【短編】最強氷帝の親バカ日記 ~冷酷無慈悲と噂のお父様が、裏では「うちの娘が世界一可愛いんだが?」と自慢していた件
父は、冷たい人だ。
そう思うようになったのは、いつからだったんだろう。
たぶん――私が「お父様」と呼ぶ声の出し方を覚えた頃には、もう出来上がっていた気がする。
グレイシア公爵家当主、ヴァルディス・グレイシア。
氷帝と呼ばれ、王都の噂話では「冷酷無慈悲」「笑わない」「敵も味方も凍らせる」と、好き勝手言われている。
私の父。
そして、私の唯一の家族。
母は、いない。
私が生まれた時に亡くなった、と聞いている。
その事実が、屋敷の中の空気に、ずっと薄い氷を張っているみたいだった。
誰も面と向かっては言わない。
でも古参の侍女が私の髪を結いながら、つい口を滑らせた。
「奥様は本当にお美しくて……旦那様は、奥様の前では別の方みたいだったんですよ」
その言い方が、どこか懐かしそうで、寂しそうで。
次の瞬間には、しまった、という顔になって口を噤んだ。
私が何か言う前に、別の侍女がぱっと話題を変えた。
「フィ、フィオナ様、本日はこのリボンはいかがです? 淡い青がとてもお似合いです」
「うん、いいよ」
私が笑うと、皆がほっとしたように息を吐く。
(……なんで、そんなに気を遣うんだろ)
そう思っていた頃もあったけど、今は分かる。
気を遣っているのは、私じゃない。
父に対してだ。
廊下ですれ違う兵士は、私を見ると直立して、少しだけ頭を下げる。
使用人も、丁寧すぎるほどに挨拶する。
私は子供なのに、子供扱いされない。
「フィオナ様、お怪我はございませんか」
「ないよ」
「体調は?」
「大丈夫」
その二言三言で、相手の肩がふっと落ちるのが分かる。
(……私、そんなに危ないのかな)
きっと、私に何かあったら父が――氷帝が、どうなるか分からないから。
公爵家の令嬢だったらこれが普通なのかもしれないけど。
父は公爵家当主として忙しい。
屋敷の中にいるのに、いつも遠い。
執務室の扉の向こうにいる時間のほうが長い気がする。
それでも、週に数回だけ、夕食を一緒に食べることがある。
今日もそうだった。
食堂の長いテーブルの向こう側に、父が座っている。
背筋は真っ直ぐで、銀色の髪は一筋も乱れていない。
表情は――いつも通り、変わらない。
料理が運ばれ、侍女が下がり、静けさが落ちる。
暖炉の火の音と、銀食器が触れる音だけ。
「……最近はどうだ」
父が、低い声で言った。
その言葉が来るのを、私は知っている。
いつも同じだから。
私は姿勢を正して答える。
「問題ありません」
「困っていることは」
「特にありません」
「……そうか」
父はそれ以上、深掘りしない。
私は内心で、小さく頷く。
(やっぱり、義務的に聞くのね)
公爵家当主として、娘の健康状態を確認しているだけの、最低限の責任。
父親として話しているんじゃなくて、当主として必要なチェックをしているだけ。
分かっている。
そう思えば、寂しくない。慣れている。
――前世でもそうだったから。
私は転生者だ。
ただし、全部は覚えていない。
鮮明な記憶は少なくて、思い出すのは輪郭だけ。
冷たい部屋、両親の言い争う声、誰も私の話を聞かない食卓。
私は早く大人にならなきゃいけない、と思っていた。
だけど、若くして死んだ。
多分、二十五歳くらいだったか。
だから、家族が近くないことに慣れている。
期待しないほうが楽だと知っている。
この世界でも、同じにしようと思っていた……いや、思ってしまった。
だって私は、母を奪った子供だから。
父が母を溺愛していたという話は、屋敷の空気そのものから伝わってくる。
置かれたまま動かない肖像画、誰も使わないティーセット。
それを見て、私は勝手に結論を出した。
(私が生まれなかったら、母は生きていた)
(お父様は、私を見れば思い出す)
(……だから、距離を取るのは当然だ)
それでも父は、夕食に来る。
私が熱を出したと聞けば、侍医より先に「様子は」と聞く。
その報告を受けるのも、きっと義務。
父が食事の手を止め、ワインではなく水を一口飲んだ。
「……寒くないか」
その質問だけ、いつも少しだけ違う気がする。
私は反射で頷いた。
「大丈夫です」
「そうか」
確かに今日は少し寒いけど、と思っていたが、反射的に大丈夫と言ってしまった。
でも、その一言が落ちた後、なぜか食堂の温度がほんの少しだけ上がることがある。
侍女が暖炉の薪を足した様子はない。
なのに、冷たかった足先がじんわり温かくなる。
(……お父様の魔法?)
