其の佰肆:二百年後
「生け贄、だと……!?」
千晶が驚愕の表情で牢の中にいる司へと、顔を向ける。
「そう言えば……然様なことを申されておりましたな、司様。一体どういう意味なのか、ご説明頂けますかな」
無表情ではあったが、朧の漆黒の双眸には怒りがこもっていた。
「いちいち説明はいらねぇだろう。事実、この人狼国から祟り地は消滅した。その為にあの女は立派に役目を果たしたんだ。ただの田舎娘でも少しは役に立つもんだな――」
「司ぁぁっ!! 貴様よくも……っ!!」
ついに千晶は怒気を露わにすると、牢に両手を突っ込み司の胸倉を掴んで乱暴に引き寄せた。
「兄者がだらしねぇからだ! あんな身分の欠片もねぇ女にフラフラしやがって! 兄者にはしっかりして欲しかった! この国の惨状にもっとよく目を向けねぇからだ!!」
「お前が心配しなくとも! 俺は俺のやり方でこの国を見ていた! これから行動を起こす予定を――!!」
「手遅れなんだよ! 兄者の動きでは!! 迅速さが足りねぇんだ!!」
二人は牢を間にして怒鳴り合う。
「俺が慎重すぎてこの結果であれば! もうお前の気はさぞかし済んだことだろう!! ……――司。貴様にもう用はない。簡単には殺さん。生涯この牢獄で生きて朽ち果てるがいい!!」
千晶は憤怒の形相で吠えると、牢越しから司を力一杯突き飛ばしてその場を立ち去り始めた。
そんな千晶に、司は再び牢に飛びつくとしがみつきながら叫んだ。
「せめて新しい皇后を! 兄者!!」
だが一切これに答えることなく歩き去る千晶の後を、渚と朧も続く。
駆け付けた家臣はこの光景に戸惑いつつも、例え牢に入れられていても王弟。
中にいる司に一礼すると、みんなの後を追って行ってしまった。
独りこの薄暗く湿った地下牢に残された司は、暫し呆然としていた。
そんな彼の目から熱いものが流れる。
涙だった。
今まで誰にも見せることのなかった涙を、司は流していた。
「兄者……どうしてだ兄者……俺はただ、分かって欲しいだけなのに……だって皇后の証は――」
司は千晶との別れに、ひっそりと泣き崩れるのだった。
こうして人狼――大神国から祟り地は消え去り、疫病もなくなってあれだけ不穏な空気に満ち溢れていた国は明るさを取り戻した。
皮肉にも、爛菊の死によって。
以降、千晶は司への宣言通り皇后を迎えることなく独り身を貫いた。
皇后がいない環境は、王弟である渚が支え続けた。
朧もまた、然りだった。
そうして千晶は一切、司に顔も見せることなく二百年の時が流れたある日の事だった。
「……――爛菊……?」
渚と朧との食事中、唐突に千晶が味噌汁を片手にボソリと呟いた。
「え? 今、何とおっしゃいましたか兄上?」
「……」
訊ねる渚に、朧も無言で箸を止め、千晶へと視線を向ける。
「爛菊だ」
「何のことです?」
「……」
疑問の表情で更に渚は訊ね、朧もまた無言ながらも続きを催促する。
千晶は味噌汁を膳に戻しながら、どこを見るでもなく視線を泳がせている。
「これは、爛菊の匂いだ」
「匂い、ですか?」
「……」
千晶の言葉に、渚と朧はクンクンと空気を嗅いでみるが。
「残念ながら僕には感じませんが」
「某にも」
渚と朧はそう返答する。しかし。
「いや、間違いない。これは爛菊の匂いだ!」
千晶は箸を置くと徐ろに立ち上がった。
「后妃が転生されたとでも言うのですか兄上」
「ああ、そうだ! 俺はそれを信じて今までずっと、独り身を貫いたのだから!」
「爛菊様の匂いの元がどこからなのか、見当はついておいでで?」
渚の問いに答える千晶へと、今度は朧が抑揚のない低い声で訊ねる。
「いや……今から元を辿ってみる。国内ではないのは確かだ」
「では、国外……」
千晶の言葉に渚は呟くと、自然と朧と目を合わせた。
無表情ながらも長年の付き合いだ。
朧の目には怪訝な色が浮かんでいる。
渚は、おそらく考えていることは自分と同じだと確信した。
「行ってくる」
千晶はその一言を残して、部屋を出て行ってしまった。
「……どうしますか朧」
「転生したのが別の種族の妖ではないことを祈るばかりですな」
「本当に、そのとおりですよ」
そうして渚は食事を再開する。
