其の佰弐拾参:口づけ
【登場人物】
・雅狼朝霧爛菊(18歳)……前世が人狼皇后だった人間の少女。二百年間、犬神の皇に魂を捕われて記憶と人狼の能力を奪われ、ただの人の子として現世に転生させられた。神鹿から妖力吸収の力を授かり、再び人狼に戻る為に数多くの妖怪と出会う。
・雅狼如月千晶(327歳)……あらゆる妖怪のトップ大神乃帝である人狼の王で、爛菊の夫。二百年前に妻を失ってからずっと転生を信じて探し続けて、ついに爛菊を見つける。彼女を元の立場に戻すべく、人間界で爛菊の手伝いをする。
・猫俣景虎鈴丸(118歳)……妖怪猫又の族長の息子で、千晶の同居人。家事全般が大得意で、女好き。とても人懐っこい。人間界での暮らしの方が長く、誰よりも人間社会に詳しい。本来の姿は金と青のオッドアイをしたオスの三毛猫。
・響雷馳(70歳)……妖怪、雷獣の子供。物心ついた時には最早両親がいなかった孤児で、ある嵐の日に大百足と戦って傷ついているところを爛菊に拾われ、名を与えられる。千晶の家の居候で、自分も妖怪のくせに世間知らずからくる極度の妖怪恐怖症。
・朱夏(推定200歳以上)……妖怪、姑獲鳥。元は人間だった。土蜘蛛から縄張りの一部を与えられて数々の人間を騙してきたが、ある雨の日に雷馳と出会ってからその悲愴感さにいたたまれなくなり、種族も血筋も違うが雷馳の母親になる決意をする。千晶の家で住み込みの家政婦をしている。
・飛鳥壱織(529歳)……元々はツンデレで一人を好んでいた妖怪、丹鶴。祖母は若い頃に人間に恩返しをした鶴。爛菊の通う高校の保健医をしていて、極度の潔癖症。高慢な性格で趣味は編み物。高度な治癒系能力を持つ。最近、神格妖怪である座敷童子、此花に惚れられて以来一緒にいることが多いようだ。
・此花(推定400歳以上)……元々は人間の頃、口減らしされた地縛霊だったが人間からの半ば都合の良い祭祀により、神格化された座敷童子。年齢を操ることができる。壱織への想いからようやく自由を得た。
・雅狼左雲渚(320歳)……千晶の弟で司とは双子の兄にあたる王弟。丁寧な敬語を主とする。千晶が留守の間は帝代理を務めていた。常に落ち着いた姿勢で周りを見ている。
・暁朧(年齢不詳)……人狼国で先代から太政大臣を務めていて今は千晶に仕えている。いつも全身を黒の衣装で包む寡黙無表情な性格だが、密かに爛菊を愛していることは司と爛菊以外、誰も知らない。
和泉と此花の二人がかけた二重結界が張られた千晶の家に、みんなは戻った。
ソファーに横たえた意識を失っている爛菊に、壱織が彼女の体内の熱を冷まし体力回復を施している間に、朱夏は雷馳とともに買い物に行く支度を始める。
「何もせずにこのまま寝かせているのもいいが、やはり少しでも体力を取り戻す為にも食事を摂らせた方がいいからな」
「きっと妖力が完全に戻ったからには人狼として、爛菊は肉を欲しがるだろうからそのつもりで買い物に行ってきてくれ。朱夏」
「ええ。分かったわ」
千晶の注文に、快く首肯する朱夏。
「よし。これでいいだろう。さて、俺はもう帰るかな」
ソファーの側にしゃがみこんでいた壱織が立ち上がる。
これに朱夏が声をかけた。
「あら。飛鳥さんも食事ご一緒なさらない? 好みに合わせて作るけど」
「う、うーん……でも此花が待ってるからなぁ……」
考える壱織に、朱夏は笑顔を見せる。
「だったら此花ちゃんもここにお呼びしたらいかが? よろしいわよね? 雅狼さん」
「ああ。今回飛鳥には世話になったからな」
「そうか。なら此花も喜ぶだろうから、そうさせてもらうか」
千晶の快諾に、壱織もそれに甘える事にした。
朱夏が雷馳と一緒に買い物から戻って来た時には、もう爛菊が意識を取り戻して起き出していた。
壱織に呼ばれて、座敷童子の此花もこの場にいた。
「いらっしゃい此花ちゃん。腕によりをかけて美味しい料理を作るわね」
朱夏の言葉に、此花は笑顔を見せる。
「期待してるぞえ!」
一時間後、食卓に料理が並ぶ。
さつま汁にぶりの塩焼き、天ぷら。
そして千晶と爛菊には別に、牛肉のバター焼きと豚の角煮、若鶏の薬味焼きを用意した。
「肉三昧……美味しそう」
そう呟く爛菊に、鈴丸が声をかける。
「ランちゃん、よだれよだれ」
これにハッとした様子で爛菊は口元を拭う。
「今日は頑張ったの。お母さん」
「ええ。大人数だしね」
雷馳の言葉に、朱夏が笑顔で答えた。
ちなみに鈴丸の将来の嫁、飼い猫テイルにも魚が振る舞われた。
