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この世界で、君だけが死なない【※頭から書き直します】  作者: しげみち みり


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第8話 告白の順番

 六月九日。十六時間。朝の光はいつもより水っぽくて、カーテンの隙間をくぐると、部屋の埃がきれいに並んだ。並ぶ、というより、時間の網に引っかかっている。落ちきる前に、昼が来てしまう季節になった。

 登校の道は短い。短いけれど、いつもの信号は待ち時間が長くて、渡る前に別の色に変わる。踏切は遅れて鳴る。電車は先に通り過ぎる。僕は手帳に、いつものように細い文字で書いた。

 〈六月九日 十六時間〉

 数字を書き終えたとき、通知が鳴った。凪からだ。短い一文。

 〈今夜、言って〉

 言って。何を、と問うまでもない。画面の白に文字が沈んでいくのを見ながら、喉が乾いていった。世界が短くなると、喉が乾く。選ぶ言葉の数が減って、残った言葉の温度が上がる。熱いものは、早く冷める。冷める前に、焼きつけなければいけない。

 教室は、机がまた詰められていた。二つ分の間隔が一つになり、窓際の列が消え、黒板の端から文字が溢れだす。森本は「おはよう」と言ってから一呼吸置いて、「今日中に配るもの」とだけ言った。配るものは少ない。少ないのに急いでいた。急ぐのは、時間がこちらより先に行くからだ。

 凪は授業のあいだ、ほとんどノートを取らなかった。代わりに、机の下で親指の腹を指先で押して、白く戻るのを眺めていた。現像液に触れすぎた指。皮膚がふやけやすくて、でも、触れるとあたたかい指。僕は視線を紙に落として、書くふりを続けた。鉛筆の先は同じ行を往復し、黒が少しずつ濃くなる。

 昼休み、暗室の前で待っていると、凪がカーテンの隙間から顔を出した。目が少し赤い。泣いたのではなく、暗さに慣れていた目が光を嫌っただけだとわかった。

 「今夜、跨線橋で」

 それだけ言って、彼女はまた暗室に戻った。残った薬品の匂いが、廊下の空気を薄く甘くする。僕はその匂いに背中を押されるようにして、教室へ戻った。

 午後の授業は短い。短いぶん、先生の声は早い。早いのに、内容は少ない。必要なものだけを並べ、余白を捨てる声。凪は窓の外を見ていた。雨のない雲が低く、校舎の角にひっかかっている。雲の影だけがグラウンドを斜めに横切り、子どもみたいに転んでは、すぐに薄くなった。

 放課後。十六時間のうちの、いちばん短い時間。僕らは駅へ歩く。商店街のシャッターは半分下がり、店主の顔が半分見える。半分見える顔はどれも似ている。時間に似せられていく顔。凪は、歩きながら手の甲を一度見た。昨日の負の数字は、薄く残っている。

 跨線橋は、線路の上に淡い影を落としていた。階段の金属に触れると冷たく、汗ばんだ指が少しだけ貼りつく。上がりきると、向こう側へ伸びる鉄の線が、夕方の浅い光をまっすぐ弾いた。ホームの時計は、秒針が時々跳んだ。跳んだ秒のあとに、誰も気づかない沈黙がひとつあって、それから列車の風が来た。

 「ねえ」

 凪が最初に口を開いた。声はいつもより少し低くて、それでも震えていない。決めた人の声だ。

 「順番の話ばかりしてないで、好きって言って」

 世界の中心が軋む音が、ほんとうにした。耳の外ではなく、内側で。軋むのはたぶん、僕の臆病だ。いつまでも理屈の中継地点に隠れて、ことばの芯まで行かない癖。癖は便利で、卑怯だ。

 「……好きだ」

 言って、息が止まった。止まった、と思って、また動いた。動いたと思ったら、涙腺のほうに先に電気が走った。凪は、目を開いたまま笑った。笑いながら、肩でひとつ呼吸をした。

 「うん」

 彼女が息を吐く。その温度が、僕の胸に届く。届いた温度は、優しいのに重い。結ぶ、というのは、重くすることだ。軽いままだと、刃の先が滑る。滑ると、深く切れる。だから、重くする。僕の今の「好きだ」は、凪を中心に固定する行為だ。交換条件には触れない、けれど、結び目に似たものをつくる。写真に写るとき、真ん中でピントが合い、周りが少しぼけるように、焦点の位置を強くする。

 列車が、下を通り過ぎた。鉄と風の音が重なって、僕らの体を薄く震わせる。跨線橋の柵に背中を預けると、金属の冷たさが背骨に沿って上がってきた。凪が近づいて、肩が触れる。肩の幅ほどの距離がなくなる。風に混じって髪の匂いが来る。薬品と太陽と汗と、どれでもない、凪の匂い。

 抱き合った。抱き合うと、世界の輪郭がいったん薄くなる。薄くなると、内側の温度が浮き上がる。列車がもう一本、違う方向から来る。息を合わせる。彼女の額が僕の首筋に触れる。ひやりとして、それからすぐ温かくなる。温度は、信号だ。僕らがここにいるという合図。

