第6話 透ける手
その日の夜、私は部屋にこもりひたすらあの古めかしい鏡を見ていた。
とはいっても、普段から軟禁状態なのでぶっちゃけいつもどおりである。
部屋の中は、とりあえず夢でみた様子に近づけようと、灯りをすべて消してあるので真っ暗だ。
精神衛生上とてもよくろしくない感じである。
……髪の長い女の人とか出てきそうだよね、背後に。
そもそも真っ暗闇の中で鏡を見るという行為自体が心臓に悪い。なんか呪われそうな感じだ。
ふと、今までに見てきたホラー映画の主人公たちの顛末が頭をよぎり、背筋がブルリと震えた。
鏡に映る私の姿が変化したのは夜も深まった頃のことだった。
最初、私はそれに気づかなかった。
ただ鏡の向こうで突然口の端をつりあげた自分を見て、とうとう頭が可笑しくなったか、と鏡に近寄り自分の頬に手を当てたところで気でづく。
「わたし、べつに笑ってないじゃない……?」
そして鏡写しに私の行動を真似するはずのそれは頬に手を当てなかった。
別に私が無意識に怪しい笑顔を見せる危ない人になったわけではなかったのだ。
しかしその事実に、ほっと息をつくなんて余裕は無かった。
内臓から冷えていくような寒気が全身を襲う。
――……それなら、なんだこいつは?
ぞっと背筋に走った鳥肌に、無意識に鏡から後ずさる。
数歩下がったところで足に何かがぶつかりガタリと音が鳴った。さっきまで座っていた椅子にぶつかったのだ。
拍子に我に返る。
さっきのは決して小さくない音だった。もしかしたら誰かに気付かれたかもしれない。
じっと息をひそめ、動きをとめる。
時計の音だけが静かな部屋に嫌にはっきりとひびいた。
……五分ぐらいたっただろうか。
しばらくしても誰も来なかったことで、小さく息を吐く。
(何をしているんだ私は、こんなことで台無しにするのか。)
ひとまず落ち着こうと深呼吸をした。バクバクと鳴る心臓の鼓動がうるさい。
顔を上げじっと鏡を見すえる。
ガラスを隔てた向こうで、私の顔がニヤリとした厭らしい笑みをかたどっていた。
彼女は何かを握った両手を頭の位置まで持ち上げる。きらりと反射する銀色と、鈍い金属の光が瞬く。
目を凝らしてみると、それは何かの鍵のようだった。
なんだろう、とさらに凝視するとあることに気付く。
「あっ……!」
思わずでた声に、慌てて口元を押える。
そうしてもう一度、彼女の右手を凝視した。間違いない、あれは私の家のカギだ。
二つの鍵を手先で弄ぶ顔を見上げると、ニヤニヤ笑いを浮かべたまま彼女は両手に乗せ差し出してきた。
「……かえしてくれる?」
小さな声でつぶやくと、彼女は薄笑いを崩さず私を見つめ返す。
焦れたように鏡へ手を差し出すが、しかし彼女はカギを持った手をひょいっと頭上に上げた。
少しイラッとしつつ彼女の顔を窺い見る。
相変わらず人を馬鹿にしたような笑みが顔に張り付けてあるだけだ。
「渡してくれないの?」
彼女は例の笑みを張り付けたまま首を横に振る。渡してくれるつもりはあるらしい。
けれど、もう一度手をのばすと今度はカギを背後に隠した。
……これは地味に喧嘩を売られているのだろうか。
自分の顔にここまでイラつく日が来るとは思ってもみなかった。
睨みつけると、彼女は私のカギを握った手を胸元に引き寄せ、もう片方のカギを乗せた手を差し出してきた。
どういう意味だろうか、と私は自分の家のカギのほうを指差したが彼女は首を横に振る。
「……交換ってこと?」
正解だ、と言うかのように彼女はニヤニヤと目を細めた。能面のような笑みが深まる。
「いやだ。私のカギを返してよ」
咎めるような視線を向けても、彼女は不気味な笑みは一切揺るがなかった。
それどころか、カギを両方とも背に隠して消えるように薄れていく。
彼女は私にカギを返すつもりは欠片もないらしい。
(落ち着け、いいじゃないか。どうせ家の鍵なんてこの世界じゃ使えない。)
それにこのままじゃあ、両方とも手に入らない。もしかしたら、あのよくわからない鍵が城の脱出に役立つかもしれない。
私は交渉決裂というように消えゆく彼女を呼び止めた。
「っ……待って、あげる!私のカギをあげるからその鍵を頂戴」
彼女はゆっくりと左手を差し出した。手の上にはよくわからない鍵がのっている。
三度目の正直のつもりでもう一度鏡へ手を伸ばす、彼女はニヤケ顔のままぐにゃりとゆがんで鏡の奥へ消えて行った。
何も映さなくなった鏡に、私の指先がゆっくりと沈む。
ぬるくも、冷たくもない感覚が腕を包んだ。
一向に鍵にたどり着かない指に、あせって奥の方を探ぐる。
突然、氷のように冷たい人の指のようなものが私の手に絡みついてきた。
「ひっ?!」
不意におとずれた冷たい感触に反射的に腕を手繰り寄せる。
どこのホラーだ。
ひんやりとした掌の中の違和感に、そっと息をのむ。
恐る恐る手を開くと鈍色に輝く鍵が握りしめられていた。
(……まずは、一歩だ)
この鍵が、きっとこの世界での私のはじまりだった。
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