今日から全人類でジャンケンをします。
「あれ、ジャンケンって今日だっけ」
台所から母の声がした。
「何時から?」
歯ブラシをくわえたまま、
「十時」と答える。
トースターが鳴った。
「講義中じゃない」
「なくなんねーかな」
母はパンにバターを塗りながら、
「すぐ終わるでしょ」と言った。
そんなもんか、と思う。
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大学。
「おはよ」
隣の田中が鞄を置く。
「今日、十時だよな」
「ジャンケン?」
「講義なくなんないかな」
「すぐ終わるって」
そりゃそうか。
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九時五十分。
ピンポンパンポーン。
天井のスピーカーが鳴る。
『十時になったらジャンケンを始めてください。本日は近くの方と行ってください』
教室がざわつく。
教授が笑いながら言う。
「余ってるやつは私とやるぞー」
みんな適当に席を立つ。
俺はそのまま田中と向き合った。
「最初はグーからだよな」
「たぶんな」
十時。
サイレン。
あちこちで声が重なる。
「最初はグー、ジャンケン、ホイ」
パー。
田中が「あー」と言った。
勝ったらしい。
それだけだった。
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帰宅。
「どうだった?」
母が聞く。
「勝った」
「あら」
父がネクタイをゆるめながら言う。
「俺、部長だったんだよ。気ー使うわ。負けてよかった」
母が笑う。
「私はお隣の鈴木さんに負けちゃった」
テレビの音が流れている。
ただそれだけの夜。
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翌日。
『昨日勝った方は屋外へ出てください』
講義を抜けて外に出る。
校庭に何人か集まっている。
思ったより少ない。
風が冷たい。
同じゼミの高橋と目が合う。
「やる?」
「うん」
土の匂いがする。
教室より少しだけ静かだ。
「最初はグー」
ジャンケン、ホイ。
チョキ。
勝った。
胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。
二回勝っただけなのに、
なんとなく運がいい気がした。
帰り道、無駄にコンビニに寄った。
意味もなくアイスを買った。
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週末。
雨。
『本日のジャンケンは雨天のため延期です』
中止か。
窓の外を見ながら、ちょっとだけほっとした。
世界規模のイベントなのに、
雨には勝てないらしい。
変なの。
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火曜日。
三回目。
相手はサークルの後輩だった。
「最初はグー」
ジャンケン、ホイ。
チョキ。
負けた。
「あ、すみません」
後輩が頭を下げる。
「いや、いいよ」
ほんとに、どうでもよかった。
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家。
「今日負けた」
「そっか」
母は味噌汁をよそいながら言った。
「鈴木さんのとこ、息子さんまだ勝ってるらしいよ」
「へえ」
「強いのかしらねえ」
父が新聞をめくる。
「会社、今日も何人か呼ばれてたな」
湯気が上がる。
それだけ。
俺はもう呼ばれない。
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水曜日。
十時。
窓の外の校庭に、何人か立っている。
腕を組んだり、スマホを見たりしている。
サイレン。
遠くで「最初はグー」が重なった。
小さくて、よく聞こえない。
あ、まだやってるんだ。
少しだけ寂しい。
すぐ忘れた。
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それから、ジャンケンの話題は減った。
講義。
バイト。
レポート。
いつも通り。
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久しぶりに母が言った。
「鈴木さんの息子さん、まだ勝ってるんだって」
「へえ」
「次、海外らしいよ。ブラジルだって。旅費大変って」
味噌汁をすすりながら、
「ふーん」と答える。
「パスポートとか取らなきゃって大騒ぎしてた」
テレビでは天気予報。
洗濯物の話。
明日のゴミ出し。
その流れで、
「まだやってたの、あれ」
と、口に出た。
母が笑った。
「ねえ」
湯気がゆっくり消えていった。




