其の佰:草木も眠る丑三つ時
「毎度毎度ご苦労なことだなジジイ」
「……」
湿った地下牢獄の中、囚われの紅髪の男が端を発するが、相手の全体的に漆黒の男は無言を返すのみ。
「死に損ないの分際で未だ力衰えねぇ辺りが胸くそ悪ぃ」
「……」
紅い男の言葉に漆黒の男は相変わらず無視したまま、黙々と牢の結界をより強固に張り直していく。
「最近では皮肉なもので、てめぇが唯一の話し相手になっちまってんよ」
これに漆黒の男は手を止めると、紅の男へと漆黒の双眸を向ける。
「こちらとしてはそなたの話し相手とは不愉快極まりない。話しかけないでもらおう」
漆黒の男は地の底から轟くような低い声で、無表情ながらもようやく口を開く。
「ケッ! “そなた”呼ばわりとはな。てめぇ一体、何様のつもりだ」
「罪人に身分などない」
すると結界の牢獄越しに紅の男は肉薄してきた。
「罪人じゃない。改革者だ」
これに漆黒の男は眉宇を寄せたかと思うと、結界に手を当てる。
同時に、その部分が内側へと弾け、紅の男を牢獄の奥へと吹き飛ばした。
紅の男は奥にある岩肌に叩きつけられて、地に落ちる。
岩肌から滲み出た山水が雫となって手のひら大の水たまりをを作っており、落下した紅の男を受け止めて水しぶきを放つ。
「……両手両足を縛られないだけでも良しとしてもらいたいものだが、それ以上軽口を叩くと猿轡も付け加えるが?」
「クックック……ヒャッヒャッヒャッヒャ……!!」
紅の男は湿った土の上に崩れ落ちたまま、黒毛の尻尾を大きく左右に振る。
結界を張り直した漆黒の大男の方は、そんな彼の様子を不快げに灰色の尾を一振りすると、もう何も言わずにその場を後にした。
遠ざかっていく足音はやがて、すっかり聞こえなくなった。
耳を澄ましていた紅の男の黒い獣耳も、興味を失ったかのように正面に戻る。
また静けさが迫ってくる中、ピチョンと水滴の音がやけにはっきりと響いた。
“……、……さま”
小さな囁き声が聞こえた気がした。
「誰だ」
紅の男は誰にともなく尋ねる。
“司様。霞でございます”
「かすみ?」
“はい。長らくご連絡できずに申し訳ありません。この度、例の二人に我が式鬼がようやく反応したのでご報告を”
「……」
司は無言で思案しつつも、ふと手元にあった水たまりが淡い光を放っているのに気付く。
上から覗き込んでみると、水たまりの表面に一人の狩衣を着ている女の姿が映っていた。
「誰だてめぇ」
司は怪訝な表情で水面へと声をかける。
“は……、も、申し訳ありません。私は藤原の子孫にあたる、藤原霞と申します。人の世での陰陽師でございます。司様に仕えていた……”
「……ああ。俺を敬っていた虫ケラか」
“はい。司様の存在は、先祖代々語り継がれております。今こうしてお言葉を交わせて心から光栄に――”
「で、その虫ケラが今更何の用だ」
司は途端、興味を失ったかのように水面から顔を戻すと、岩肌に背凭れた。
“我々藤原家は、代々司様を人狼国の最高権力者として支持してきました。兄上であられる千晶殿よりも、司様の方が王座を就くに相応しいと”
「……へぇ」
司は無関心に答えながら、爪をいじっている。
“ですから我々も、チャンスを虎視眈々と狙っておりました。そしてこの度、千載一遇のチャンスが訪れ、我々の式鬼、犬頭が反応して千晶殿へと向かっていったのでございますが――”
「何だと……?」
“は。あいにく千晶殿の首は取れず――”
「勝手な真似してんじゃねぇ!!」
司は怒鳴るや、水たまりへと手を叩きつけた。
飛沫とともにヒッと言う声が続く。
「兄者は俺の物だ! この俺の許可なく命狙ってんじゃねぇよ!!」
“もっ、申し訳ありません!!”
波紋が広がる水面で、霞の顔が青褪める。
しばらく続いた沈黙の中で、司は何かに気付いたように肩を小刻みに揺らし始めた。
「クックック……! そうか。俺にはまだてめぇら虫ケラとの交流する術があったか。でかしたぞ霞とやら。よくぞこの俺へと声をかけた」
“はい……! お褒めに預かり至極光栄でございます!”
