其の拾:黄昏の空に浮かぶ満月
こうして、千晶の下働きである猫俣景虎鈴丸が爛菊の通う法人学園の生徒として入学する事になった。
千晶が担任である爛菊のクラスだ。
学校ではだるそうに見せている教師姿の千晶が、更に面倒そうに見える。
「皆さん初めまして。猫俣鈴丸です。好きな食べ物は魚、好きな遊びはボール遊び、趣味は小動物観察です。宜しくお願いします」
普段のチャラい鈴丸にしては至って妙に真面目な自己紹介で、爛菊は感心すると共に内心密かに思った。
小動物観察じゃなくて捕獲でしょ。
事実、鈴丸は小鳥やトカゲ、カエルやネズミなどを捕まえては、自慢げに千晶や爛菊に見せに来て、結局その二人からせっかくの戦利品を捨てられてしまっていた。
茶髪で金と青のオッドアイだが端整で童顔な鈴丸に、クラスの女子から小さな歓声が見て取れた。
アイドル系の鈴丸はしっかりと女子の心を鷲掴みにしたようだ。
これで今後の彼のスクールライフは不足なしの満ち足りたものになるだろう事が保障された。
女子からオッドアイの理由を聞かれてはアルビノだと鈴丸は誤魔化し、ボール遊びが好きなだけあって男子からも、サッカーやバスケ、ハンドボールなどを得意とする彼は誰からもの人気者になった。
だがちなみに、卓球だけは苦手だった。
なぜならその小さなボールがピコピコと跳ねる様子に、思わず鈴丸はそれに飛びついてしまってゲームにならないからだ。
何にせよ誰にでも変わらず気軽に笑顔で無邪気に接する鈴丸の人気は、学校ではすっかりうなぎ上りとなった。
しかも普段から千晶の下働きをしているのもあって、掃除や家庭科の授業も器用にこなす彼は、文句なしにパーフェクトな存在となった。
そんな中でも鈴丸は極力、爛菊の側にいた。
なので周囲の女子から二人の仲を疑われても仕方がなく、ある日一人の気の強い女子生徒が大衆の面前で仮にも嶺照院の力を持つ爛菊へ堂々と声高に言い放った。
「人妻のくせして猫俣くんと一緒に常にくっついているなんて、まるで不倫ね! 汚らわしい!!」
これにクラス中が静まり返り驚愕を露わにする。
それまで賑わっていた教室の片隅で一人、何をするでもなくポツンと座っていた爛菊はゆっくりとその女子生徒の方へと顔を向ける。
そして声を張るでもなく抑揚のない言葉を静かに爛菊は零した。
「だって彼、わたくしの下僕だもの」
「えっ」
意外な返事に女子生徒は、何かに気付いたようにハッと息を呑み、目を見開いた。
「そ! 僕は彼女の付き人兼下働きでっす!」
突然背後からかけられた言葉に女子生徒が素早く振り返ると、トイレから戻ってきた鈴丸が笑顔で手を振っていた。
本当は千晶の下働きではあるが、爛菊と千晶の関係上彼女にとっても鈴丸は同じ立場となる。
だがてっきり嶺照院から派遣されてと判断したこの女子生徒は、顔面蒼白になって大慌てで爛菊へと口走った。
「でっ、出過ぎた真似をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした! 失礼します!!」
深々と頭を下げ、やはりこの学校内一の権力者である爛菊に対して感情的になってしまったことを心から後悔を覚えつつ、彼女は逃げるようにこの場を後にした。
ちなみに和泉の言葉通り、今まで人間として生まれてからは視る事のなかった妖怪の姿が、爛菊の目にも視えるようになった。
どこもかしこにもいるそれらの物の怪は、所詮妖力の低すぎる小物であったしこちらが構わなければ向こうも構わないという別段これといった害もなく、人狼の頃の記憶が戻っているのもあって爛菊は特別驚いたり怯えることはなかった。
ある日の事。
「おっ買いっ物~、おっ買いっ物~。ねーねー、ランちゃんも一緒にデパート行かない?」
鈴丸がしっかりエコバックを片手に本宅のリビングで寛いでいた爛菊に、キッチンからスキップしながらやって来ると彼女を誘った。
これに目ざとく反応したのは千晶だった。
「あまり気安く俺の爛菊を誘うな。爛菊、行かなくていいぞ。ここにいろ」
「……爛は別に構わない」
寧ろ少しでも多く外出して、妖力を得られるチャンスを活かすべきだと思うからだ。
「そ、そうか? まぁ、確かにそうだな……俺は学校のデスクワークをしなければいけないから一緒に行けないが大丈夫か?」
千晶は爛菊のあっさりした反応に、少しだけ残念そうに訊ねる。本当ならここで「千晶様も」と甘えて欲しいのが彼の本音だ。しかし。
「平気。大丈夫。行きましょうスズちゃん」
