其の佰弐拾陸:犬と狼
【登場人物】
・雅狼朝霧爛菊(18歳)……前世が人狼皇后だった人間の少女。二百年間、犬神の皇に魂を捕われて記憶と人狼の能力を奪われ、ただの人の子として現世に転生させられた。神鹿から妖力吸収の力を授かり、再び人狼に戻る為に数多くの妖怪と出会う。
・雅狼如月千晶(327歳)……あらゆる妖怪のトップ大神乃帝である人狼の王で、爛菊の夫。二百年前に妻を失ってからずっと転生を信じて探し続けて、ついに爛菊を見つける。彼女を元の立場に戻すべく、人間界で爛菊の手伝いをする。
・雅狼左雲渚(320歳)……千晶の弟で司とは双子の兄にあたる王弟。丁寧な敬語を主とする。千晶が留守の間は帝代理を務めていた。常に落ち着いた姿勢で周りを見ている。
・暁朧(年齢不詳)……人狼国で先代から太政大臣を務めていて今は千晶に仕えている。いつも全身を黒の衣装で包む寡黙無表情な性格だが、密かに爛菊を愛していることは司と爛菊以外、誰も知らない。
・十六夜(359歳)……爛菊の実父で、村長でもある。二百数年前に妻、月読を犬神が放った祟りで失っている。千晶の義父にあたる。
・狗威獣右衛門白露(338歳)……犬神族の皇。かつては人狼族の配下だったが人間による犬神信仰の手段に理解ができずやがてそれは、次第に人狼族への恨みへと変わる。人狼皇后である爛菊の魂を捕らえ二百年間かけて浄化し、自分の妃に迎え入れ人狼国乗っ取りを企んでいる。
数々の狼が、巨大犬の狗威獣右衛門白露に躍りかかっていたが、まるで歯が立たなかった。
ある者は振り払われ、ある者はその巨大な足で踏み潰され、ある者は噛み殺されるか或いは喰われていく。
妖が妖を喰らうと、妖力が増す。
妖喰いと言われて、そうした妖は不浄に堕ちるとされ、妖怪の世界では禁忌とされていた。
「マズい……このままでは余計犬神が有利になるだけだ……皆の者! 犬神から離れなさい!! 近付くのは逆効果です!!」
渚の声に、それまで犬神に食らいついていた狼は皆、一斉に離れた。
一般の人狼は、本体の狼と人の姿以外は、巨大化することもできず他に特別な能力を持たない。
「今更用心し始めたか。しかしどいつもこいつもクズすぎて、大した妖力も得られんわ」
白露は言うと、その犬の顔でニヤリと口角を引き上げた。
「グルルルル……!!」
白露を取り囲むようにして離れた狼達は、悔しそうに唸り声をあげている。
白露の足元には、数十匹は軽く超える狼達の血みどろとなり潰されて肉片になっている、無残な姿があった。
「犬如きが狼を喰らうなど、赦されることではありませんね……」
そうして蒼い双眸に怒りの色を宿す渚に、白露は巨大な姿で彼と向かい合った。
「ほぅ……貴様はこの辺の雑魚とは違うようだな」
そうしてまるでからかうように、白露は赤い舌をベロンと垂らして犬のそれと同様、ハッハッと短い呼吸を繰り返した。
「ちち様……――ちち様っ!!」
「爛菊!!」
爛菊と十六夜は同時に駆け出すと、飛びつくように互いに抱きしめ合った。
「ちち様! 会いたかった!!」
「私もだ爛菊。またこうしてお前と出会えるとは……ずっとお前に、逢いたくてならなかった! 我が愛しの娘よ!!」
「ちち様……お元気そうで本当に良かった」
「ああ、お前もな爛菊。さぞ苦労したことだろう」
「平気。だってずっと千晶様が一緒にいろいろ手伝ってもらったの」
「そうか。帝には心から感謝しないとな」
そうして体を離すと十六夜は、爛菊の頭を優しく撫でた。
これに爛菊は目を潤ませる。
しばらくこの二人の親子を見守っていた千晶だったが、状況が状況だけに、十六夜と爛菊の再会を邪魔させないよう改めて、白露へと意識を向けた。
「爛菊をよこせ小僧。でなくばこの様子なら、大神族を絶滅させるのも容易いぞ」
白露は渚にそう口にする。
「どのみち、前者であったとしてもお前は我々一族を、乗っ取るつもりなのでしょう。どちらも受け入れられませんね」
「ククク……弱者に選ぶ権利はあるまいに」
「弱者、ですか。さぁどうでしょう。何にせよ交渉は決裂です」
渚は落ち着いた口調で言うや、白く鋭い爪を構えた。
これに白露はハッとする。
「お前……そうか。大神族には王弟が二人いると聞いていたしそれにその顔……雅狼八雲司と同じものだな」
「貴様が司を、そそのかしたのでしょう。その顔をもう忘れていたとは、大して利口な頭をしてはいなさそうですね。狗威獣右衛門白露よ」