たぶん、そう。
気づかないふりをして、私はスープを飲む。
父は何も言わない。
言わないから、私は余計に思ってしまう。
(優しいのか、冷たいのか、分からない)
怖いというより、近づき方が分からない。
食後、父は当然のように席を立った。
「執務に戻る」
「……はい。おやすみなさいませ」
父は頷く、頷いたように見える。
それだけで扉の方へ歩いていく。
私はその背中を見送って、いつものように胸の奥に蓋をする。
(これでいい……これが平和だから)
そして、翌日。
屋敷の廊下は、相変わらず静かだった。
遠くで扉が閉まる音がしただけで、使用人たちの動きが止まる。
「……旦那様が通られる」
誰かが小声で言い、空気がぴんと張る。
角を曲がった先に、父が現れた。
兵士と秘書を連れている。
私が立ち止まると、周りの使用人も一斉に止まる。
父は私の前で足を止めた。
一瞬、氷の湖みたいな瞳が私を映す。
私は背筋を伸ばし、決まった言葉を口にする。
「お父様……おはようございます」
声が、少しだけ震えた。自分でも分かる。
父は、ほんのわずかに眉を動かしたように見えた。
それから低く言う。
「……おはよう」
たったそれだけ。
それだけなのに、私は胸の奥がきゅっとなる。
父が通り過ぎる瞬間、近くの空気が少し冷たくなった気がした。
父の背中が遠ざかっていく。
私は息を吐き、また歩き出した。
執務室の前を通る時は、いつも早足になる。
中からかすかに聞こえてくるのは、父の声と、秘書たちの報告。
「北側の税収は――」
「王都外郭の結界は――」
「魔獣の反応が――」
私には関係ない。
そう思って、今日も通り過ぎようとして――足が止まった。
扉が、少しだけ開いていた。
(……え?)
いつもは閉まっているのに。
誰かが出入りしたのだろうか。
締め忘れかな?
中から、声が漏れてくる。
「……以上が本日の報告です」
「分かった」
父の声。
私は、通り過ぎるべきだと分かっている。
盗み聞きは、いけない。
前世でも、私はよく聞きたくないことを聞いてしまった。
『娘なんていらなかったんだよ!』
『あなたが欲しいって言ったんじゃない!』
聞かなければよかった、と何度も思った。
なのに――足が動かない。
父の声が、続く。
相変わらず淡々として、冷たい。
そして。
「……ところで」
その言い方が、いつもと少し違って聞こえて。
私は、息を止めた。
「――うちの娘が世界一可愛いんだが」
扉の隙間の向こうで、秘書の声が乾いて聞こえた。
――今、なんて?
私は呼吸を忘れたみたいに固まった。
うちの娘?
世界一、可愛い?
それを言ったのは、間違いなくお父様の声だった。
低くて、冷たくて、淡々としていて、感情がないみたいな声。
なのに、言っている内容が。
(……え?)
頭の中が、追いつかない。
「……またですか」
「いいから聞け。今日の挨拶だ」
「はい」
「声が小さかった」
「……恐れられているのでは」
「違う」
「え?」
「可愛いんだ」
可愛い。
お父様がそんな言葉を、私に使うの?
「慎重に、間違えないように、言葉を選んでいた」
「……」
「八歳で、あれができるのは才能だ」
秘書が、明らかに間を置いた。
「……挨拶で才能という単語が出るのは初めて聞きましたが」
「お前はまだ俺の娘の可愛さを理解していない」
「理解しているつもりですが」
「足りない」
足りない、って何が?
秘書が小さく息を吐く音がした。
「……で、今日はどこが可愛かったんですか」
「全部だ」
「全部……」
「全部だ。まず、廊下で俺が近づく前に息を吸った」
「観察が細かいですね」
「緊張していた。なのに逃げなかった」
「……」
「逃げずに、背筋を伸ばして、挨拶をした」
淡々とした声が、止まらない。
「目が一度だけ下を向いた」
「……はい」
「すぐに戻した」
「……はい」
「自然と上目遣いになった、俺のほうが身長が高いから当然だが」
「……」
「可愛い、心臓が止まるかと思った」
秘書が、諦めたように相槌を打つ。
「……よかったですね」
「それから髪留め」
「雪の結晶の形の?」
「そうだ。光を受けると、少しだけ青く反射する」
「そこまで……」
「娘の髪は淡い金色だ。あの青が映える」
私は思わず、自分の髪に触れそうになって、慌てて手を引っ込めた。
(……見てたの? そんなところまで? すれ違った時の、あのの一瞬で?)
扉の隙間の向こうで、秘書が若干投げやりになっている。
「はいはい、映える映える」
「そして、昨日の夕食だ」
夕食……昨日一緒に食べた時の話?
「スープを飲んだ」
「ええ」
「一口目で、少しだけ目を細めた」
「……熱かったんじゃないですか」
「美味かったんだ」
「断定しますね……」
「美味いものを食ったときの顔をする」
た、確かに昨日のスープは美味しいと思ったけど。
お父様の声が、ほんの少しだけ、満足そうに聞こえた気がした。
「パンもな、いつもよりも多かったのに最後まで食べた」
「はい」
「偉い」
「食べただけで偉い判定……」
「息をしているのも偉い。愛おしい」
「またそれですか」
「当然だ」
……当然?
私、今、本当にお父様の声を聞いているの?
中にいるのは、本当にヴァルディス・グレイシア公爵なの?
氷帝、だよね?
(……キャラ崩壊してない?)
いや、崩壊というより――私が知らなかっただけ?
秘書がついに突っ込んだ。
「旦那様、あの……ここ、執務室ですよ」
「知っている」
「国家機密も扱う場所です」
「知っている」
「……娘の可愛さを語る場所では」
「娘の可愛さを語ってはいけない場所などない。陛下の執務室でもしてやった」
「いったい何しているんですか……」
お父様はさらっと言った。
陛下って、この国で一番偉い王様だよね?
本当にその人の前で語ったの?
「娘を褒めるのに場所は選ばん」
「開き直りましたね」
「開き直っていない。事実を述べているだけだ」
……事実。
ここまでのことが事実というのが驚きだ。
「それに、俺は三歳まで」
そこで、お父様の声が少しだけ低くなった。
「……あの子と向き合えなかった」
秘書が、さっきより静かな声で返す。
「……旦那様」
「執務はできた、領地も守れた。だが、父親はできなかった」
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……三歳まで)
私は、その頃のことをほとんど覚えていない。
当たり前だ、三歳なんて。
でも、お父様は覚えているようだ。
「だから、嫌われていると思っている」
「……」
「俺が近づくと、娘は少し肩をすくめる」
昨日の、私。
殴られるわけでもないのに、びくっとしてしまう。
前世の頃から家族とは仲良くないので、お父様の冷たい対応に過剰に反応してしまうのだ。
「俺は――父親失格だ」
その言葉に、私は息を吸って吐くことも忘れて、ただ立ち尽くした。
(お父様は……私に、嫌われていると思っていたの?)
