其の佰拾:犬神と鬼女
「ハン! ここで爛ちゃんに化けて当主が寿命でおっ死ぬまで辛抱しなきゃと思ってたんだけど、思いのほか早かったね」
紅葉は顔にかかった前髪を手で払いのけながら言った。
「しかしこのジジィ。お前の信者だったのかい。このご時世にまだ犬神信仰者がいたもんだ。廃れたとばかり思っていたが、犬神の皇直々がこのジジィに憑いていたとはね」
「誰だ貴様は。爛菊をどこにやった」
紅葉を前にして、白露は不服そうに唸る。
「その前に、爛ちゃんを人間に転生させたのはお前だって? 聞き捨てならないね。何を企んでいるんだ犬神の皇」
「ふん……貴様が知ることではないわ。爛菊をどこにやった。あれは我の物だ」
「いいや。教えられないね」
「そうか。ならば死ね」
白露は冷ややかに言うと、紅葉へと爪を振り下ろした。
ガキン!!
と、鈍い金属音が響く。
気付くと、白露の鋭い爪を紅葉はいつの間にか手にした細長の煙管で受け止めていた。
「遊んでもらいたいのかい犬神。お前如きに簡単にやられるような紅葉様じゃないよ」
「紅葉、だと……? ――そうか。成る程貴様、信州戸隠の鬼女か」
「ふふん。爛ちゃんは私の大切な友さ。お前なんぞに容易く渡しゃしないよ。二百年ぶりの再会なんだ。邪魔しないでもらおうか」
「その二百年間、爛菊の魂は我が手中にあった。今更簡単に諦めはしない」
「犬神如きが、よくも大神の皇后を捕らえていたね。身の程を知りな」
「身の程を、だと……? クッ! クックック……! その程度を格上げする為の材料が爛菊なのだ! 分かったらさっさと我の前から消え失せろ鬼女よ」
「はは~ん。お前つまり、大神の座を狙っているのかい」
「理解できたようだな。黄泉への手土産にするがいいわ!!」
白露は声を大にすると、壁を背にしている紅葉へと拳を突く。
だが、砂煙とともに壁が大きな穴を開けただけだった。
向こうの部屋が丸見えになる。
「ほぅ。思っていたよりもなかなか素早い動きだな鬼女よ」
白露は拳をゆっくり引っ込めながら、視線だけを上へと向ける。
「お前がとろいだけなんじゃないのかい」
そう言った紅葉の声が、頭上から届く。
紅葉は天井に背を当てて張り付いていた。
これに白露は今度は頭上に拳を突き上げる。
派手な音を立てて居間の天井が破壊され、木材などが脆くも剥落し青空が覗く。
突然の騒動に、この屋敷にいた使用人達が悲鳴を上げながら外へと避難していく。
しかしそんなことは一切気にすることなく、白露と紅葉は崩壊した室内で向かい合っていた。
紅葉はある一箇所を指差したかと思うと、その指を上へと跳ね上げる。
すると白露から切断された嶺照院忠吉の生首が指の動きに合わせて浮かび上がり、白露へと大口を開けて襲いかかった。
だが白露が片手を振り払い、呆気無く忠吉の頭は庭の池まで吹っ飛び水中に沈む。
「おやおや……せめて死後だけでも役に立たせようと思ったけど、無意味だったね旦那様」
紅葉は池の方へと額に手をかざして眺めながら、皮肉がてらにぼやく。
その隙を突くように白露が紅葉に右斜め後ろから爪を振り下ろした。
が、紅葉の姿が揺らいだかと思うと、ふぃと消える。
「ぬ……分身……!?」
「お気に召したかい? 私みたいないい女が増殖すると興奮するだろう。ご希望に応えてやるよ」
いつの間にか白露の背後に立っていた紅葉は言うや、パチンと指を鳴らした。
途端、白露の周囲に十人の紅葉が姿を現した。
「ふん。所詮はまやかし」
「さぁ~て、どうだろうねぇ」
背後にいるのが本物の紅葉かと思われたが、正面にいる紅葉が婀娜っぽく答えた。
そして十人の紅葉は細長の煙管を構えると、一斉に白露へと襲いかかる。
「何のこれしき」
白露は悠然と口角を引き上げると、十人の紅葉の煙管攻撃を全て目にも止まらぬ動きで払いのけていく。
接近戦で相手をする限り、どうやらどの紅葉にも手応えがあり、ただの分身ではないようだ。
「ならば」
