら。やっぱり本性を現すの?」
するとそれに答えたのは前を歩いていた鈴丸だった。
彼はまるで自分の事のように嬉しそうにクルリと全身で振り返ると、後ろ歩きしながら言った。
「そうだよー! 和泉の正体は長寿の鹿だからね。本性は白鹿で、巨大化するんだ。そしてその大きな角はまるで琥珀や水晶みたいに光の角度で虹色に輝いて見えるんだよ。こう言うのも何だけど、思わず見惚れてしまうくらい美しい姿なんだ」
言い終えると鈴丸は、前へと向き直る。
「千年生きているんだったかしら?」
「ああ、ざっと千年以上は生きているな」
今度は爛菊の隣を一緒に歩いていた千晶が首肯する。
千晶の言葉を聞いて、その寿命の長さに感心する。
実際、信州戸隠の鬼女、紅葉も千年以上生きているにも関わらず、爛菊はすっかり失念していた。
「ちなみにスズちゃんはいくつなのか、まだ聞いていない」
これに再度鈴丸が満面の笑顔で振り返って答える。
「百十七歳だよ。僕の尻尾、今二俣でしょ? 百年生きた度に尻尾の数が増えるんだ。しかも僕、三毛猫の中では滅多にいない希少なオスで、人間からは重宝されてるんだよ」
三人は駐車場に到着すると、車に乗り込んで鈴丸の運転の元、自宅へと帰路につく。
「ねぇ、このままついでにデパートに寄って、食材の買い物してもいい?」
車のハンドルを切りながら、無邪気な様子で鈴丸が尋ねた。
「ああ、いいぞ」
「今夜のおかずは何にするの?」
「今夜はねぇ~、サ・ン・マ・の・し・お・や・き」
すると、後部座席から爛菊と肩を並べて座っていた千晶が抗議の声を上げる。
「何!? 俺は鹿肉が食いたい!」
「それ、和泉さんが聞いたらただじゃ済まない……」
爛菊は相変わらず抑揚のない口調で、横目で彼を見やる。
「いや、さっき神社で鹿を見ていたらついな」
愛する妻の言葉からか、思わず本音がついて出る千晶。
「まぁ、デパ地下になら鹿肉売ってるから、それも買っておくよ。それで、ランちゃんはどうするの?」
「爛はサンマでいい。七輪で焼いたのがいい」
「ラジャー! ヤッタね! グリルで焼くよりずっと美味しいんだよね!」
こうして爛菊と鈴丸は七輪でのサンマの塩焼き、千晶は鹿肉のローストに決定した。
買い物を済ませて帰宅すると、鈴丸は早速調理を開始した。
鹿肉を調理しながら、庭に出ては七輪の上に乗っている二本のサンマの焼き加減を見る。
爛菊も七輪の前にしゃがみこんでいたが、しばらくすると立ち込める煙の中で何やらクスクスと小さな笑い声が聞こえてきた。
これに顔を顰める爛菊。
そしてジィッとその煙を見ていると、何やら顔のようなものが浮かび上がってきた。
それは普段滅多に見られない珍しい妖怪、煙羅煙羅――またの名を煙々羅とも呼ばれる煙の妖怪だ。
けれどぼんやりと無心で煙を眺めている、心に余裕を持つ時でなければ見られない。
事実、爛菊は確かにその状態で煙を眺めていたから見えたのだろう。
煙羅煙羅はただ煙と共にその場を漂うだけで害はないのだが。
「千晶様!」
彼女にしては珍しく大きめの声で呼ばれて、大急ぎで千晶が庭に飛び出して来た。
「何事だ爛菊!」
「見て、煙羅煙羅だわ」
千晶は目を凝らしながら煙を食い入るように見つめるが、心に余裕ができていないせいかよく見えていないようだ。
だが、いかにも見えたと言わんばかりに間を置いた後で大きく頷くと、爛菊の肩に力強く手を置いた。
「よし。じゃあこいつから妖力を奪え」
しかしそれに爛菊が戸惑いの表情を見せる。
「でも、いいのかしら。何もしてこないのにこちらの都合で妖力を吸収して」
それに千晶は平然と答える。
「いいんだ。煙羅煙羅は煙がある所ならまた復活する。何も退治するわけじゃない。今回だけ妖力を分けてもらうだけだ」
「そう。では、あなたの妖力を頂くわ煙羅煙羅」
爛菊の言葉に煙羅煙羅はその煙の中で、体をくねらせて楽しげに踊って見せる。
肯定の意味だと解釈して、爛菊は額に親指と一緒に立てた人差し指と小指の二本を当てる。
すると額からボゥッと一字が紫色に輝きながら浮かび上がった。
「煙羅煙羅の妖力、この爛菊が頂戴する」
爛菊は呟くと、スゥッと息を吸い込んだ。
すると青白い霧のような気体が、煙から彼女の口の中へと吸い込まれた。
それに合わせて、煙の中から煙羅煙羅は姿を消した。
「どうだ。変化は」
「まだ分からない。だって今の、低級妖怪でしょ。妖力も低いはず」
「まぁ、それでもないよりかマシだ。この調子で妖力を集めていこう」
すると鈴丸が庭に出て来た。
「お。美味しそうに焼けたねサンマー。よし、次、次!」
「まだあるのか!? お前一体何本サンマ買ったんだ」
眉宇を寄せる千晶へと、鈴丸は満面の笑顔で平然と述べた。
「六本」
「爛は一本で充分よ」
「分かってるよ。残りの五本は全部僕が食べるに決まってるでしょー」
トング片手に猫のように(猫なんだが)目を細めて、舌なめずりする鈴丸。
「ところで今スズちゃんがキッチンに行っている間に、煙羅煙羅が出たわ。ちゃんと妖力を頂いた」
爛菊の言葉に、鈴丸は途端に驚愕の表情を見せた。
「え!? 煙々羅!? 普段は滅多に見れない妖怪だと聞いたことあるよ! 僕も見たかったなぁ!」
言うと鈴丸は、残念そうに唇を突き出した。