(私も、嫌われていると思っていたけど……お父様も、同じことを――)
その瞬間、足の裏が痺れたみたいに感覚が戻って、私は無意識に体重をずらしてしまった。
かすかな、擦れ音。
しまった、と思った時には遅かった。
「……誰だ」
氷帝の声に戻った声が、扉の向こうから刺さる。
扉が開いた。
私は目を上げて、お父様と視線がぶつかった。
お互いに固まる。
お父様も。
私も。
お父様の後ろにいる秘書も、気まずそうに視線を泳がせた。
「……聞いていたのか」
お父様が、淡々と問いかける。
私は喉が詰まって、でも嘘はつけなくて、頷いた。
「……はい」
次の言葉が勝手に口から出た。
「すみませんでした……!」
絶対に怒られると思った。
盗み聞きなんて最低だ。
でも。
「謝る必要はない」
お父様は、怒った様子を一切見せなかった。
代わりに、私の足元――廊下を見て、眉を僅かに寄せた。
「寒かっただろう」
「え……」
「中に入れ」
命令みたいな口調なのに、私の胸はなぜか少しだけ温かくなった。
私は促されるまま執務室に入った。
大きな部屋で、机の上には書類の山。壁には本棚が並んでいる。
お父様はソファを指さした。
「そこに座るといい」
「……はい」
私は端の方にちょこんと座った。
お父様も対面のソファに腰を下ろす。
……近い。
夕食の席より、ずっと近い。
でも私もお父様も喋らないから、沈黙が続く。
……気まずい。
秘書が咳払いをした。
「ええと、お嬢様のために紅茶をお持ちします」
逃げるように、秘書が出て行く。
扉が閉まり、部屋の中に二人きりの静けさが落ちた。
暖炉の音がやけに大きい。
私は膝の上で指を絡め、覚悟を決めて口を開いた。
「……お父様」
「何だ」
声はいつも通り冷たいのに、さっきの言葉が頭から離れない。
私のことを、世界一可愛いと言った。
そして自分のことを、父親失格と言っていた。
私は言った。
「……お父様は」
自分でも、声が震えているのが分かった。
「私のことが……好きなのですか?」
沈黙が一拍。
でも、その沈黙は短かった。
「当然だ」
即答だった。迷いも、間もない。
当然、って。
そんなふうに言えるんだ。
私は胸の奥が、じわっと熱くなるのを感じた。
嬉しい……けど、別の感情が追いついてくる。
――じゃあ、どうして。
私は膝の上で指を絡めたまま、勇気を出してもう一度口を開いた。
「でも、どうして……冷たい態度を取るんですか」
言ってしまった。
胸がきゅっと縮む。
失礼だったかもしれない。でも、聞きたい。
お父様は一瞬だけ視線を落とし、それからまっすぐ私を見た。
「……嫌われていると思っていた」
その言葉に、私は瞬きを忘れた。
さっきも聞いた。盗み聞きで。
「いや」
お父様は、次の言葉を選ぶみたいに、一拍置いた。
「嫌われないといけないと思っていた」
「……え?」
嫌われないといけない?
どういうこと?
「どういう……」
私が問う前に、お父様は低い声で続けた。
「君の母――つまり、俺の妻は」
そこで、お父様の目が少しだけ揺れた。
今まで見たことのない揺れだった。
「君に会うのを、心から楽しみにしていた」
お父様が、母の話をする。初めてのことだ。
私は息を飲む。
「愛するのを楽しみにしていた。育てるのも、教えるのも、笑わせるのも」
淡々とした声なのに、言葉が痛い。
「……だが、生後間もなく」
お父様は一度だけ目を伏せた。
「一度だけ、君を抱いて。それだけで、彼女は――死んだ」
胸の奥が、ずんと重くなる。
私は母の記憶がない。ないはずなのに、今、喉の奥が熱い。
「俺は」
お父様が、ゆっくりと続けた。
「彼女を失った……ショックで、立ち直れなかった」
それは当たり前だ。愛する人を失ったら。
「それでも、執務だけはした。全てを忘れるように、無我夢中で……だが」
そこで、お父様の声がほんの少しだけ低くなる。
「娘である君を、三年以上も放置した」
放置――その言葉が、胸に刺さる。
私が「冷たい」と思っていた距離。
それは、そういうことだったのか。
「そんな俺が、君に好かれていいはずがない」
お父様は、淡々と断定した。
「嫌われて当然だ。……いや、嫌われるべきだと思った」
私は思わず、唇を噛んだ。
(そんな……)
お父様にも、事情があった。
そう思った瞬間、胸の奥がずきっと痛んだ。
私は今まで、勝手に決めつけていたのだ。
冷たい人だ、と。
私に興味がないのだ、と。
でも、それは――違った。
失ったのだ、愛していた人を。
しかも、私が生まれた、その時に。
(知っていたけど……お父様は、想像以上に傷ついていたみたい)
十八歳。
今世ではもう大人とされているが、前世ではまだ大人になりきる前の年齢で。
守りたい人を失って、それで平然としていられる人なんて、いない。
何歳になっても、きっと無理だ。
それがたとえ、氷帝と呼ばれる人でも。
私は膝の上で指を握りしめた。
お父様は続けた。
「俺は……彼女を失って、正常ではなかった」
言い訳ではなく、事実を述べているだけの声。
「君を見るたび、彼女を思い出した。同時に、違うとも思った……だが」
お父様は一度だけ言葉を切った。
「それでも、向き合う勇気がなかった」
私は、何も言えなかった。
三年以上放置された、と言われれば、その通りだ。
でもそれを言ったお父様の表情は、とてもじゃないけれど、責められるものじゃなかった。
「そんな俺が、娘に好かれていいはずがない」
嫌われて当然。
いや、嫌われるべき。
お父様はそう思い込んで、距離を取った。
(……それで。お父様は、嫌われていると思って、距離を取って)
私は、小さく息を吸った。