「クックッ……司様はお元気でおられるか」
「貴様の知ることではありませんよ」
「せっかく仲良くさせて頂いていたのに、冷たい返事だ」
「司の顔を忘れていた分際で!」
渚に怒鳴られて、白露は一瞬畏縮を覚えると自分の周囲にいる狼達を突然、次々と喰らい始めた。
王弟相手となると自分に少しでも有利を得るため、少しでも多くの人狼を喰って妖力を上げようとふんだらしい。
「ギャン!!」
「キャイィン!!」
狼達の絶叫が響き始める。
「無駄なあがきをっ!!」
渚は叫ぶと巨犬姿の白露に跳びかかった。
自分の眼前に姿を現した渚の攻撃を避けようと、白露は顔を背けたが渚の爪は白露の横顔を引っ掻いた。
「チ……ッ! クソ!!」
白露は左頬から流血させながら、吐き捨てる。
「お前も気付いているはずですよ白露」
渚は着地すると、言った。
「我々大神信仰が衰退しているのと同様に、お前達犬神信仰も衰退していることを。寧ろ人間はそっちを恐れて、犬神信者達を追放し孤立させた」
「フン。だから何だ。寧ろ逆に、その血は濃いものとなっている」
白露は左頬からの流血をペロリと舐め上げる。
犬神信仰は病気や災難を引き起こす負の祈願を主とする概念から、時代が進むに連れて敬遠されるようになった。
特に女は、嫁ぎ先に犬神を運んでくると嫌悪され、その為血筋同士で結びつく為にその子孫の血は濃くなっていく。
一般にそれらを犬神統と呼ばれ、男も女も血が濃くなるせいか人間離れをした美しさをしていると言われている。
その代わり肉体の内外に何らかの欠陥を持つ。
主に内臓などの障害だ。
一昔頃はそうした犬神統は隔離されていて、今ではもうほとんど聞かないがまだ僅かばかり、存在するらしい。
そして犬神と大神の何よりもの差は。
「貴様ら狼は絶滅したが、我ら犬は今こそ昔と比べ愛玩動物とされている。それが我々の力の差であろう!」
「ク……ッ!」
「フン……」
白露の言葉に、渚は歯噛みし千晶は無表情のまま鼻を鳴らした。
「“大神”となるにこそ相応しいのは今や、我々犬神だ。世代交代の時だろう。弱体化したことに少しは自覚を持ってもらいたいものだ」
しかし突然、遠くの方から声がした。
「そもそも犬の祖先は我ら狼だ。自覚するのは貴様の方だ!」
これに白露は勿論、千晶と渚も振り返る。
声の主は、十六夜だった。
だが白露は更にその向こうへと目を向ける。
「おお、爛菊。そこにいたか。迎えに来たぞ」
白露の言葉に、爛菊は顔面蒼白となる。
「……娘から事情は聞いた。よくも二百年もの間、我が娘を!!」
「何だ。爛菊の父親か。だが所詮は雑魚に違いない」
しかしいきなり、十六夜は遠吠えをした。
するとしばらくして、十数人の人の姿をした男女問わずの人狼が駆けつけてきた。
「皆の者! 帝と王弟様の手を煩わせるな! かかれ!!」
十六夜がみんなに声をかける。
これに首肯するや駆けつけてきた人狼達は、十六夜も含め骨や筋肉を軋ませながら、二足歩行型の狼と化した。
「これは……各地の村長達です兄上」
「ああ。分かっている」
渚と千晶が言葉を交わす。
「後は我々が。帝と王弟様は下がっていてください」
狼の顔で十六夜は言うと、片手を横に突き出して千晶と渚の前方を塞ぎ、二人は後ろへ二~三歩下がった。
一般の下等人狼は人型か狼型か二つに一つだが、それなりに位の高い彼ら人狼は、二足歩行型人狼になることが可能なのだ。
力量もそれなりにある。
自分達より数倍も巨大な犬へとみんなは飛びかかると、殴ったり蹴ったりと攻撃を始めた。
「うっ、ぐ、が……っ!」
巨体のあちこちを殴打され爪で傷つけられて出血しながら、白露は呻き声を漏らす。
今まで狼の牙でも傷つけられなかった白露が出血し、おまけによろめき始めている。
「結局はただの、犬畜生か」
千晶の言葉に白露はピクリと垂れ耳を動かすと、ワンと大きく吠えた。
すると衝撃波が生じ、白露の全身にまとわりついていた人狼達が吹き飛ばされる。
「ク……ッ!」
「うぅ……っ」
地面に落下し、呻く人狼達。
「これが我の全力だと思うなよ大神乃帝よ」
白露は述べると、グンと千晶へ鼻面を近づける。
それでも千晶は動揺することなく落ち着き払っていた。
「その割りには、息が上がっているぞ白露よ」
図星を指されたか、白露が小さくウゥと唸る。
