其の佰拾陸:立ちはだかる陰陽師
夜。
眠りにつく為に司が布団で横になっていると、障子の向こうに一つの影が止まった。
「司様」
どうやら霞だ。
「……何だ」
「失礼します」
霞は静かに障子を開けて室内に足を一歩踏み入れると、改めて障子を閉めて司の元へと歩み寄ってきた。
薄桃色の襦袢姿だ。
司は頭の後ろに両手を組んで、霞に見向きもせずに天井を見つめている。
「もし宜しければ、私が司様の夜伽の相手をさせて頂きます……」
正座をしてから霞は傍らで三つ指を突くと、頭を下げる。
しかし。
「要らねぇ」
「え……?」
「確かに二百年以上ご無沙汰だが、俺とて相手を選ぶ。人間を抱くほど落ちぶれちゃいねぇよ。余計な世話だ」
司は言うとゴロリと寝返りをうち、霞に背を向けた。
これに霞は肩を落とす。
「そうですか……出すぎた真似を、失礼致しました。それでは、おやすみなさいませ……」
霞はゆっくり立ち上がると、静かにその場を後にした。
寝室に戻ってきた霞に、布団で横になっていた綴が上半身を起こした。
霞と綴は同じ寝室で眠っている。
「随分お早いお戻りで……どうかされましたか? 霞様」
後手で障子を閉めて、俯き加減の彼女の様子に綴はそっと声をかける。
「夜伽の相手……断られてしまったわ」
霞の言葉に意外さを覚える綴。
「霞様ほどの相手を、どうしてまた」
霞は自分の布団へと歩を進めると、ペタンと腰を下ろす。
「私は人間という虫ケラだから、ですって」
「虫、ケラ……司様らしいですね」
「司様に抱かれるの……楽しみにしていたのに」
「霞様……」
哀しげな表情で霞が一筋の涙を零すのを、綴は見逃さなかった。
綴は身を乗り出すと、人差し指で優しくその涙を拭う。
「霞様、あなたに泣かれると、私も悲しい」
「綴……」
「夜伽を拒否されてしまい、それでもまだ体が疼いておられるのなら……私が鎮めて差し上げましょう。男の体でないことは申し訳ありませんが、慰めることはできる」
「綴……ダメよ。司様に声を聞かれてしまっては……」
「だったら声を、押し殺しておけばいい……」
綴は霞の顎を持ち上げると、口唇を重ねた。
司が来る前から、女同士とはいえ霞と綴の二人は肉体関係を持っていた。
なので今更恥じることではないのだが、司を愛してしまっている霞は今回、複雑な気持ちだった。
だが、そのまま綴に布団へと押し倒されて、霞は抵抗することなく綴が与えてくる口や指に、身を任せるのだった。
必死で声を押し殺しながら。
翌日の朝。
朝食を終えてから少しゆっくりしてから、霞と綴は妖力入手に行く為に支度していた。
司は本来の自分の妖力分を入手できる喜びから、気持ちが高ぶっていた。
しかしそれが間違いだった。
突然、司が動きを止め、黒い狼耳をピクリと立てる。
初めは、そんな司に霞と綴は不思議に思っていたが、しばらくして彼女達二人も異変に気付いた。
「この妖気……何か来る」
「――兄者だ」
霞の言葉に、ボソリと司が呟いた。
「チッ……妖力を解放してから、気配が気付かれたか」
「いかが致しましょうか司様」
「お前らが足止めしろ。ついでに田舎娘を殺せ。兄者は殺すな」
「はっ!」
司からの命令に、霞と綴は同時に声を発する。
「じゃあ俺は先に行っている」
「どうかお気を付けて!」
一言残してこの場から飛び出して行った司に、霞は声をかけると綴へと振り返る。
「いよいよよ綴」
「はい」
すると数分後、千晶が上空から二人の前に着地して姿を現した。
「……ここに司という男がいるだろう」
どうやら司は、千晶に感づかれたのを意識して、すっかり自分の気配を消したようだ。
「だとしたら?」
霞が挑発気味に口にする。
これに千晶は怪訝そうに眉宇を寄せると、言った。
「司は俺の弟で脱獄者だ。渡してもらおう」
「そうはいかない」
今度は綴が千晶に答える。
少し遅れて、爛菊と鈴丸、雷馳と朱夏が姿を現す。
構わず千晶は続けた。
「お前達は、司の何だ」
「……信仰者よ。大神の。帝の座は、あなたではなく司様を支持しているわ」
