正義の見方【1】
月を覆っていた雲が晴れ、皓々とした月の光が部屋に差し込む。
エミリアは窓辺でその月を椅子に座って、ただじっと見つめていた。
下流貴族が住む区域のその一画──見知らぬ貴族の家の中。
月明かりと手燭一つの明かりだけで満たされた薄暗い部屋に、エミリアとティムは居た。
この屋敷の住人は不思議と誰の姿もない。ティムの話によると、住人は国外へ出掛けていて留守なのだという。
エミリアは退屈そうに欠伸をした。
ちらりと横目でティムを見つめる。
この屋敷に来てからティムはいつもこうだ。ずっとキャンバスに筆を走らせている。
会うたびにその繰り返し。
エミリアは視線を窓へと戻し、浮いた足をぶらつかせた。ため息を吐いてティムに尋ねる。
「ねぇティム。さっきから何を描いているの?」
ティムはキャンバスから顔を上げ、やんわりと微笑む。
「秘密。仕上がったらわかるよ」
「最近会ってくれなかったのはこれが理由? ティムっていつからこの家の専属画家になったの?」
「半年前だよ。運河で絵を描いていたらラーグ伯爵様がお声を掛けてくださったんだ。どうやらコンクールに出した僕の絵をとても気に入り、それでわざわざ会いに来てくださったんだとか」
「ふーん、そんなことがあったのね。あたしちっとも知らなかったわ。ティムに絵の才能があるってことも」
ティムはキャンバスへと視線を戻すと、筆を動かしながら話を続ける。
「これでもう僕はスラム街出身の人間として馬鹿にされることはない。僕を馬鹿にできる奴はもう一人も居やしないんだ。僕は一流の画家だ。貴族から『人』として認められた一人の人間なんだ。
これからは毎日君の絵を描こう。君の絵を描きながらずっと君とこうして話していたいんだ。僕はルーメルだ。君が望めば気軽に会うことだってできる。話すことだってできる。だからもう君は何も気に病むことはない。世間は僕たちのことを何も悪く言わない」
エミリアは驚いた顔で身を動かす。
「あたし、あなたの身分を一度も気にしたことなんて──」
「ダメ。そこを動かないで」
ティムに止められ、エミリアは仕方なく椅子に腰を据えた。窓辺に頬杖をついて疲れたようにため息を吐く。
「……退屈だわ」
「あともう少し。もう少しで仕上がるから」
エミリアは再び足をぶらつかせた。
「ねぇティム。そんなにあたしの絵を描いてどうするつもり?」
「さっきも言っただろう? 僕はルーメルだと。君に絵を頼まれればそれを提供するのが僕の仕事。その為に君がこの屋敷と必要な道具を用意してくれたんだ。僕はそれに応えなければならない」
「え?」
エミリアは一瞬何かの聞き間違いかと思った。
恐る恐る尋ねる。
「な、何を言っているの? ティム。あたしがそんなことできるはず──」
ティムは笑う。
「あぁごめん。そうだったね。たしかにこの屋敷と道具を用意してくださったのはクレイシス伯爵様だ。もちろんクレイシス伯爵様にも感謝している。でもそれは君が内緒にしてくれって言う話だったよね?
サーシャ」
ゾクリと。
エミリアの背に悪寒が走った。
言いようも無い恐怖に胸を締め付けられていく。
きっとこれは何か聞き間違いに違いない。そう思ってエミリアは震える声でもう一度ティムに尋ねた。
「ほ、本当に何を言っているの? ティム。あたしはエミリアよ。それにサーシャ様はもうお亡くなりになられたわ」
ティムは顔色一つ変えることなく話を続ける。
「亡くなっただって? じゃぁ僕の目の前にいるのは誰だというんだい? 悪い冗談はよしてくれよ」
ようやく察したティムの異常。
彼には何かが取り憑いている。エミリアの顔は一気に青ざめた。
「……ティム?」
「ほら、笑って。もうすぐで君の絵が完成する。──あ、そうだ。明日、展覧会が終わったらもう一度この屋敷に来てほしいんだ。君に渡したいものがある。
心配ない。きっと展覧会は僕の絵が一番に決まっている。ラーグ伯爵様のお墨付きをいただいたんだ。ヴァンキュリア公爵様も僕の絵を一目見れば僕の才能を認めざるを得なくなるだろう。
そうなればきっと誰もが僕と君との仲を理解してくれるはずだ」
ティムはキャンバスから顔を上げ、エミリアを見つめてニコリと微笑んだ。
「だから安心して待っていて。僕は必ず君を迎えに行く」