「……私も」
声が、思ったより震えた。
「嫌われていると思っていました」
お父様は、静かに頷いた。
否定せず、言い訳もしない。
「お母様を、とても愛していたと聞いています。だから、私が生まれたせいで……」
言葉が詰まる。
だがお父様は、すぐに首を振った。
「違う」
短く、はっきりと。
「君のせいではない」
その一言で、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ溶けた。
私は、勇気を振り絞った。
「……お父様が、私のことを好きなら」
胸が、熱い。
「仲良くしたい、です」
お父様の目が、はっきりと見開かれた。
氷が割れたみたいな顔。
私は続けた。
「母様の分まで、愛してください」
言ってから、胸がいっぱいになった。
お父様の迷うような表情。
ためらい、揺れる視線。
(……お父様でも、そんな顔をするんだ)
私は立ち上がった。
ソファを回り、そっと近づく。
そのまま、お父様の足の間に入り、膝をついた。
「お父様」
「……何だ」
「ぎゅーって、してください」
沈黙。
お父様の腕が、少し宙で止まる。
抱き方が分からないみたいに。
それが、少しだけ可笑しくて、少しだけ切なくて。
やがて、ぎこちなく腕が回された。
背中に、確かな温もり。
「……温かいです、お父様」
私は、ぎゅっと抱きついた。
逃げない、離れない。
お父様の腕の力が、少し強くなる。
「……ああ」
震えた声。
「温かいな」
初めて聞く声だった。
私は顔を上げなかった。
きっと、泣いてしまうから。
(……今度こそ、家族になれる気がする)
その時、ノックの音がした。
「失礼しま、すっ……えっと」
秘書が入ってきて、固まる。
でもお父様はいつもの顔に戻って、私を見た。
「……ありがとう、フィオナ」
それから、少し迷って。
「これからは……仲良くしてもいいか?」
私は、思わず笑ってしまった。
「はい!」
胸いっぱいの笑顔で答えると、
お父様は天井を見上げて、ため息をついた。
「……やはり、世界一可愛い」
「やっぱりそれですか」
秘書が苦笑しながら言う。
私も苦笑しながら、もう一度だけ、お父様にぎゅっと抱きついた。
それから数日後。
――お父様は、明らかに変わった。
いや、正確に言うなら、今まで押し殺していたものを、もう抑えなくなった、という感じだ。
朝、私が部屋を出ようとすると、廊下の向こうから足音がして。
「フィオナ」
呼ばれたと思った次の瞬間には、もう目の前にいる。
「おはよう。よく眠れたか」
「……おはようございます」
返事をした、その直後。
ぎゅ。
「――っ」
抱きしめられる。
突然すぎて声も出ない。
最初のうちは驚いて固まっていたけれど、今は分かっている。
「寝起きの声も可愛いな」
低い声で、当たり前みたいに言われる。
(……朝から、それですか)
廊下の端で、使用人たちが動きを止めているのが視界に入った。
目を見開いている人。
顔を赤くしている人。
(……確かに、顔はいいけど)
銀色の髪に、整った顔立ち。
背も高くて、声も低い。
無表情だと怖いのに、今は――。
微笑んでいる。
あの人が。
(……見慣れない)
朝食も、当然のように隣だった。
長いテーブルの中央ではなく、私の横に椅子を寄せて座る。
「……お父様、近いです」
「そうか?」
そう言いながら、私を膝の上に乗せる。
「……っ!」
さすがにこれは、まだ慣れない。
心臓がうるさい。
「落ち着く」
「落ち着くのは、お父様だけです……」
「そうだな」
否定しない。
それどころか、満足そうだ。
スープの温度を確かめてくれたり、パンを小さくちぎって渡してきたり。
「熱くないか」
「大丈夫です」
「無理はするな」
そんなやり取りをしている間も、膝の上。
(……見られてる)
使用人たちの視線が、痛い。
でも、お父様は気にしていない。
それどころか。
「はぁ、愛おしいな」
ぽつりと呟かれる。
(……困る)
困るのに、胸の奥がじんわり温かくなる。
昼、お父様が外出から戻ってくると、まず向かう先が変わった。
執務室じゃなく、私のいる場所。
「ただいま、フィオナ」
そう言って、また抱きしめられる。
公爵家当主の「ただいま」を、娘が一番に受け取る光景。
まだそれを見ていなかった使用人が、完全に固まっていた。
(……慣れてください)
言いたいけど、言えない。
だって、お父様は本当に嬉しそうだから。
「今日も元気そうだな」
「はい、お父様」
「よかった」
それだけで、抱きしめる腕が少し強くなる。
夕方……ついに、お父様は王宮の話を出した。
「今度の陛下との会議だが」
「……」
「フィオナも一緒に行くか」
「行きません」
即答した。
「なぜだ」
「絶対に目立つからです」
王宮に、氷帝が娘を抱いて現れる図を想像して、背筋が寒くなった。
「大丈夫だ、必ず守る。俺はこの国で一番の魔術師だ」
「そういう問題じゃありません!」
少し間があって。
「……外では控える」
残念そうなのが、分かるのが困る。
「また今度、です」
「……そうか」
納得してくれたから、ほっとした。
夜、一日の終わり。
また、抱きしめられる。
最初は戸惑った。
慣れていなかったから。
でもお父様の腕は、温かい。
包まれていると、不思議と落ち着く。
「……もう、お父様ったら」
思わずそう言うと、お父様は少しだけ目を細めて。
「嫌か?」
私は一瞬迷って、首を振った。
「嫌じゃ、ないです」
正直な気持ち、ただ恥ずかしい。
でも、嬉しい。
お父様が私と触れ合って喜ぶ顔をするのも、嬉しいのだ。
「世界一可愛いな」
またそれだ。
――でも、断れない。