忘れがちだが、普段使用されない部屋で祀られている雲外鏡にも、酒と餅は用意された。
こうして賑やかに夕食が行われたのだった。
「帝、爛菊様。お迎えに上がりました」
翌朝、玄関先に立っていたのは人狼国太政大臣である、暁朧だった。
全身、漆黒の衣装で占めている。
これを出迎えたのは千晶だった。
「ああ。渚は?」
「はい。渚様は帝代理ゆえ、留守をさせて頂きました」
「そうか」
「表に車を待たせております」
朧は両手を背後で組んだ姿勢で、低い声でそう口にする。
「爛菊、まだか」
千晶が奥へと声をかける。
「ええ、そうなんだけど……」
爛菊が何かを気にしながら、すごすごと玄関へと出てくる。
彼女以外、誰もいない。
爛菊は少し奥へと顔を向けたまま少し待っていたが、小さく嘆息を吐いた。
「仕方ないわ。これ以上朧さんを――朧を待たせるわけにもいかないし……」
「? 如何なされましたか爛菊様」
爛菊の様子に、朧が無表情のまま声をかける。
「それが……その」
爛菊が口ごもっていると、遠くから朱夏の声がした。
「爛菊さーん! 待って待って! 今やっと鈴丸さんが!」
慌てて駆け寄ってくる足音とともに、何やら騒ぎ声が聞こえてくる。
「嫌じゃ嫌じゃああぁぁー!!」
「嫌じゃない! 絶対いつか後悔するよ!」
何事かと千晶と爛菊が奥の様子を窺っていると、飛び出してきた朱夏の後から、雷馳を肩に担ぎ上げた鈴丸が姿を現した。
肩に担がれている雷馳は、ジタバタと暴れている。
「やぁお待たせランちゃん。よいしょっと」
鈴丸は爛菊に笑顔で言ってから、肩の上の雷馳を下におろす。
しかし雷馳はその場から逃げ去ろうとするのを、鈴丸が首根っこを押さえる。
「コラ雷馳」
「いたたた、いたたた……!」
雷馳は無理矢理、爛菊の方へと向かされるが、雷馳は俯き気味にそっぽ向いていた。
そういえば今朝は、朝食もろくに食べずに部屋へと雷馳は戻って行ったことを、ふと爛菊は思い出す。
ちなみに壱織と此花は昨夜、食事を終えると帰って行ってもうここにはいない。
「雷馳……爛菊さんとお別れするのを嫌がっていて……」
「お母さん! 余計なことを言わんでいい!」
困り顔でそう言った朱夏へ、珍しく雷馳が反抗的な言葉を投げかける。
「なるほど。それで鈴丸が引っ張り出してきたわけか」
千晶が小さく口角を上げる。
これに爛菊は小さく息を吐くと、雷馳の目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「……ライちゃん」
「……」
名前を口にする爛菊に、雷馳は無言を返す。
相変わらずそっぽ向いたままだ。
「ライちゃん。爛はあなたと、お別れする気はないわ」
「え……?」
雷馳の両腕を優しく掴んできた爛菊に、雷馳は小さく反応する。
「またいつでも爛はこの家へライちゃんに会いに来るし、ライちゃんもいつでも爛に会いに人狼国へ、遊びに来てもいいのよ」
「ラン殿……」
「爛はいつでも歓迎するわ。大好きよライちゃん」
「ラン殿……っっ!」
これに両目いっぱいに涙を溜めた雷馳が彼女へと視線を合わせる。
「学校、頑張ってね」
「ラン殿ーっっ!!」
雷馳はボロボロと涙を零すと、爛菊の首元に飛びついた。
「スズちゃんの言うこと、ちゃんと聞いてね」
「うむっ!」
「朱夏さんを……お母さんを助けてあげてね」
「うむっ!!」
「体を大事に、元気な姿を爛にまた見せに来てね」
「うむ、うむ……っ! ラン殿! わしもラン殿が大好きじゃ!!」
「フフ……ありがとう」
爛菊は微笑むと、雷馳をギュッと抱きしめた。
朱夏もこの光景に目尻を拭っている。
「千晶が悪さしたら、いつでもわしが次のラン殿の婿になるからの!!」
「やかまし」
爛菊から体を離して真剣な顔をして言った雷馳の頭を、軽く殴る千晶。
「ええ。その時はよろしくねライちゃん」
「うむ!!」
雷馳は大きく頷いたかと思うと、突然爛菊の口唇に自分の口唇を重ねた。
「……!」
「――!」
「!!」
「!?」
鈴丸、朱夏、千晶、朧と揃って言葉を失い目を見開く。
雷馳は口唇をゆっくりと離すと、満面の笑顔を見せた。
「約束じゃ」
爛菊も構わず笑顔を見せる。
「ライちゃんったら……」
「これは迂闊な真似はできんな」
千晶もふと息を吐く。
「やったね雷馳!」
「お母さん公認だわ」
鈴丸と朱夏も笑顔を浮かべた。
某すら接吻など恐れ多いのに、この小童如きがよくも軽々しく……!