 「もう一回」

 凪が小さく言った。僕はもう一度、同じことを言った。今度はさっきより少し短く、少し高く。「好きだ」。二度目のほうが、刃の先に強い膜が張られた気がした。言葉は、回数で厚くなる。

 日が落ちるのは早い。僕らは階段を降り、ホームに並んだ。電光掲示板は次の列車の時刻を示し、それがすぐに消え、数字が滑るみたいに次へ移る。人が多い。多い、というより、密度が高い。短い時間に行き先を詰め込むから、人の流れが濃くなる。濃いのに静かだ。短いと、声も短い。短い声は、遠くへ行かない。

 ホームの端に、影が差した。見覚えのある、端でしか見えない、見知らぬ少年。視線の端に引っかかる。顔の半分だけ。制服の裾。乾いているのに、濡れた影。凪も気づいたのか、肘が小さく動いた。

 「いた」

 僕は追う。人の流れを縫い、肩と肩の間を抜け、少年の立っているはずの場所へ。秒針が三つ、飛んだ。飛ぶ、とわかるのは、飛んだあとに残る穴の形を覚えているからだ。視界が白く欠ける。白い欠け目の向こうに、少年が一枚ぶん下がる。先頭だ。こちらが近づく前に、世界の階段が一段落ちる。落ちた段に残るのは、靴跡ではなく、温度だけ。

 「待って」

 声が遅れて出る。遅れて出た声は、少年の肩に届かない。届いたとしても、彼は振り向かない。振り向かなくても、絶対に見えている。見えているのに、見ない目。見ないまま、彼は人混みに溶けていく。溶ける、というより、薄まる。薄まった色は、すぐに背景と同じになる。

 僕は立ち止まり、呼吸を数えた。二つ。三つ。四つ。その間に、ホームの時計は秒針をひとつ飛ばし、発車ベルが短く鳴った。凪が肩で息をしながら追いつく。目が揺れている。目の揺れが止まる前に、僕は彼女の手を握った。握る、と決める速度のほうが、世界が短くなる速度より、少しだけ速かった。

 「行こう」

 駅を出ると、空は夜の手前で止まっていた。止まっているのに、薄い。薄いのに、冷える。凪は笑った。笑った顔のまま、小さく顔をしかめた。

 「今、階段で、少し滑った」

 指を見せる。絆創膏が巻かれている。さっき暗室で貼り替えたばかりのものとは違う新しい角度。少し血が滲んで、紙の上の赤みたいな色になっている。

 「痛い?」

 「痛いって、まだ安心できるね」

 言って、彼女は照れたように口元を押さえた。痛みは合図だから、安心してしまうのは正しい。正しいけれど、残酷だ。合図が消えた場所は、切られているのに気づけない。僕は彼女の指先を包む。冷たくしてから、温める。温度を移す行為は、すぐに結果が出るから好きだ。世界が短くても、これはすぐに効く。

 家に戻る前に、僕は駅前のベンチで手帳を開いた。今日の欄に、震える文字で書き足す。

 〈告白:好きだ×二〉

 〈効果〉結び目の固定。交換条件に触れず、中心の焦点を増す。

 〈副作用〉代償の回収が加速。

 そこで一度ペンを止める。胸の奥で、納得の悪寒みたいなものが立ち上がる。昨夜、手の甲に浮かんだ負の数字。あれはつまり、支払いの印だった。今日の「好きだ」は、結び目を作ると同時に、僕の中から何かをさらに払う行為だ。払ったぶん、凪の順番は微かに遅くなる。微かでも、遅くなる。その微かを欲しがる自分に、少し吐き気がした。

 〈代償の回収方法:誰かを“好きだ”と宣言すると、僕の過去がさらに削られる。ただし、相手の順番は微かに遅くなる〉

 文字にしてしまうと、ひどく冷たい。冷たさに、救われることがある。熱いほうが、手が滑る。冷たいほうが、刃の角度が見える。冷たさの中で、最後に残る一文に手が伸びかけた。伸びかけて、止めた。止めた文章は、喉のところで丸くなる。

 ——君の順番は、どこ?

 聞けば、少しだけ楽になる。少しだけ、準備ができる。相談のかたちをしているくせに、答えを欲しがる自分の弱さが、喉の奥で鈍い音を立てた。訊かれたほうだって、苦しい。訊くことで結び目は強くなる。でも、別のどこかが切れる。わかっているのに、裏切るみたいにこの質問はいつまでも舌の上で甘く、危険だ。

 僕は飲み込んだ。喉の内側が熱くなり、目の後ろが痺れた。代わりに、別の行を書く。

 〈行動〉凪の写真を増やす。中心性の太い線を二重にする。端の少年の写り込みを追跡。先頭の足場の温度を測る。

 ペン先が止まったとき、外で救急車の影が通った。サイレンは鳴らない。鳴らす余白がないのだと、もう理解してしまっていた。静かな輪郭だけが、窓の向こうの空気をへこませた。へこみはすぐに元に戻る。戻った、と思った瞬間、夜のほうが一段分、僕らのほうへ滑って来た。