白露は呟くと、紅葉の分身の輪の中から真上へと飛び上がって抜けてから、握っていた片手を振り下ろすように開いた。
直後、紅葉達に小さい何かがポツリと張り付く。
「……? ――蛆?」
どれともなく一人の紅葉がそれを見て呟いた。
瞬間、それぞれの紅葉に張り付いた一匹の蛆虫から一気に、次々と数えきれない蛆虫が湧き膨れ上がったかと思うと、紅葉の全身を覆い尽くす。
「ヒイィィィーッ!!」
十人の紅葉達は悲鳴を上げ、たちまち蛆虫に肉を食いつくされて骨だけとなると、瓦解する。
一方、本物の紅葉はと言うと、屋敷の屋根の上にいた。
だが両手の指がない。
どうやら十人の紅葉の血肉を我が身である指で用いていたようだ。
しかしそれでも、紅葉は平然としている。
白露も、開いている穴を間に紅葉の向かい側の屋根に着地すると、首を左右に傾けてコキコキと骨を鳴らす。
「いつまでも遊び相手になる気はないぞ鬼女。この辺にしておかんと貴様、本当に死ぬことになるが?」
「お前に私を殺せやしないさ。犬っころ」
紅葉のこの言葉に、白露はピクリと反応する。
その間、失われていた紅葉の両手の指が再生されていく。
「何だと……?」
「おや? 逆鱗に触れる言葉でも言っちゃったかねぇ? ――犬っころ」
すっかり再生した全ての指先に、紅葉はふと息を吹きかける。
「犬神である我らを! 侮辱するのは赦されん!!」
白露は憤怒の形相で空を仰いだかと思うと、脇を閉めて両腕を構えた。
直後、白露を中心に強力な衝撃波が広がった。
「!?」
紅葉が気付いた時には、既にこれに巻き込まれていた。
屋根は破壊され、屋敷が半壊する中、大量の粉塵が舞う。
束の間、時が止まったかのように感じられた。
だが次は強烈な吸引力に、紅葉は白露の方へと引き寄せられるのを必死で踏ん張る。
しかし白露は、ゆらりと紅葉へと顔を向けると、片手を振り下ろした。
同時に、収斂された重力が一直線に紅葉を蹂躙した。
「――っかはぁ……っ!!」
紅葉はその影響で目を見開き喀血する。
「ククク……死ね、鬼女め」
白露は振り下ろした方の手を握りしめようとした時、鋭い光が紅葉を中心に放たれる。
その眩い光に、白露の目がくらむ。
数秒後、光が収まり白露は紅葉の方を見ると、彼女の姿は消えていた。
「フン。逃げたか」
すると、中庭の方で何やら呻き声がした。
半壊した屋敷から、中庭はすっきりと見通せる。
見ると。
そこには爛菊が倒れていたのだ。
白露は一瞬、また紅葉が化けているかと疑いながら、ゆっくりと歩み寄る。
白露は跪くと、クンと鼻で彼女を匂ってみる。
……爛菊の匂いだ。
「こんなところにいたのか爛菊。危うくお前まで巻き込むところだったではないか。さぁ、我とともに犬神の国へ還るぞ」
白露は意識を失っている爛菊を抱きかかえると、発生させた異界へのトンネルの中へと姿を消した。
ドタンという落下音に、朝拝を始めようとしていた神鹿、鹿乃静香和泉が振り返る。
すると床の上に、紅葉がボロボロの姿で倒れていた。
「うぅ……」
「紅葉、何があった?」
和泉は足早に歩み寄る。
「犬……神が」
「犬神?」
「ああ……犬神の皇が、爛ちゃんを奪いに……嶺照院に押しかけて……」
「犬神の皇……狗威獣右衛門白露か。大神乃后妃を奪いにだと?」
「嶺照院は、犬神信仰者だった……爛ちゃんに、自分の仔を産ませると……人狼――大神の座を狙っている。爛ちゃんと千晶に知らせようとしたけど、どこにも気配がなくて……和泉、お前のところに」
「ああ。二人は座敷童子、此花の旅館にいる。妖力封じの結界で念話も阻まれているのだ」
和泉は言うと、紅葉に手をかざしながら上から下へと動かした。
すると紅葉の呼吸が落ち着いていく。
治癒を施したのだ。
「ああ、楽になったよ」
「それでは白露はどうした」
「嶺照院忠吉の首なし死体に、爛ちゃんの匂いと幻影を仕込ませて逃げてきた」
「そうか……ではこの事態を知らせに此花の元へ行こう」
普段滅多に神社から出ない和泉がそう言うと、朝拝を少宮司に任せて出かける支度を始めた。