だって……こんなふうに笑うお父様を、今まで知らなかったから。
これからは、きっと。
こうして、家族でいられる。
◇
グレイシア公爵家当主、ヴァルディス・グレイシア。
氷帝と呼ばれる男は、今日も執務室の机に向かっていた。
――妻、シルフィーがいなくなって、三年。
季節は巡り、書類に目を通し、署名し、決裁し、指示を出す。
領地を守り、王都の均衡を保ち、必要ならば敵を凍らせる。
――それは出来る。
出来てしまう。
それが、余計に胸の穴を際立たせた。
彼は、仕事をしている間だけは「考えなくて済む」ことを知っている。
いや、正確には、考えたくないことを、仕事の山で押し潰しているだけだった。
妻の死。
この世で一番愛した女、シルフィーが、子を産み落として、彼の手の届かない場所へ行ってしまったこと。
直後の数カ月、記憶が曖昧だ。
食事をしていたのか、夜に眠ったのかさえ、よく覚えていない。
――ただ、身体だけは生きていた。
彼は忘れるように働いた。
朝から晩まで、休みなく。
何度か倒れた。熱を出したこともある。
眩暈で視界が歪んだまま書類に目を落とし、インクの匂いで吐き気を堪えた。
その度に、秘書が眉ひとつ動かさずに言った。
「旦那様。休息を」
「……不要だ」
「不要ではありません。必要です」
淡々とした声は、いつだって正しい。
彼は迷惑をかけてきた自覚がある。
だから最近は少しだけ、休憩を取るようになった。
まるでそれが、罪滅ぼしにでもなるかのように。
今日も、秘書が静かに進言した。
「ここで区切りです。少し休まれては」
「……」
「旦那様が倒れれば、領も屋敷も混乱します」
「分かっている。十分ほど休憩してくる」
「三十分にしてください」
「……わかった」
ヴァルディスは椅子から立ち上がり、外套も羽織らずに執務室を出た。
廊下を歩くと、使用人たちの背筋が同時に伸びる。
――いつも通りだ。
それが当主のいる屋敷の、正しい空気。
だが、今日の彼はその「正しさ」がひどく空虚に感じた。
庭に出ると、冬の名残の冷気が頬を撫でた。
空は白く、風は薄く、木々はまだ芽吹き切っていない。
ベンチに腰を下ろす。
背中が、ひどく冷たい。
執務室の暖炉の熱が遠ざかると、胸の内の穴が、同じ温度で彼に迫ってくる。
(……シルフィー)
名を呼べば、返事があるはずだと、身体のどこかがまだ思っている。
彼女は笑って、困ったように眉を下げて、こう言った。
『あなた、働きすぎよ。だめ。ちゃんと休憩しなさい』
(……そう言うだろうな)
そう思ってむなしく笑っていると、足元に影が落ちた。
ヴァルディスは顔を上げる。
そこにいたのは、小さな子供だった。
女の子だ。
白銀の髪。短く切りそろえたショート。
小さな手で何かを握りしめて、彼を無邪気な目で見上げていた。
彼は、一瞬――理解が遅れた。
(……誰だ)
この屋敷で白銀の髪。
それは自分くらいしかおらず……。
次の瞬間、心臓が一拍遅れて痛んだ。
――フィオナ。
自分の子ども。
シルフィーが命の最後に抱きかかえていた、あの小さな赤ん坊。
彼の記憶にあるのは、出産直後の一度だけだ。
シルフィーの唇が白くなっていて、息が細くて、それでも必死に腕に抱いた子供を、彼女は愛おしそうに見つめていた。
彼は、その時、娘の顔など見ていなかった。
そんな余裕はなく、見られなかった。
今、それが胸を刺した。
フィオナは、首を傾げた。
「だぁれ?」
声は高く、柔らかい。怖がる気配がない。
ヴァルディスは喉が一度詰まるのを感じた。
何と答えるべきか、言葉が見つからない。
父親だ、と言えばいい。
だが、その単語を口にする資格があるのか。
「……ヴァルディスだ」
「ばる……?」
舌が小さく動く。難しい音を真似しようとして、眉がきゅっと寄った。
「……ばる、でぃす」
「そうだ」
「ばる……でぃ……」
もう一度挑戦して、失敗して、そして、ぱっと顔を明るくした。
「バルちゃん!」
彼は瞬きをした。
「……バル、ちゃん」
「うん! バルちゃん!」
当主に向ける呼び名ではない。
いや、そもそも彼を「ちゃん」付けで呼ぶ者などいない。
だが、目の前の子供は誇らしげだった。
自分が何か素晴らしい名付けをした、と言いたげに。
ヴァルディスは咄嗟に何も言えなかった
彼は小さく息を吐いた。
「……まあ、好きに呼ぶといい」
「やったぁ!」
フィオナが笑う。
その笑い方に、胸の奥がひくりと痛んだ。
――シルフィーだ。
彼女が、何でもない花を見つけた時、彼の外套の袖を掴んで見せた時。
あの時と同じ、目尻の柔らかい弧。
ヴァルディスは無意識に呟いていた。
「……シルフィー」
フィオナは、きょとんとした。
「しるふぃー?」
「……」
「ちがうよ?」
小さな手が胸を指した。
「わたし、フィオナだよ」
彼は喉の奥が熱くなるのを感じた。
そうだ。
目の前にいるのは、彼女ではない。
彼女の「残したもの」だ。
「ああ……そうだな」
フィオナは、にこっと笑って、そして、すぐに顔を曇らせた。
その変化が、早すぎて、彼は反応を誤った。
「バルちゃん」
「……なんだ」
「なんだか……かなしいかお」
ヴァルディスは、言葉を失った。
まさか、三歳の子に感情を言い当てられるとは思わなかった。
彼は感情を隠すのが上手い。
上手い、はずだった。少なくとも、他人にはそう映る。
だが、子供には通じないのか。
それとも自分の子供、フィオナだからか。
フィオナは、突然、両手を広げた。
「だっこして!」
命令でもお願いでもない。
そうするのが当然だというような無邪気さ。
ヴァルディスは一瞬、身体が固まった。
(抱く……?)