 部屋の天井には昨夜の糸がまだ垂れていて、洗濯ばさみに挟まれた十数枚の写真が風もないのにわずかに揺れた。写真どうしが触れ合って、小さな雨音がする。雨のない日の、写真の雨。僕はその下で、録音アプリを開く。息を静かにして、耳を澄ます。

 “シャリ”

 遠くで一度。薄い刃が厚紙を撫でたような音。

“シャリ”


 二度目は少し近い。電柱の根元に白い粉が立ち、すぐに沈む。

 “シャリ”

 三度目は路地の角。影が一瞬、別の形に結び直される。

 “シャリ”

 四度目は窓の外。ガラスの震えが皮膚に触れる。

 “シャリ”

 五度目は机の上。紙が一枚、軽く跳ねる。

 “シャリ”

 六度目は胸の真ん前。心臓が一回、誤って飛び越した。

 “シャリ”

 七度目は喉の奥。飲み込んだ質問の縁を、刃が軽く撫でる。

 “シャリ”

 八度目は、耳の内側。鼓膜の裏へ指で触れられたみたいな、こそばゆい、そして、怖い音。

 八度。録音の波形に、小さな山が等間隔で八つ並ぶ。保存する。日付と数字を打つ。六月九日。十六時間。切断音、八回。保存ボタンの光が小さく震え、すぐ暗くなる。

 手の甲が温かくなった。見なくてもわかる。数字が浮かぶ。〈−2〉。さっき駅で、二度、言った。二度、払った。二度、結んだ。二度、遅らせた。二度、僕のなかから何かが抜けた。何が抜けたのか、目を閉じて確かめる。

 庭の柿の木の高さを測ったときに使った紐の長さ。「一年生になったら」の歌詞の三番。父が作ってくれた紙飛行機の折り目。母の「おやすみ」の二音目の上がり方。昨日、確かに低くなっていた音が、今日はもう少し平坦だった。抜けたぶん、代わりに残るものもある。残ったものは、今日の凪の手の温度。跨線橋の金属の冷たさ。列車の風の方向。結んだ言葉の重み。重みは刃に強い。強いけれど、重い。

 呼吸が浅く速くなる。浅く速い呼吸は、短い夜にちょうどいい。長い息を吐く時間は、もうどこにもない。僕は手帳を閉じ、枕元に置いた。天井の写真が、小さく鳴る。紙の音。降らない雨の代わりに、落ちてくる音。

 スマホが震えた。メッセージ。凪だ。

 〈さっきの、二回。ずるい〉

 〈どっちも本気〉

 〈知ってる。だから、ずるい〉

 〈また言う〉

 〈明日も?〉

 〈明日も〉

 既読の数字が増える。増えるたび、胸の中の空洞が少し縮む。縮んだ空洞に、別の風が通る。写真の雨がまた一枚、音を作る。

 目を閉じる。飲み込んだ質問は、喉の内側でまだ丸い。丸いまま、眠りの手前に引っかかっている。丸いものは、刃に強い。角がないと、切れにくい。切れにくいあいだに、僕は息を整える。整える、ふりでもいい。ふりの半分は現実にくっついて、現実のほうがふりに寄ってくる。

 痛みは、安心だった。さっき凪が言った言葉が、頭の中で柔らかく反復する。安心、という言葉は軽いのに、意味は重い。重いものは落ちにくい。落ちにくいものを、僕らは増やそうとしている。増やせるのは、きっと今日みたいな日だ。好きだ、と言える日。言って、払って、遅らせる日。遅らせた一枚に、笑いと、金属の冷たさと、紙の音を焼きつける。

 眠りは浅い。浅い眠りの底で、誰かが小さく歩く音がした。先頭の少年かもしれない。先頭は、ここには来ない。来ない、とわかっていても、耳が待つ。待つあいだに、写真の雨がまたひとつ、落ちる。音は小さいのに、はっきりしている。はっきりしているあいだは、まだ、書ける。

 朝がすぐそこに来ている。十六時間の朝。短いのに、明るい。明るいのに、薄い。薄いのに、温かい。温度は裏切らない。裏切らないものをひとつ、ふたつ、みっつ。列車の風。金属の柵。結び目の重さ。凪の指の絆創膏。痛いのは安心。安心は、刃の前で有利。今日も、遅らせる。遅らせるために、言う。言って、飲み込む。飲み込んだものは、まだ僕の内側にある。ある限り、僕はまだ、順番のリストの外側で、紙を厚くできる。

 最後に、手帳を開いて、一行だけ足す。

 〈質問は、最後の日まで取っておく〉

 書いてから、そっと笑った。笑いは、紙に焼けない。焼けないけれど、匂いに残る。残った匂いを、明日嗅げるかどうかは、明日になってみないとわからない。それでも、匂いのために、今夜は眠る。眠って、短い朝に起きる。起きたら、また書く。書いて、また言う。好きだ、と。結び目は、強くなり、重くなる。重くなるぶん、刃は迷う。迷っている間に、もう一枚。そうやって、僕らは今日を延ばす。短い今日を、少しだけ。少しだけでも。少しだけが、うれしい。うれしい、と書いたら、胸の痛みがやわらいだ。やわらいだ痛みは、安心だ。安心は、たしかにここにある。

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