霞の返答に、爛菊が驚愕の表情を露わにする。
「お前らが、司を脱獄させたのか。一体どうやって……」
落ち着き払った様子で千晶は訊ねる。
これに霞は小さく口角を引き上げた。
「水よ」
「水?」
「水流道を使ったのよ。風水ってご存知? 自然の気の力を借りるのよ」
「お前達、ただの人間ではないのか」
すると綴が一歩進み出て言った。
「この方は陰陽師の藤原霞様だ。そして私はその巫女、綴」
「へぇ、陰陽師。今時珍しいね。まだそんなのがいたんだ」
好奇心旺盛の鈴丸が興味を示す。
「おんみょおじ? 何じゃそれは。お母さんは知っておるかの?」
「いいえ。お母さんも知らないわ……」
雷馳と朱夏は首を傾げながら言葉を交わす。
「それでは、その身を持って味わってもらおう」
そう口走って綴が片手を素早く斜めに構えた。
見ると、二本に揃えられた指の間に、札が挟んである。
「俺は人間と争う気はない」
「言ったはずだ。陰陽師だと。妖を屈するだけの力は持っている。喰らえ!」
千晶の言葉に、綴は答えるとその指に挟んでいた札を投げ放ってきた。
その札は空中で四枚に分かれて、爛菊、鈴丸、雷馳、朱夏の方へと突っ込んできたが。
「猫又の火」
呟くように鈴丸が口にして、指をパチンと鳴らした。
直後、四枚の札は炎に包まれて灰になる。
「陰陽師だろうと、僕らにしてみれば結局ただの人間なの」
平然と鈴丸は言うと、ニコッと笑って見せた。
「司はどこにいる」
「司様は渡さないわ」
落ち着いた口調で訊ねた千晶に、霞が身構える。
いつの間にか、手には金銀朱の色鮮やかな扇が握られていた。
よく見ると、どうやら鉄扇のようだ。
「我が刃よ。蝶のように舞いその肉を切り裂け!」
霞は唱えると同時に、鉄扇を持つ手を大きく横から振り切った。
霞が放った鉄扇は、弧を描いて爛菊めがけて飛来する。
ブンブンと風を切る音を立てる鉄扇を、呆気なく払い落としたのは千晶だった。
爛菊の前に千晶が立ちはだかっていたのだ。
しかし先程までの冷静沈着だった彼の目に、怒りの色が浮かび上がっている。
「……まさかお前ら……司に爛菊を殺せと言われたのか?」
「……クッ!」
霞が言葉を詰まらせて千晶を睨みつける。
すると綴が口を開いた。
「我らにとって、司様の言葉は絶対だ」
これに千晶はスゥと目を据わらせた。
「そうか。では少々痛い目にあう覚悟はあると言うことだな」
「司様こそ大神国の帝に相応しい!」
今度は綴が霞を庇うように前へと立ちはだかると、数本のクナイを投げ放つ。
しかしやはり、それぞれ千晶、鈴丸、雷馳、朱夏に全て払い落とされてしまった。
「我ら妖怪に武器は効かぬぞ。全て止まって見えるわ」
雷馳が偉そうに胸を張る。
「そうか小僧」
「小僧言うな! お主らよりわしの方が長ぅ生きておる!」
綴の一言に、雷馳がむきになって言い返す。
「フフ……妖怪には武器が効かないですって……? じゃあ妖怪には妖怪はどうかしら……」
綴の背後で、霞が肩を揺らして笑った。
「綴」
「はい、霞様!」
二人はお互いに声を掛け合うと手印を結び始めた。
「我が式鬼、出でよ!」
「我が式鬼、現れろ!」
霞と綴がそれぞれ声を発する。
「何だと……?」
思いもよらない霞と綴の言葉に、千晶は耳を疑ったが静かに、そして遠くから地鳴りが聞こえ始めやがて、身近に迫ってきた。
空は暗雲立ち込め、低くなるや雷鳴が轟きだした。
しかし地鳴りが限界まで迫ってきたかと思うと、突然ピタリと止んだ。
同じく雷鳴も静まり返る。
数秒後、腹に響くほどの咆哮が轟き渡った。
「ウオオオォォォー……ッ!!」
これを合図にしたかのように、今度は千晶達と霞、綴の間に眩い光が瞬き、ドンと爆音が鳴る。
落雷だ。
咄嗟に千晶と鈴丸の二人で結界を張り、衝撃から身を防ぐ。
落雷が起こした砂煙が治まってきた時、そこには頭が猿で体は狸、手足が虎に尻尾が蛇の姿をした三メートル近くはある大きさをした獣の姿があった。
また、別の気配を感じて皆一斉にそちらへ顔を向けると、曇天を貫く程の巨大な骸骨が佇んでいた。