表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
109/144

其の佰玖:仄かに色づきし無彩色の華



 そして今現在――温泉旅館にて。

 賑やかなスズメの囀りで、千晶(ちあき)は目を覚ました。

 ふと横を見ると、自分の隣で一緒に眠っていたはずの爛菊(らんぎく)の姿がない。

「爛菊……?」

 千晶は上半身を起こしながら辺りを見回すと、すぐに彼女は見つかった。

 爛菊は旅館用の浴衣姿で窓辺に座り、外を眺めていた。

「爛菊。もう起きていたのか」

 千晶は側に脱ぎ捨てていた自分の浴衣をたぐり寄せると、全裸姿の身にそれを着込みながら立ち上がり、帯を締めつつ窓辺にいる彼女の元へと歩み寄った。

 これに爛菊は相変わらず顔を窓の外に向けたまま返事をする。

「おはよう千晶様」

「ああ。おはよう爛菊」

 千晶は答えながら彼女の背後に腰を下ろすと、後ろから両腕を回して爛菊を抱きしめた。

「よく眠れたか」

「ええ。とてもね……」

 千晶は訊ねると背後から爛菊の首筋に口づけをする。

 爛菊も自分を抱きしめてきた彼の腕に手を当てると、口づけをしてきた千晶に首筋を晒す。

 昨夜ついに爛菊は、人間に生まれてからは処女である己の肉体を、千晶に委ねた。

 彼の温もりに抱かれ迎えた二百年ぶりの性愛に、爛菊はまさに全身で受け止めて共に眠った。

 捧げた操は痛みを伴うものではあったが、真に愛する男に与えることができたのは爛菊にとって本望だった。

 千晶が人に生まれ変わった自分を見つけてくれなかったら、爛菊は危うく枯れ果てた老人、嶺照院忠吉れいしょういんただきちに奪われるところだったのだから。

 だが同時に、おかげで爛菊は全てを思い出した。

 今までバラバラだった記憶を全て。

「爛は……爛を殺したのは、(つかさ)様だったのね……」

「思い出したか」

「ええ。だから雲外鏡に異界へ飛ばされた時、人狼国で司様は投獄されていたのね」

「そうだ。お前が死んでずっと、あいつは牢獄にいる」

「司様は、身分の低い爛を嫌っておられたから……」

「もうそんなこと、気にする必要はない。もう少しで爛菊、お前は完全な人狼に戻れるのだから。その時は、改めてお前を正式な人狼皇后に迎える」

「ええ。千晶様……」

 答えてからゆっくりと体を千晶へと向けた爛菊の表情は、どこか不安げだった。

「今度こそ俺が全力でお前を守る爛菊。その為に俺はこの人間界へお前を迎えに来たのだから……」

 千晶は彼女の頬に片手を当てると、そのまま爛菊の口唇に自分の口唇を重ねた。




「何……? 水瓶の華が色づいただと……!?」

 犬神の(すめらぎ)狗威獣右衛門白露いぬいじゅうえもんはくろが寝起きに家臣から聞かされたのは、それだった。

 同じ布団で隣に寝ている全裸の女そっちのけで、白露は長襦袢(ながじゅばん)を取り上げると着込みながら、その華を飾っている部屋へと足早に向かう。

 十畳ほどの広さがある寝所を出て廊下を右に進み、間にある部屋を四つほど抜けると土間がある。

 その土間の中央に、人一人がすっぽりと収まるくらいの大きさをした水瓶があり、中にはひたひたに水が湛えられて水面には華が浮かんでいた。

 一見すると蓮のようにも見えるが、華は薔薇に似ている。

 今はこの華が淡いピンク色に染まっているが、元々は汚れない真っ白な華だったようだ。

 人間界には存在しない華だ。

挿絵(By みてみん)

