貴族と庶民【3】
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「──ぃぇっぶしゅっ!」
「風邪かい?」
一階に酒場、二階に宿と。寂れた安宿を経営する好々爺の亭主が、朝食のパンとコーヒーをカウンターに並べ置きながら尋ねる。
ジーンズに白いシャツ、その上に羽織った古ぼけたジャケット。銀髪で無精ヒゲの男──クルドは、くしゃみでむず痒くなった鼻を指で擦りながら答える。
「風邪かもな。この三日間ずっと風通しの良い留置所に入れられていたし」
クルドの隣からスッと伸びる女性の手。カウンターに置かれたパンをさりげなく取りながら女性が会話に割り込んでくる。
「あんたが貴族の家に不法侵入するからでしょ」
そのまま女性はパンを口へと運んだ。
クルドが半眼になって女性を見やる。
癖のある長い朱髪を後ろで一つに束ね、好奇心旺盛な赤い瞳を持つ活発そうな女性──キャシー。お決まりの単眼鏡を首にかけ、丈の短いスカートと露出度の高い開襟シャツでよくこの酒場に現れる。
クルドはそんなキャシーの口からパンを奪い取った。
「返せ。これは俺のだ」
「あ、ちょっと! 何よケチ。誰が留置所から出る手続きとってあげたと思ってんの?」
「お前がぶち込んだんだろうが。毛布ぐらいよこせ。昨夜は木枯らしが吹いて凍え死ぬかと思ったんだぞ」
「あら。私のハンカチ貸してあげたじゃない」
「ハンカチで何が温もるというんだ?」
「……」
キャシーの目が潤むように同情の眼差しへと変わる。クルドを見つめて「ふぅ」とため息を落とし、
「そうね。よく考えてみたらあなたの中で温もるものなんて何もないものね」
「心がある」
「無駄に生命力があるってのも罪ね」
「もういいから帰れ」
「嫌よ」
急に態度を変えて、キャシーは不機嫌に顔をしかめるとクルドからパンを奪い取って指を突きつけた。
「だいたいあんたが役人に捕まるようなことをするからいけないんでしょ! 庶民が役人に捕まるなんて相当な大罪よ!」
クルドはハエでも追い払うかのように面倒くさそうに手を振った。
「あーはいはい。悪かった。反省している。もうわかったから帰れ」
「嫌よ」
「暇なのか?」
「暇じゃないわよ」
「じゃぁ帰れ」
「い・や」
「…………」
クルドは重いため息を吐くと、反論を諦めてカウンターに置かれたコーヒーを口へと運んだ。飲む前にぼそりと、
「どーせ暇なくせに」
「暇じゃないって言っているでしょ!」
「──ぶほっ!」
後頭部を叩かれ、クルドはむせるように咳き込んだ。
そんなクルドをよそにキャシーは言葉を続ける。
「あんたは昔からいつもそう。常識ってものが欠けているのよ。庶民が貴族の私有地に無断で侵入することは大罪よ。頭がイカレているとしか思えないわ」
「しつこい女だな。もう釈放されたんだからいいじゃねぇか」
キャシーはクルドの片耳を思い切り抓り上げた。
「痛ててててッ!」
「いい歳した大人なんだからもう少し真面目に反省したらどうなの!?」
「わ、わかった! わかったから離せって!」
クルドの耳を離して、キャシーはポケットから四つ折りの紙を取り出すと、それを広げてカウンターに叩き付けた。
「今回の件で誰に一番迷惑をかけたのか、これを見て反省するといいわ!」
「……」
クルドは面倒くさそうにその紙を手に取ると、頭を掻きながらその紙をジッと見つめた。しばらくしてそれをキャシーに付き返す。
「俺に字が読めると思うか?」
「もう!」
キャシーは苛立たしくクルドから紙を奪うと、書名された場所をしつこく何度も指で示した。
「あの子よ、あ・の・子! クレイシス殿下よ! これがなかったら今頃あんたはあの世に逝っているところなんだからね!」
言葉を流すようにクルド。
「へぇ」
「何その暢気なコメント!」