朧は内心、焦燥感に駆られていた。
表面には一切出しはしなかったが。
千晶は爛菊の匂いにすぐに気付いた。
それだけやはり、二人の距離は親密で濃厚だった証拠だ。
だが自分には、爛菊の匂いが分からない。
それは一方通行の恋だからなのだろうか。
クン……もう一度、意識して空気を嗅いでみたが、やはり朧には分からなかった。
爛菊様……。
二百年間封印していた、朧の爛菊への愛が微かに蘇った。
千晶の選んだ女であり妻であった爛菊ではあったが、朧は彼女に恋し、愛してしまっている。
そうでなければこの無表情で寡黙な漆黒の大男である朧が、二百年前の爛菊の死を目前にして涙を流したりはしない。
分かっている。
彼女が自分のものにならないことは。それでも。
自分が決して届かぬ距離に千晶がいることが、年甲斐もなく羨ましく思わずにはいられなかった。
金狼の姿になって千晶は、爛菊の匂いを辿って国外どころか異界をも出てしまった。
「……人間界……」
千晶は思いがけずに一瞬、呆然とする。
しかし気を取り直して千晶は進み始めた。
妖である千晶の姿は、人間には誰の目にも視えていない。
狼の姿のまま千晶は、改めて爛菊の匂いを辿って行く。
するとある場所に辿り着いた。
学校だ。
「昔で言うところの寺子屋か……?」
狼姿のまま千晶は呟く。
どうやら学校は中学校のようだ。
丁度、下校の時間だった。
校門を通過して、生徒用の玄関へと向かう。
周囲にはたくさんの生徒達で溢れていたが、誰も金狼である千晶の姿は視えていない。
校舎に入り、千晶は更に濃くなる爛菊の匂いを嗅いで進む。
辿り着いたのは、一つの教室だった。
中を覗くとそこには、かばんに教科書などを仕舞って帰り支度をしている爛菊の姿があった。
外見も二百年前そのままだ。
十五歳になった爛菊は、中学三年生として学校に通っていた。
「爛菊!!」
千晶は金狼の姿のままで彼女の名を呼んだ。
しかし、残念ながら爛菊には千晶の姿は視えておらず、声も聞こえていなかった。
それでも千晶は彼女の元へと駆け寄り、喜びのあまりパタパタと忙しなく尻尾を振った。
「爛菊! 会いたかった! どれだけこの時を待ち焦がれていたことか……!!」
直後、机から立ち上がった爛菊は、目前にいる千晶に全く気付くこともなく彼の妖である金狼の体をすり抜けてしまった。
ここで千晶はようやく気付く。
今、自分の体を爛菊がすり抜けたことによって。
「人……間……!?」
そう。爛菊は人間に転生していたのだった。
人の眼や耳では、妖である千晶の姿も声も認識できない。
思いもよらない衝撃に、千晶は思わず軽い目眩を覚える。
こんなに二百年もの間、爛菊の転生を求めてその魂を探し続けていた結果がこれだった。
とりあえず我に返った千晶は、爛菊の後を追った。
自分の姿が視えない爛菊の後ろを、千晶はトボトボと付いて行く。
彼女は前世と何ら変わることのない、爛菊そのままだ。
ただ、人狼ではなく人間になってしまったという違いなだけ。
正直、千晶はどうすればいいのか分からなかった。
人狼――大神の帝である千晶なら、実体化して爛菊に目視させることもできるが、わざわざそうしなければ爛菊から気付いてもらえないショックの方が大きかった。
人間になってしまった彼女を、大神である人狼族の皇后として迎えることはできない。
ただでさえ生前、身分がないという理由で彼女は司に殺されたのだ。
ましてや人の子と成り下がってしまった爛菊を、皇后にするとなれば人狼族全てから反感を買うだろう。
これだけ待ったのに、人の子に生まれ変わってしまった爛菊。
千晶にとって、これ程の残酷な現実はなかった。
校門に到着すると、黒塗りの高級車が止まっていた。
「お疲れ様です、爛菊様」
運転手が彼女に頭を下げて、車のドアを開ける。
これにふと、千晶は奇妙な違和感を覚えた。
無表情でまるで日本人形のような爛菊は、無言で車の後部座席に乗り込む。
これを確認して運転手はドアを閉めると、運転席に乗ってエンジンをかけた。
金狼姿の千晶は車の屋根に飛び移る。
爛菊……人の子として転生しても彼女の名前が同じであることを不思議に思う中、爛菊と千晶を乗せて車は発進した。