子供の抱き方など知らない。
彼はゆっくりと手を伸ばし、フィオナの脇に腕を入れて持ち上げた。
「――っ」
軽い。
驚くほど軽い。
こんなにも小さい身体が、三年も、彼の知らない場所で息をしていた。
フィオナは当然のように彼の首に腕を回した。
「ぎゅー!」
小さな腕が、精一杯の力で締まる。
ヴァルディスは固まったまま、腕の位置を探した。
落とさないように、痛くないように。
「……どうした」
彼が問うと、フィオナはにこにこしたまま言った。
「こうしたらね」
「……」
「しあわせなきもちになるんだよ!」
「っ……!」
その言葉が、胸を貫いた。
――覚えている。
シルフィーも、同じようなことを言った。
『あなたと抱きしめ合っているだけで幸せだわ』
彼は、その時、笑ってしまった。
何を言っているんだ、と。
そんな単純なことで満たされるものか、と。
――今なら分かる。
単純だからこそ、救いになる。
フィオナが少し身体を離した。
そして、彼をじっと見た。
「バルちゃん」
「……」
「しあわせ、なった?」
その瞬間、初めて、視線が真っ直ぐに噛み合った。
彼は、気づく。
フィオナの瞳が、緑色だ。
深い森のような、柔らかい緑。
シルフィーと同じ。
彼女は死の間際、息の途切れ途切れの中で、確かに言ったのだ。
『あなたと同じ、白銀の髪色……瞳の色は、まだ見えないけど……あなたと同じ、優しい目をしているんだろうな』
優しい目。
優しい心。
目の前の子供は、彼の悲しみを「悲しい顔」と呼んだ。
そして、自分の知っている一番の方法で、抱きしめてくれた。
(……シルフィー)
君と同じ瞳の色で。
君と同じように、人を温める。
そんな子が、ここにいる。
彼の視界が、揺れた。
涙が落ちる。
落ちたことが分かって、ヴァルディスは反射でフィオナを抱きしめた。
見られたくなかった。
誰にも――ましてや、この子に。
フィオナは嬉しそうに、彼の胸に頬を擦り寄せた。
「えへへ」
笑う。
「あたたかーい」
(……温かいのは、どちらだ)
彼は答えられないまま、ただ抱き締めた。
腕の中の小さな呼吸が、確かに生きている。
足音が近づく。
「――フィオナ様っ」
慌てた声。
庭の小道から侍女が駆けてきて、そして、その場で固まった。
目の前の光景が信じられない、と言いたげに。
ヴァルディスは抱いたまま、視線だけを向けた。
「……迷子か」
「も、申し訳ございません! 別邸の庭でお花を――」
「おはな、つんでたの!」
フィオナが胸を張って言う。
侍女が青ざめる。
公爵当主の前で、そんな言葉遣いを――と。
だがヴァルディスは、侍女を責める気など一切なかった。
責めるべきは自分だ。
三年もの間、娘を『別邸にいる存在』にしていたのは、誰だ。
「……俺はこれから仕事だ。フィオナを連れて戻れ」
「はいっ……!」
侍女が手を伸ばすと、フィオナは名残惜しそうに彼の頬を見上げた。
「バルちゃん、ばいばい?」
ヴァルディスは、喉が詰まりながらも頷いた。
「……ああ」
フィオナは手を振った。
「ばいばい! またね!」
またね。
その言葉が、胸の穴に小さな光を落とす。
ヴァルディスは、ゆっくりと片手を上げて手を振った。
フィオナが連れて行かれて、庭が静かになる。
ヴァルディスはベンチに座ったまま、しばらく動けなかった。
――空いた穴が、塞がるわけではない。
だが、穴の底に、温かいものが落ちた気がした。
彼は立ち上がり、本邸へ戻った。
廊下に入ると、使用人たちがいつものように身を固くする。
執務室へ行くと、机の前に秘書がいた。
ヴァルディスは椅子に座らず、机の端に手を置いた。
その指が、わずかに震えていることに自分で気づいて、思わず笑う。
「別邸の、俺の娘を」
声はいつも通り低い。淡々としている。
「本邸へ戻せ」
秘書の眉が、ほんのわずかに動いた。
「えっと、よろしいのですか」
秘書はヴァルディスが娘を別邸に置いていた事情を知っている。
娘のフィオナと会って、妻のシルフィーを思い出さないようにと。
「もちろんだ」
「その、理由を伺っても」
ヴァルディスは一拍置いた。
そして、短く答えた。
「天使に会っただけだ」
「……」
秘書が、沈黙する。
――三年だ。
三年も、ヴァルディスは何をしていた。
何もしていない。
けれど今、腕の中の温かさは、確かに覚えている。
ヴァルディスは、机の上の書類を見下ろした。
そこに書かれた文字が、ほんの少しだけ違う意味を持って見えた。
守るべき領地。守るべき屋敷。
そして……守るべき、小さな命。
「手配しろ」
「承知しました」
秘書の声は淡々としている。いつも通りだ。
だがヴァルディスは、胸の奥で静かに誓った。
次にあの子が「だぁれ?」と聞いた時。
今度は、逃げずに答える。
――俺は、お前の父親だ。
◇
――私は、十六歳になった。
魔術学園に入ってから二年ほど、主席が続いている。
それがずっと、当たり前みたいに。
講義で抜かされる気がしない。