そう述べた爛菊の相変わらずあっさりした様子に、少しだけ千晶はすねてしまった。それを他所に鈴丸は両手を上げて飛び跳ねる。
「ヤッター! ランちゃんとお買い物デートだー!」
デートという言葉で更に敏感に反応する千晶。
「鈴丸! お前――!」
ソファーに座っていた体勢から中腰に上げた千晶に、鈴丸は軽い口調で言葉を遮る。
「分~かってるって! もぅ、ホント、アキは心配性なんだから。別に変な事しないよ」
「心配ではない。お前を疑っただけだ」
大人気なく反論する千晶に、鈴丸は半ば呆れながら一言だけであしらう。
「あっそー。じゃ、行こ行こランちゃん」
「ええ」
こうして爛菊は鈴丸と一緒に、買い物へとデパートの地下街に出かける事になった。
「こんな風にのんびりと出かけられるのは、人間に生まれて初めて」
「え? そうなの?」
先に口火を切った爛菊に、鈴丸が驚いた様子で尋ねるのをコクリと彼女は頷く。
爛菊と鈴丸は、歩行者が行きかう歩道を二人一緒に歩いていた。
「千晶様に助け出されるまではずっと、何だかんだのお稽古事などで室内にこもりきりで、移動も全て車だったの。窮屈で、本当に息苦しい生活だった」
「そうなんだ。辛い思いをしたんだねランちゃん」
鈴丸は爛菊の話に同情を覚える。
「でも今はもう本当に人生が楽しいと思える。こんな解放感、とても嬉しい」
「大体耄碌かかったジジイだったんでしょ? それがランちゃんほどの若さの子を妻にして尚且つHまで持ち込もうとするなんて、ロリコン以前にもう超変態じゃん」
二人は言葉を交わしながら、角を曲がって人通りの少ない道に出る。
「だけどスズちゃんも百歳超えてるのに人間の女の子をナンパしてる」
「何言ってんの! 僕の場合は青春のスキンシップだよ! しかもたかが百歳超えていても妖怪の世界じゃまだまだただの若造だよ」
確かに鈴丸は外見的にも若さで満ち溢れている。
勿論三百二十七歳である千晶も負けてはいない。
時間はもう六時半過ぎで、日没を迎えて空は紺碧色になり、周辺もそれなりに暗くなっていた。
「ランちゃん、ここ、ここの公園を突っ切ると近道なんだ。行こ!」
そうして二人は公園の敷地内へと足を踏み入れる。
時間帯的にも、もう子供も遊んでおらず他にも誰もいなくて閑散としていた。
唯一街灯だけが静寂の園内を仄かに照らしている。
公園の周辺道路はやはり昼間子供が遊ぶ場所なだけあって、小さく狭い一方通行の道路になっていて表にある大道路と比べて車の通りも少ない。
人もまばらに歩いているだけで、タイミングによっては人通りがなくなることもある。
だがしかし、今夜は妙に体が火照っている。
昼間はそんなことはなかったのに。
風邪でもひいてしまったのかと、爛菊は自分の額に手を当てて体温を確認してみる。
すると突然、鈴丸が声をあげた。
「あ!」
「え?」
それに鈴丸が遠くの低い空を指差す。
「見て見て! 月が出てるよ! まだ月の出だけあって低い所にある月は一際大きく見えるね。しかも綺麗な満月だ。今夜は僕、猫の集会に出なくちゃいけないんだ。猫の集会は大概満月の日にあってね……って、あれ? ランちゃん?」
鈴丸は歩きながら喋っていたが、ふと隣を見ると爛菊がいないことに気付く。
「……?」
背後を振り返ると、そこには数歩後ろで立ち止まっている彼女がいた。
――何かが、おかしかった。
「どうしたのランちゃん?」
けれど最初、何がおかしいのか分からなかった。
大きく目を見開いて低い空に浮かぶ大きな満月を凝視している爛菊に、鈴丸はキョトンとした表情で離れた場所から首を傾げる。
爛菊の凍りついたように微動だにしない体。
そして、その姿に透け始める異様な気配……。
「グ……ググ……ガ、ァ」
爛菊は徐々に炎をまとったように熱くなる体に、だんだん自分の意識が薄くなる。
喘ぐような呼吸と漏れ始める獣の唸り声。
ぞくり、と鈴丸の背を襲う寒気。
やっと認識を追いついてきた。
その、あってはならない異常性を――。
「ガアァァァァ!!」
そうして爛菊はその美しいまでに腰までの長さで真っ直ぐに切り揃えられている黒髪を、両手で掻き乱し始めた。
「ランちゃん!?」
そして体をくの字に曲げて悶え苦しむと、見る見るうちに爛菊の容貌が変化し始めた。
「うっそ! マジで!? うわちょっと待って! マジヤバイ! そんなまさか! アキ、アキに電話しなきゃ!!」
衣類は裂け、毛むくじゃらの体躯が現れたかと思うと、ついにはすっかり狼の姿に変身して爛菊は、携帯電話を耳に当てている鈴丸を残してどこぞへと駆け出して行ってしまった。