などと、内心密かに思いながら朧は、ゴホンと咳払いをした。
「ああ。待たせて悪いな朧」
千晶が朧へと顔を向ける。
「それじゃあ、ライちゃん。爛……行くね」
「また、きっとすぐ会える」
そう言った雷馳は彼女の口唇を奪ったせいか、心なしか少々大人びた表情を見せた。
「それでは」
朧は静かに口にすると、玄関のドアを開ける。
すると玄関前には、牛のいない牛車があった。
「それじゃあ、スズちゃんと朱夏さんも、いつでも人狼国に来てね」
「うん!」
「是非」
鈴丸と朱夏が頷く。
「この家は人間界の俺の別荘ともなる。頼んでおくぞ。鈴丸、朱夏」
「任せといてよ!」
「では、いってらっしゃい」
明るく答える鈴丸に、微笑む朱夏。
玄関を出た千晶と爛菊に、朧が声をかける。
「足元をお気をつけ下さい」
車に乗り込む二人を確認して、朧も後に続く。
三人を乗せた牛車が宙に浮かび上がる。
「じゃあねー二人ともー!」
「お元気でー!」
「ラン殿を悲しませるでないぞ千晶ー!!」
鈴丸、朱夏、雷馳と下から大きく牛車へと手を振って見送る。
爛菊は物見窓を開けると、指先を出して手を振る代わりとした。
動き出した牛車はやがて、遠い空に消えて見えなくなった。
「お帰りなさいませ。兄上、后妃」
人狼国城で、千晶の弟の一人である雅狼左雲渚が出迎えた。
「ああ渚。留守番、ご苦労だったな」
千晶は渚へと声をかける。
「いえいえ兄上こそ。爛菊后妃も、お疲れ様でした」
「この度は、ご面倒をお掛けしました。渚様」
「お戻りになられて、この上ない光栄ですよ」
自分の言葉に答える爛菊に、渚は柔和な微笑を浮かべた。
「早速だが、すまん。司の気配を感じたから、現場に向かったんだがもう逃げられた後だった。それ以降、一切もう気配は感じられなかったが、どうやら人間界にいるのは確かみたいだな」
「そうですか……こちらにも、一切接触はありません」
千晶の言葉に、渚の顔も険しいものになる。
「とりあえず遅くなったが、地下牢の様子を見せてくれないか」
「ですが、地下牢はまだ水に沈んだままです」
「構わん」
「そう、ですか。水に沈んだ地下牢を見たがるなんて、兄上も人間界に行ってからは物好きになりましたねぇ」
「……お前こそ、留守を頼んでいる間に言葉に毒を含むようになっていないか」
「おや。そうですか? 普段朧をからかいすぎて癖になってしまいましたでしょうか」
「――然様ですな」
兄からの指摘に、後頭部に手を当て口を開けて笑う渚へ、それまで無言で立っていた朧がズバリ口にした。
「朧をからかいすぎてって……そんなに暇だったのかお前は」
「ああでももう大丈夫。きっと今後は賑やかになります。ねぇ、爛菊后妃」
「え? ええ……」
渚に名指しされて、爛菊は戸惑いながら返事した。
とりあえず気を取り直して千晶と爛菊は、朧を先頭に渚から促されるまま、地下牢へと向かった。