実技で負ける想像も、正直あまりしない。
周りもそう思っているのが分かる。
(だって、父がヴァルディス・グレイシアだから)
「遺伝だよね」
「氷帝の娘だもん」
「そりゃ強いでしょ」
噂は勝手に流れる。
遺伝の才能があるのは、否定しない。
父の血を引いているのだから、確実にある。
でも、それだけじゃない。
(幼い頃から、やってきた)
眠い目を擦りながら、魔力の流れを整える呼吸を繰り返した日も。
基礎の詠唱を百回、二百回と、声が枯れるまで続けた日も。
――あれは、私が私のために積み上げたものだ。
もちろん、環境は恵まれていた。
師は父。
教材は本邸の書庫。
他の人との鍛錬の質が違う。
疲れれば温かい紅茶が出て、寒ければ暖炉の火がある。
(まあそれでも、私の実力には変わりない)
今日も授業が終わって、私はいつものようにノートを閉じた。
同級生たちの会話は、内容よりも空気のほうが賑やかだ。
「フィオナ、今日もお疲れ」
一人の女の子の級友がそう話しかけてきた。
「うん、お疲れ」
「帰る?」
「帰るわ。今日は課題もあるし」
私は鞄を肩に掛けて立ち上がる。
教室を出ると、廊下の空気が少し冷たかった。
学園は石造りで、秋から冬に向かう時期は容赦がない。
門へ向かう途中、何人かに声を掛けられる。
「フィオナ、今度の模擬戦、対戦相手になってよ」
「フィオナ、これ教えて。魔力の圧縮、どうやってるの?」
「フィオナ様、あ、あの……今度、図書室……」
最後の言葉は尻すぼみになって消えた。
私を見る目が、途中で別の方向へ滑ったから。
(……ああ)
この感覚は、もう慣れた。
学園の門が見える。
門の外に、見慣れた馬車が停まっていた。
黒い車体に、銀で縁取られた紋章。
グレイシア家。
周囲の空気が、ほんの少しだけ変わる。
ざわり、と。
女子生徒の間でさざ波みたいな音が立った。
「フィオナ、来てるわよ」
級友が、愉快そうに囁いた。
私はため息を吐く。
呼吸と一緒に、諦めも吐き出した気がした。
「……うん。見れば分かる」
「毎日迎えって、ほんとすごいよね。公爵当主なのに」
「すごいじゃなくて、困る」
「でも嬉しいんでしょ?」
「……うるさい」
レティシアが肩を揺らして笑う。
私が反論しきれないのを知っているから、余計に。
馬車の扉が開いた。
先に降りたのは従者――ではなく。
グレイシア公爵家当主、ヴァルディス・グレイシア。
氷帝、この国で最も強い魔術師。
そして――私の父。
銀色の髪は日光を受けて冷たく光り、背筋はいつも通り真っ直ぐ。
その人が、まっすぐこちらへ歩いてくる。
周囲が、息を呑む気配がした。
父は三十を過ぎているはずなのに、見た目だけなら二十代の中盤くらいにしか見えない。
整った顔立ち。
無表情なら近寄りがたいのに、今は――ほんの少し、目尻が柔らかい。
(……その顔、学園で出さないでほしい)
女子生徒の何人かが、明らかに顔を赤くした。
手で口元を押さえる子。
友人の袖を引いて小声で叫ぶ子。
目が輝いている子。
……分かる、分かるけど。
(うちの父ですから、色目を向けないでほしい)
私の内心は、静かに釘を刺す。
父が私の前で足を止めた。
周囲が一斉に静かになる。
「フィオナ、迎えに来たぞ」
「……来なくていいって、いつも言っていますよね」
私はできる限り平静を装う。
装うけれど、頬が少し熱い。
視線が刺さるからだ。
父は眉ひとつ動かさずに返す。
「そう言われているが、俺が迎えに来たいだけだ」
「……それが困るんです」
「そうか。困る顔も愛いな」
すぐそれだ。
後ろで級友が肩を震わせている。
笑いを堪えているのが分かる。
「公爵様、今日もお美しい……」
「近くで見ると息が止まる……」
「ねえ、紹介してもらえないかな……」
小声が、耳に入る。
私は顔を動かさないまま、内心で固くなる。
(やめて)
冗談なのか、本気なのか分からない。
でも本気が混じっているのは分かる。
父は母を亡くしてから、誰も迎えていない。
縁談が来ているのも知っている。
全部断っているのも知っている。
父が誰をどう思うかは、父の自由だ。
そう頭では分かっているのに――。
(同い年くらいの子が、父と結婚するのは無理)
嫉妬とか、そういう綺麗な感情じゃない。
もっと単純に、受け付けられないというか。
父は私の横に立ち、周囲を一瞥した。
氷の湖みたいな瞳が、女子生徒たちを掠める。
ざわめきが一瞬で静まった。
(……やっぱり怖いよね)
私はその静けさの中で、鞄を持ち直した。
「お父様、帰りますよ」
「うむ」
父が私の手を取ろうとして、私は反射で一歩引いた。
「歩けます」
「知っている」
「……じゃあ」
「俺がそうしたい」
押し切られる。
父は私の肩に外套を掛けた。
いつの間に用意したのか分からない。
冷えた風が肌に触れる前に、温かい布が覆う。
「寒いだろう」
「……今日はそこまでじゃ」
「耳が赤いぞ」
その言い方がずるい。
