目に見えるモノ【1】
二日ほど続いた屋根の修理も仕上げの段階に入り。
クルドは休憩がてらにごろんとそこに寝転がった。
雲一つないを空を眺める。
いつの日も変わらぬ壮大な青い空。
二年前はよくこうしてマナと一緒に空を眺めたものだ。
『マナが死んで、お前は変わっちまったな』
ラウルの言葉が脳裏を過ぎる。
表情に影を差し、クルドは空から背けるようにしてそっと瞼を閉じた。
風景を遮断して尚暗闇となったその瞼の裏に浮かぶのは、やはりマナの最期を見た記憶。
北の魔女に魂を抜かれるあの一瞬、こちらを見たマナのあの目を。
『クルドさん……なんで……?』
どうして俺はあの時マナを救ってやれなかった?
思考をかき消すように、街中に鳴り響く汽笛の音。
クルドはハッと目を覚まし、反射的に飛び起きた。
ここからほど遠く離れた──といっても、一つの街並みの一区画なのだが──その場所に住む中流や上流階級貴族たちの生活階層の街を、一直線の白い煙が伸びていく。
以前、クレイシスがまだ酒場に居た頃にあれの正体について教えてくれた。あれは【蒸気機関車】と呼ばれるモノで、馬無しに蒸気と車輪だけで走る黒い鉄の乗り物なのだそうだ。鉄産業が発達した国から輸入してきた乗り物らしい。あぁいう外国製の乗り物はヴァンキュリア公家の存在無しでは永久に見ることのできなかった乗り物である。
クルドはため息を吐く。
「ま、知ったところで乗れやしないんだがな」
フェヌーバル国の一部だったこの街も、ヴァンキュリア公国となった今では交流の無かった国との交易が緩和され、その影響で少しずつだが独自の国色に変わりつつあった。
その影で流れるある噂。
『フェヌーバル国王はヴァンキュリア公家が握る権力の大きさに気付き内戦を恐れたんだ。だから国の一部を切り離す形でフェヌーバル政権から追放し、独立させるしかなかったんだ』
いきなり国として独立したのだから誰もがそう勘ぐるのは当然のことだろう。ラウルの話によると、フェヌーバル国で議席を持つ元老院階級の大半がヴァンキュリア公家と親交が深かったんだそうだ。それにフェヌーバル国王が気付いたのはクレイシスが侯爵の地位として議会に現れた時。普通、あれだけのお家騒動を起こせば周囲の評判は最悪となり、地位を継ぐことはおろか没落するはずである。それなのに周囲はクレイシスの地位を認め、議会の出席を許したのだから。
隣国カラード皇国の軍事力が増す一方で、フェヌーバル国王は和平の為にとヴァンキュリア公家とカラード皇国の縁談を認めていたようだが、蓋を開けてみればとんでもない毒物だったということだ。
その後、隣国カラード皇太子はフェヌーバルの第三王女と結婚し、元老院は入れ替わることなくそのままで、ヴァンキュリア公家は国を手に入れる形で政権から外に出された。
もしあの時、ヴァンキュリア・サーシャとカラード皇太子の結婚が成立していたならば──。
クルドは再び大の字になって屋根に寝転がる。
(どうやら俺はとんでもない大物権力者と一年も同じ屋根の下で暮らしていたようだな)
そっと目を閉じれば、思い浮かぶクレイシスに行った非礼の数々。
今更後悔してももう遅いことだが。
クルドは再び目を開き、空を眺めた。
ふと、その脳裏を過ぎる大魔女の言葉。
『自由を求めたことがあるかい? 死せる先の未来に幸せがあると思うかい? 彼女はそれを望んでしまった。ただそれだけのことさね』
ヴァンキュリア・サーシャは家の繁栄を望まなかったというのか? だとすると、それほどまでに自由になりたいと願った理由はなんだ?
『オレに姉さんの仇を討たせてほしいんだ』
もしかするとアイツは、その理由が何かを知っていたのかもしれん。
クルドの髪を風がそよそよと吹いていった。
誰にでもなく呟く。
「一年、か……」
思い返せば一年と三ヶ月。互いの意地の張り合いだったとはいえ、クレイシスには一年も庶民生活を無理強いしてきた。庶民ごときに顎でコキ使われていればそのうち諦めて帰るだろうと踏んでいたのである。
(アイツの復讐心を甘くみていた俺の判断ミスだ。あの時どんな手段を使ってでも無理やり家に帰すべきだった)
ラーグ伯家での魔女裁判の失態。処刑同然だった俺の罪をアイツはもみ消してくれた。何の価値もない一人の庶民を限定して助けたんだ。けして容易なことではなかったはず。
(これから先、裁判で庶民が処刑されることを知る度にアイツは罪悪感に苛まれ、生きていかなければならないのか)
貴族が庶民を助けるなど沽券に関わることだ。その上、他の家の裁判に首を突っ込むのだから貴族間での抗争は避けられない。
(片方を選べば片方を失う。それがアイツの復讐の末に選んだ最後の結末なのかもしれん)
クルドは寝転んだ体を起こした。
そこから見える風景を見回し、眺める。
眺めながらぼりぼりと頭を掻いて、思考を切り替える。
(さて、と。そろそろ仕事の仕上げを始めるか)
──そんな時だった。
「みーつけた」
どこからか聞こえてきた覚えのある声に、クルドは動きを止めて我が耳を疑った。
嫌な予感がしながらも、ぎこちない動きでゆっくりと首を回す。
そこには両手に靴を、そして裸足で平然と屋根の上を歩いてくる金髪の貴族少女──エミリアの姿があった。