直後。
「猫又の火!」
「雷の鞭!」
「石つぶて!」
これらの声とともに、どこからともなく炎と雷と小石が白露に襲いかかった。
「ギャワン!!」
思わず白露は叫んで、身を翻す。
「これは……」
渚が辺りを見回す。
すると二羽の巨大折り鶴に乗った見覚えのある人物が何人も。
「僕らに頼らないなんて水くさいじゃない、アキ」
「遊びに来てみたらこのグロい光景は何事じゃ千晶!」
「血の海じゃないか」
鈴丸と雷馳と紅葉がそれぞれ口にする。
「来て早々で何だが、俺帰る……」
「それはダメぞよ壱織!」
背を向ける壱織の翼が、肩越しに伸びてきた此花の手で鷲掴みされる。
「お前ら……いつでも遊びに来いとは確かに言ったが……来るの早すぎ」
千晶は至って冷静に口にした。
「でもこれは、一体何事……」
朱夏の声もする。
「このタイミングで来てくださるとは……お力になって頂けるのなら僕達も心強い!」
渚の表情に喜色が差す。
「む……? そこにいるのは、いつぞやの鬼女か」
白露は唸り声を上げる。
「そういうお前は犬神かい。どうだい。私からの土産は、喜んでくれたかい」
紅葉は皮肉がてらに口角を引き上げる。
「首なしの嶺照院の躯のことなら、今こうしてお礼参りに来ているところだ」
「相手が違うんじゃないかい?」
「フン。所詮何人束になってかかってきたところで一緒だ」
紅葉の言葉に、白露は前足と後ろ足を開いて体勢を構えた。
すると今度は、野太い遠吠えが響き渡ったかと思うと、突然感じられた強烈な妖気に白露は首を巡らせ、天を仰ぐ。
この妖気に千晶と渚も顔を上げた。
「この気配は……」
「ああ。間違いない」
妖気を感じる方角に白露は焦る様子を見せると突然、遠く離れた場所で佇んでいる爛菊の元へとひとっ飛びし、片方の前足で爛菊を払った。
「キャア!!」
爛菊は逃げる余裕もなく悲鳴とともに横へと吹っ飛び、そのまま気を失って地面に倒れ込んだ。
それとほぼ同時に、二足歩行型の人狼姿をした十六夜が爛菊の前に、素早く立ち塞がる。
「娘にいきなり何をする!! 爛菊は貴様には渡さんぞ!!」
「ならば貴様の能力を頂く」
白露はそう口にしたかと思うとそのまま、バクンと十六夜を頭から爪先まで丸ごと口に入れて、グチャグチャと数回噛み潰して嚥下した。
「十六夜殿!!」
「クソ! 爛菊が!!」
渚と千晶が大慌てで白露へ向かって、地を蹴った。
だが白露は血塗れの口で爛菊を軽く咥えると、空間の裂け目を出現させてその中に姿を消してしまった。
丁度そのタイミングで朧が現場に到着した。
「帝、渚様、犬神は――」
「爛菊をさらって逃げた!」
千晶の言葉に、朧は愕然とするのだった。
・猫俣景虎鈴丸(118歳)……妖怪猫又の族長の息子で、千晶の同居人。家事全般が大得意で、女好き。とても人懐っこい。人間界での暮らしの方が長く、誰よりも人間社会に詳しい。本来の姿は金と青のオッドアイをしたオスの三毛猫。
・響雷馳(70歳)……妖怪、雷獣の子供。物心ついた時には最早両親がいなかった孤児で、ある嵐の日に大百足と戦って傷ついているところを爛菊に拾われ、名を与えられる。千晶の家の居候で、自分も妖怪のくせに世間知らずからくる極度の妖怪恐怖症。
・朱夏(推定200歳以上)……妖怪、姑獲鳥。元は人間だった。土蜘蛛から縄張りの一部を与えられて数々の人間を騙してきたが、ある雨の日に雷馳と出会ってからその悲愴感さにいたたまれなくなり、種族も血筋も違うが雷馳の母親になる決意をする。千晶の家で住み込みの家政婦をしている。
・飛鳥壱織(529歳)……元々はツンデレで一人を好んでいた妖怪、丹鶴。祖母は若い頃に人間に恩返しをした鶴。爛菊の通う高校の保健医をしていて、極度の潔癖症。高慢な性格で趣味は編み物。高度な治癒系能力を持つ。最近、神格妖怪である座敷童子、此花に惚れられて以来一緒にいることが多いようだ。
・此花(推定400歳以上)……元々は人間の頃、口減らしされた地縛霊だったが人間からの半ば都合の良い祭祀により、神格化された座敷童子。年齢を操ることができる。壱織への想いからようやく自由を得た。
・紅葉もしくは呉葉(推定1000歳以上)……信州戸隠の鬼女で、爛菊とは前世から仲の良い友人。呉葉は元は人間の両親に与えられた本名で、紅葉は鬼女となってからの名前。第六天魔王から生み出された。