父が少しだけ目を細める。
(断れない……)
私は諦めて、馬車へ向かった。
背中に、視線が山ほど刺さる。
その視線を甘んじて受けながら、私は馬車に乗り込む。
父も続き、扉が閉まる。
外の喧騒が遠ざかって、車内に静けさが落ちた。
揺れが始まる。
父は対面ではなく、私の隣に座った。
いつも通り、近い。
昔はそれだけで緊張したのに、今は――慣れてしまった自分がいる。
父が窓の外を一度だけ見て、ぽつりと言った。
「フィオナも、もう十六歳か」
「はい、そうです」
「早すぎるな」
その声が、本当に感慨深そうで。
私は少しだけ笑ってしまった。
「何ですか、その言い方」
「つい昨日まで、膝の上で眠っていた気がする」
「それ、つい先週も言ってましたよ」
「そうだったか」
「そうでした」
父は平然としている。
私だけが恥ずかしい。
(私、十六歳なんですけど)
言っても無駄だと分かっている。
父は「年齢は関係ない」と言い切るだろう。
たぶん本気で。
私は話題をずらすつもりで、冗談めかして言った。
「そういえば。お父様と同じく、私にも縁談が来るような歳になりました」
車内の空気が、すっと冷えた。
比喩じゃない。
本当に温度が下がった気がする。
父の気配が、変わった。
隣にいるのに、氷の塊が座ったみたいだ。
「……誰かに申し込まれたのか?」
低い声。
淡々としているのに、圧がある。
「学園で?」
間を置かずに続く。
「どこの馬の骨だ?」
「馬の骨って……」
私は思わず笑ってしまった。
父がそう言うのは慣れている。
慣れているのに、毎回面白いのがずるい。
「冗談です。まだ、正式な話はありませんよ」
「……『まだ』?」
「そこ、拾わないでください」
父は眉を僅かに寄せた。
それだけで、部屋がさらに冷える気がする。
「申し込まれても断れ」
「それは私が決めます」
「俺が決める」
「いえ、私です」
私が即答すると、父は一拍黙った。
……黙った後が怖い。
でも今日は、別の方向へ行った。
「学園では言われていないですよ」
私は肩をすくめる。
「――あのお父様の弟子を自称している人以外には」
父の瞳が、わずかに細くなった。
「ルーカスか……」
「はい。今日も言ってました。『俺は氷帝に認められている男だからな』って」
認められているというか、小さい頃に私に絡んで父に叩きのめされたような思い出だけど。
でも彼も成長して、一つ上の学年だけど首席で卒業が確定しているようだ。
「……あいつめ」
父の声が、普段より低くなる。
「調子に乗っているなら、そろそろ狩るか」
「狩らないでください!」
私は即座に父の袖を掴んだ。
冗談なのか本気なのか分からないけれど――父は、やる時はやる。
やってしまう。
父は私の手元を一度見て、少しだけ空気を緩めた。
「冗談だ」
「……本当ですか」
「半分は」
「半分は狩る気じゃないですか!」
父が、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑った。
それだけで、私の心臓が変な跳ね方をする。
(……こんな顔、昔はなかった)
八歳の頃から、父はずっと親バカだ。
でも、それは突然始まったものじゃない。
彼が父になろうとして、必死に掴んだものだと、私は知っている。
だから、無下にできない。
煩わしいと思う日があっても、突き放せない。
――嬉しくないわけでは、ないから。
私はふと思いついて、軽く聞いた。
「お父様は、私が結婚する相手はどういう人なら許すとか、あるんですか?」
「最低でも、俺より強くないとありえないな」
「……この世にいますか、そんな人」
私は笑いながら言った。
だって、氷帝だ。
父より強い人なんて、思い浮かばない。
父は当然のように言う。
「いないなら結婚しなくていい」
「話が飛躍してます」
「飛躍していない」
「してます」
私は肩をすくめた。
「ふふっ……私が結婚するの、何年後になるんですか」
「ならない」
「断言しないでください」
「一生、俺の娘でいていいんだぞ」
「結婚しても、私は一生お父様の娘ですよ」
そう言うと、父の目が僅かに揺れた。
ほんの一瞬。
それから、いつもの顔に戻る。
「……そういう言い方はずるいな」
「ずるいのはお父様です」
馬車が揺れる。
窓の外に、屋敷へ続く道が見えた。
帰る場所がある。
迎えに来てくれる人がいる。
当たり前みたいに、隣に座っている。
(……幸せって、こういうことなのかもしれない)
恥ずかしくて、面倒で、困るのに。
胸の奥が、温かい。
父がぽつりと呟いた。
「……フィオナは、今日もよく頑張ったな」
「ありがとうございます」
「いつも通り、世界一可愛い」
「それいります?」
「いる」
「……もう」
私は小さく息を吐いて、外套の襟を指でつまんだ。
父の体温が、そこに残っている気がした。
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