「確かに、色づいている……」

 白露は呆然とした様子で呟く。

「つまりこれは、爛菊が処女を失ったと言うことか!」

 語尾に至る頃には怒気を含んでいた。

 この華は、爛菊の肉体の変化と同調していた。

 この華の色の変化で、爛菊の純潔さを現す存在だった。

 白露は司が爛菊を殺めた直後、魂を捕らえて二百年かけて爛菊の人狼の記憶と力を排除させ、人に転生させるのにこの花弁を一枚用いた。

 爛菊の産みの母親に花弁と爛菊の魂を宿らせた。

 人の世界では“人工授精”とされているが、実は爛菊を産みの母親の腹に宿らせたのはこの白露だった。

 人狼国の帝、千晶の目をくらませる為に人へと転生させたのだ。

 そしてゆくゆくは爛菊の処女を白露が奪うことで人狼の力を覚醒させて、犬神と人狼――大神――の血を混血させた子を産ませる計画だったのだ。

 全ては白露が大神の力を手に入れる為だった。

 犬神信仰者である、嶺照院忠吉の元に隠し育てさせて。

「己、よくもこの白露が二百年に渡り練った計画を無に帰すとは!! 赦さん!!」

 白露は怒鳴るや否や、片手を振り下ろし水瓶を叩き割った。

 水瓶は呆気なくやすやすと、しかしながら派手な音を立てながら砕け、中の水が土間に溢れ出る。

 華も水と一緒に白露の足元に流れ着いた。

 だが白露は、その華を無残にも踏みにじる。

「爛菊の処女が失われたのならこの華など、もう必要ない」

 毒を含んだ声で呟くと白露は、素早く踵を返した。

「行くぞ」

「はっ!」

 土間を出た白露に、控えていた家臣は頭を下げ、先を進む彼の後を追う。

 そして鏡の間に着くや、白露はその姿見ほどの大きさをした鏡の表面に手を当てた。




 嶺照院邸――。

「美味しいですか? 旦那様」

 居間で朝食中の忠吉と爛菊の二人だったが、車椅子の忠吉の食事はほぼ流動食で、それを妻である爛菊がスプーンで食べさせてあげるのが毎食の日課となっていた。

 正直、ここまで弱っているのに爛菊が二十歳になったら抱くなどと抜かしているが、本当に後二年も持つのだろうかと思われた。

 だが実際は忠吉はただの、白露の目くらましに過ぎないことはこの時、まだ誰も知る由もなかった。

 爛菊が成人を迎えた暁には、白露に献上する仕組みになっていることも。

 そう。犬神信仰者である忠吉は、その為だけに爛菊を引き取っていた。

 表向きは年の差夫婦を装って。

 そんな中で、部屋の頭上が突然鋭い光に覆われた。

 爛菊は素早くそちらへと顔を向ける。

 そこには神棚が飾っており、中央に置かれている神鏡から放たれた光だった。

 同時に、禍々しい妖気が室内を立ち込める。

 爛菊はスプーンを放って壁を背に身構えた。

「嶺照院!! 一体どういうことだ!!」

 その怒声とともに姿を現したのは、犬神族の皇である白露だった。

「は……っ! 犬神様……!!」

 忠吉は白露の剣幕に車椅子の上で仰け反る。

「貴様に預けておいた爛菊に、一体何をした!!」

「わわわわ……私めは何も……!!」

 痰を絡んだようなしわがれ声で、忠吉は震え上がる。

「嘘を申すな!」

「いいえ! 本当に私には何のことやら……!!」

 憤怒の形相の白露に、忠吉は顔面蒼白にする。

 一方爛菊は、無言のまま背にしている壁に張り付くようにして、白露を警戒した目で睥睨していた。

「爛菊はずっとこの屋敷におりました犬神様! 今も私めに朝食を食べさせてくれておりました!!」

「朝食を……? ではなぜ爛菊の純潔は失われたのだ!!」

「純潔が、ですと……!? ど……どど、どういうことじゃ爛菊!?」

 忠吉の言葉に、白露はゆっくりと背後の爛菊を振り返る。

「おや……爛菊。いたのか……」

 彼女に気付いて白露は、急に声を穏やかにさせる。

「お前の処女を奪ったのは、誰だ? 爛菊」

「……」

 訊ねる白露に、爛菊は無言を返す。

「ふ……まぁいい。予定は少々狂ったが、別にお前が俺の……いや、我の子を産めなくなったわけではない……」

「……!?」

 白露の言葉に、爛菊は眉宇を寄せる。

「我の元へ来い爛菊。そして嶺照院。貴様にもう用はない」

 白露は冷ややかな口調で述べたかと思うと、忠吉へと鋭い爪を振り下ろした。

 刹那。グラリと忠吉の頭が揺らぐと、その頭は胴体から離れゴトンと床の上に転がり落ちた。

 車椅子には頭を失った胴体がグッタリとなり、首からおびただしい量の鮮血を噴き出している。

「さぁ爛菊。お前を転生させたのはこの我だぞ。処女を失ったのは残念だが、これでお前は前世の記憶と力を取り戻しただろう。人狼の帝に気付かれる前に、我とともに来い。犬神の国へ……」

 白露は爛菊へと手を差し伸べる。

 だが直後、ピクリと白露の眉間が動く。

「……――貴様……誰だ。爛菊ではないな!?」

 これに爛菊は不敵な表情でクッと口角を引き上げる。

「ふん……まさか犬神が関わっていたとはねぇ」

 爛菊の姿が揺らいだかと思うと、そこには紅葉(もみじ)が立っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