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其の壱:白梅に込められた願い



 広大な和風庭園。

 今の時代には珍しい、もはや貴重文化財とも呼べるその古風な趣きある立派な屋敷。

 敷き詰められた砂利に複数の川石による石組が見渡せる部屋。

 そこから鈴の音が響いた。

 これに答えるように使用人の中年の女がすり足で素早く縁側の廊下を駆けて来ると、一つの部屋の前で跪くや閉ざされた障子越しから声をかける。

「はい、ご当主様。ご用件は」

 すると障子の向こうから、しゃがれて痰が絡んだような声が聞こえた。

爛菊(らんぎく)は――爛菊はまだ戻らんか……」

「はい、奥様でしたら只今お戻りになられ、現在衣装を着替えておられます」

 腰を折り身をかがめた姿勢で使用人は答える。

「呼び寄せるんじゃ……早ぅ我が愛する妻の顔が見たい――」

「今少しお待ちを――あ、いらっしゃいました」

 使用人が気配に気付いて顔を上げると、廊下の奥から美しい振袖の着物に漆黒の髪を腰まで伸ばし、前髪も後ろ髪も直線に切り揃えられた生きた日本人形のような女が、しんなりと姿を現した。

 いや、女と呼ぶにはまだ幼さの残る、うら若き少女。

 つぶらな陶器のような黒い瞳に、紅梅の花が差したようなぷっくりと愛らしい口唇。

 整った柳眉(りゅうび)に長い濡れたような睫毛とはっきりとした花瞼(かけん)。そして高さのある鼻梁(びりょう)に真っ白い肌。

 しかし、表情は死んだようにない。

挿絵(By みてみん)

 本当にまるでただの生き人形――心を持たぬカラクリのような乙女だった。

 少女が障子の前に膝を折り、三つ指をついて頭を下げたのを見計らって、使用人は音を立てずにそっと障子を開ける。

「只今この爛菊、学校から戻って参りました。旦那様」

 か細く、力のない声。

 すると車椅子に腰掛けた一人の痩せ細った老人が、その枯れ枝のような腕をゆらりと持ち上げて、少女へと手招きした。

「おお、帰ったか。待ち兼ねておったぞ。早ぅ近ぅ」

 老人に呼ばれて少女はゆるりと立ち上がると、すり足でその老人の元に歩み寄ってその脇に、改めて跪く。

 これに老人は少女の白魚のような手を取ると、まずは片手で擦りそして今度は頬擦りをした。

「ああ、愛するわしの可愛い妻よ。日に日に美しくなるなお前は」

「旦那様。いつも待たせてばかりで申し訳ありません」

 少女は相変わらず無表情のまま、まったく抑揚のない声で言った。

「構わん、気にするな。あと三年の辛抱じゃ。お前が成人を迎えた暁には、しっかりとその清らかな体を愛でてやるからな」

「はい、旦那様。わたくしはあなた様の妻――」

 爛菊と呼ばれた少女は囁くようにたおやかな声で答えると、老人の膝の上にそっと頭を寝かせる。

 こうした少女の頭を、夫と言うその老人は震える手で大事そうに撫でるのだった。




 その日の夜は美しい上弦の月だった。

 まだ肌寒かったが爛菊は中庭に出ると、月明かりに任せて広い庭園を散歩がてらに鑑賞していた。

 一月末から蕾を付けた梅の花は少しずつ綻び始め、夜の澄んだ空気に広がり馥郁(ふくいく)と香るのが心地良い。

 唯一、爛菊が心落ち着き安らげる時間だった。

 誰にも邪魔されず、たった一人でくつろげるひと時。

 本当の自分に戻れる瞬間。

 しかし生まれて間もないうちに、この屋敷に引き取られるのは決定していたことらしく、時には厳しく指導される行儀作法、大和撫子たる日本女としての嗜み。

 自由な心は奪われ、子供らしい遊びの代わりにお稽古事ばかり習わされる幼少時代。

 そして迎えた十歳の正月に、それまでずっと独身だったこの屋敷の当主と政略結婚をさせられてから、彼女はすっかり心を閉ざしてしまう。

 やがて十六歳になった時に、婚姻届と共に盛大な婚礼の儀式が行われ、高校に通いながら今に至る。

 自分自身の意思は全てに於いて封じ込められていた。

 初夜は当主の取り決めで成人になってからと約束されていたので、当然彼女は清らかなる乙女だったが。

 内心そんな自分の立場を爛菊は憂いていた。


 自分だって他の女子高生みたいに自由な時間を過ごし、自由な恋をしたい。

 あんな枯れ果てた老人にこの身を捧げるのは嫌。

 だったらいっそう――獣にでも身を捧げた方がまだいい……。


 爛菊は庭園に流れるせせらぎに、指先を浸しながら内心密かに呟いた。


「その言葉、確かか」


 途端に耳元で聞こえた、静寂に溶けるような艶のある男の声。

 爛菊は驚愕し身を竦めて周辺を見渡す。

 しかし姿は見えない。

 ただ、ひっそりと静かな息遣いだけが聞こえる。

「誰……?」

 爛菊は小さく夜の庭園に声をかけた。

 すると男の声がすぐに答える。

「俺は(あやかし)、そして獣なる者。女、お前は今宵の月夜を恐れるか」

 “妖”と言われて耳を疑うもそれでも声は、まるですぐ傍にいるかのように直接耳元に、囁き響く。

 爛菊はしばらく黙考した後、無表情のままゆっくりと頭を横に振った。

「いいえ。今このひと時の方が唯一、わたくしが心安らげる刻。もっとも私が安心し落ち着ける。だから恐れるよりも穏やかな気分でいられる。人生で一番大好きな時間……」

 姿なき相手との会話に、なぜか冷静でいられる自分に心のどこかで不思議に思いつつ、自分の本音を素直に告白できる今の状況が爛菊にはどうしたことか心休まる気さえ覚えていた。

「今お前が口にした言葉――狂言かそれとも――」

「本心……だと思います。わたくしはもうこんな窮屈な生き方は嫌なのです。わたくしも相応の人生を楽しみたい。あんな老人に抱かれる将来を指折り数えて過ごす毎日はただ苦痛なだけ――」

 爛菊は囁くと、そっと一筋の涙を流した。

 するとその涙を生温かい何かが触れたかと思うと、舐め上げるように拭った。


 ――犬……?


 しかしやはり姿は見えない。

「ならば女。証明を寄こせ。俺と約束を交わしたという証明になる物を。そしたらお前に自由をやろう。その引き換えに、俺の女になれ。この月夜の元で生きる妖なる獣の女に。どうだ。ここまで聞いてもその心、まだ折れないか」

 すると爛菊は頭上にあった白梅の小枝を手折ると、姿見えぬが自分の目前へとそれをそっと差し出して、首肯する。

「変わりません。本当にわたくしの人生が自由となれるのなら……」

「約束しよう。後日、その純潔なる乙女を貰い受ける」

 声と共に爛菊の手からその白梅の小枝は消えるようにして、その声の主に取り上げられた。

 そして一陣の風と共に声も気配も掻き消えた。



 爛菊は今しがたのやりとりがまるで夢だったかのように、ぼんやりとしながら自分一人だけの部屋に戻ると、畳の上に敷かれた布団に横になった。

 するとどこか遠くから、小さな遠吠えが彼女の耳に届いた。

 それを合図かのように、爛菊は意識を失うようにして眠りに落ちていった。




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