「だったらてめぇら虫ケラがすることはただ一つだ。俺が投獄されることになった目的を、次はてめぇらが達成しろ」
“かしこまりました!!”
そうして水面から光が消え、静けさを取り戻す。
「さぁて。あんな虫ケラがどこまでできるか分からんが……一縷の望みを託してみようじゃねぇか……」
司は口角を引き上げると、舌なめずりをしてその紅い双眸に鋭利な光を宿すのだった。
「司様から許可が出た」
壁代と呼ばれる垂れ布を払いのけて、縁側に片膝を突く形で控えていた別の人物に、彼女――藤原霞は声をかけた。
女にも関わらず、狩衣姿でその流れるように波打つウェーブロングヘアには烏帽子をかぶっている。
一方、縁側に控えていた人物は、巫女姿で黒髪を後ろ一つにまとめている。
「ついに司様と交流なされましたか」
ハスキーボイスの巫女が静かに口を開く。
「ええ。私達が見てきたのは全て見聞録のみだったけど、本物の司様のお姿を水鏡から見た瞬間、全身に電流が走ったわ。あの方こそ……やはりあの方こそが、帝であるのに相応しいと」
「霞様が確信を持たれたのであれば、間違いございませんでしょう」
するとスと霞が彼女の前に跪いた。
そして巫女の顎に指先を当てて持ち上げる。
「忙しくなるわよ綴。見失わないよう、しっかり私についてきてね」
「仰せのとおりに。決して霞様から離れはしない」
「約束よ」
霞は囁くように言うと、彼女を抱きしめる。
綴も、そんな霞をただ黙って抱きしめ返した。
夜。
雷馳と朱夏は親子水入らずで同じ部屋の、同じ布団で眠っていた。
やはり眠っている時は妖気も沈静化しているのだが。
……ガラガラガラ。
どこからともなく音が聞こえてきて、朱夏は目を覚ました。
時計を見ると深夜の二時を回っている。
どうやらその音は外から聞こえるので、放っておけば過ぎ去るだろうと思ったが、それ以外にも何やら不審な音が聞こえた。
メラメラ……パチパチ、という何かが燃えているのを連想させる音だ。
カーテンを閉ざしている窓をふと見ると、隙間から仄明るい灯りが見えた。
雷馳は何事もなく穏やかな寝息を立てて眠っている。
それを確認してから朱夏は布団から出ると、立ち上がって窓へと歩み寄りカーテンを少しだけ開けて外の様子を確認する。
すると道路をゆっくりとした動きで移動している、炎に包まれた片輪の牛車に女が乗っているではないか。
「あれは……」
朱夏が呟いた時、片輪車の女は真っ直ぐ朱夏を見据えて言い放った。
「我を見るより汝の子を見よ」
これに朱夏は布団へと振り返ると、雷馳の姿が消えていた。
「は……っ! 雷馳! 雷馳!?」
しかし返事はない。
朱夏は途端に憤怒の形相で窓を開け放つと、背中から翼を出現させて片輪車に飛びかかる。
「おのれ! 私の子を返せ!!」
「何!? 汝も妖怪か!」
片輪車は焦りを見せると、片手を振った。
手の動きに合わせて火炎が放射される。
だが朱夏は素早く避けると、突き出した手の平から石つぶてを撃ち放つ。
「雷馳は、私の子はどこ!? 早く返しなさい!!」
女は無数の石つぶてを受けて、慌てて炎の中に隠していた雷馳を解放する。
これでようやく雷馳は目を覚ましたらしく。
「……誰じゃお主」
「あ、えっと、我はただの通りすがりの者で……!」
しかし賺さず朱夏が声を上げる。
「妖怪、片輪車よ! あなたを私からさらったの雷馳!!」
「そうか。じゃったら」
雷馳は目をこすりながら、巨大な放電で片輪車を包み込んだ。
「キャアアアァァァー!!」
女は悲鳴を上げると、炎の渦となって夜の空へと逃げ去って行った。
それを見送りながら雷馳が大きな欠伸をするのを見て、朱夏はようやく落ち着きを取り戻す。
「あんな低級妖怪の妖力は爛菊さんもきっと要らないわね。さ、寝ようか雷馳」
「ん」
朱夏の言葉に雷馳は短く頷いてから、一緒に家へと戻った。