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この世界で、君だけが死なない【※頭から書き直します】  作者: しげみち みり


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第7話 雨のない日、写真の雨

 六月八日。天気予報は三日続けて外れている。雨雲は低く街を覆い、風は湿っているのに、雨粒は落ちてこない。「雨期なのに降らないのは、雨粒が“落ちきる時間”が消えたからです」と、朝のニュースは淡々と言った。言葉の後ろに、数字が小さく並ぶ。十七時間。六月八日。キャスターはいつもの笑顔を貼りつけながら、短い文章を読み終えると、画面はすぐに広告へ切り替わった。余白を許さない、手際のよさ。

 学校の昇降口は湿っていた。床に水滴の輪が残っているのに、濡れた靴はひとつもない。校舎の裏に回ると、網フェンスに洗濯ばさみで写真がずらりと並んでいるのが見えた。凪が暗室から持ち出して、風を通すために干しているのだ。空から降りない雨のかわりに、ここでは写真が下へ落ちようとして、洗濯ばさみにつかまっている。揺れるたび、印画紙どうしがかすかに触れ合い、小さな雨音みたいな紙の音が続いた。

 「来たね」

 凪は、フェンスの影にしゃがみこんで、現像液で荒れた指先に絆創膏を貼っていた。指先の皮が白くふやけている。僕が近づくと、凪はむくりと立ち上がり、フェンスの列を順に指さした。

 「今日のはね、少しうまくできた。スピード現像に慣れてきたのかも。時間が短いから、焦点を先に決めるの。迷ってたら像が消えちゃうから」

 印画紙には、僕と凪、桐生、クラスの子たち、堤防、教室、商店街、電光掲示板の前、職員室の掲示、空白になった座席表——見慣れたものが並んでいた。そこに、見慣れない顔が紛れていた。ただの通行人じゃない。何枚もの写真の端、端、端。必ず一番外側に立っている、ひとりの少年。どの写真でも顔は半分しか見えず、視線はフレームの外を見ている。髪は少し長く、制服の裾は乾いているのに、どこか濡れて見えた。

 「この子、ずっと端っこにいるの。どの写真でも。きっと“順番の先頭”なんだと思う」

 凪は言いながら、彼の輪郭を爪でそっとなぞった。紙の上の黒がかすかにざらついている。印画紙が像を掴んだときの、頼りない手触り。

 「名前、知ってる?」

 「知らない。クラスのグループにも、名簿にもいない。掲示板も、今日の更新分まで見たけど、痕跡がない。なのに、写る」

 風が少し強くなった。写真が一斉に揺れ、洗濯ばさみがきゅっと鳴った。空は厚いのに色が薄い。落ちてこない雨が空中でほどけ、そこに見えない網が張られているみたいに、街の音を柔らかくした。

 「探そう」

 僕は言った。「放課後、二人で」

 凪はうなずいた。目の下の影は昨日より浅く、代わりに頬のところに薄い赤みが差している。眠れていないのに、体温だけは正直だ。

 午前の授業は、さらに短かった。出欠は取らない。配られるプリントの右上には、今日も小さく〈17h〉の印字。黒板の端には「雨天時の時程」と白チョークで書いてあるのに、もう誰もその列を見ない。雨は来ない。時間が雨の落ちる余白を消してしまったから。体育は中止にならないのに、グラウンドに水たまりはない。生徒指導の先生が「傘の貸し借りは——」と口を開いて、続きが出てこないまま笑ってごまかした。そういう笑顔は、この十日で上手になった。

 昼休み、暗室に寄ると、凪は現像液のトレイの前に立ったまま、息を数えていた。

 「酸化が早い。配合を変えたほうがいいのかな」

 「時間が短い分、反応も短いってこと?」

 「うん。濃度が高いと、像が一気に立つけど、余白も一緒に焼けちゃう。薄いと、像が立つ前に昼休みが終わる」

 凪は笑った。困った顔で笑うのが上手になってしまった。僕はフェンスの列から一枚抜き取り、少年の写っている写真を光に透かした。屋外の湿り気が、紙を少しだけ柔らかくしている。紙の端は冷たい。真ん中は指の熱でぬるい。温度差は、そこに何かが堆積しているという合図だった。

 放課後、僕らは校門を出た。十七時間のうちの放課後は、ほんの指先ほどしかない。あらかじめ決めておいた経路に沿って、早足で歩いた。堤防、駅前、商店街、図書館、空き地、公園、河川敷——写真に写りがちな場所を片端から押さえる。人はいる。少ないけど、ちゃんと歩いている。それぞれの用事を抱え、それぞれの速度で。誰もが急いでいるのに、誰も走らない。走る余白を失って、歩く速度だけが残ったみたいな夕方だ。

 見つからない。見つからないこと自体が、彼が“先頭”である証拠だ。先頭は常に崖の縁に立っていて、こちらが追いつく前に一段分、世界が削れ、足場が前へ逃げる。追いかけるほど距離は縮まらない。わかっていても、探す手は止まらない。止めたら、そこで何かが決定してしまう気がするから。

 図書館の自動ドアは、開いたまま閉じるのを忘れている。受付のカウンターには〈窓口は朝と夜のみ〉という張り紙があった。昼が短すぎて、真ん中の時間帯は窓口を開く意味が薄れたのだろう。市役所の前を通りかかったときも、同じ張り紙が揺れていた。「朝」と「夜」が太字になり、「昼」は白いままだった。言葉の重みは、フォントの太さに出る。太くない時間は、世界から軽く外されやすい。

 「ねえ」

 凪が急に立ち止まった。視線の先、横断歩道の反対側。自動販売機の影。そこに、少年が立っていた。写真のなかと同じように、半分だけフレームに入り、半分はこちらから逃げている。顔は色が薄く、輪郭はくっきりしている。こちらを見ているのに、見ていない目。見ていないのに、見られている目。

 「——!」

 息が喉につかえて、声にならない。信号が青に変わるのを待って、横断歩道に踏み出した。白線の上に載ると、足裏がかすかに冷えた。少年は動かない。距離は縮む。縮んだ、と思った瞬間、信号がふたたび点滅し、横断歩道の真ん中で、時間がひとかけら、削れた。目を開けて次に瞬きをするあいだに、少年はいなかった。

 「先頭だ」

 凪が呟いた。悔しいとか、悲しいとか、そういう感情の名前が立ち上がる前に、ただ事実だけが胸に落ちた。先頭は、こちらが踏み込む前に一段消える。消えた段の向こうに、まだ次の段があって、そこに少年が立つ。彼はいつも端で、いつも先頭だ。端と先頭はよく似ている。どちらも、真ん中より寒い。

 そのあとも、二人で何度かその影を追った。駅のホームの端。河川敷の階段。万年橋の上。ニュース映像の切り抜きで見たことのあるような場所ばかりだった。カメラが好きな場所と、刃が先に入る場所は似ている。見つからないまま、空は浅く暗くなった。

 凪の声が、ときどき急に遠くなった。すぐ隣にいるのに、耳まで届くまでに時間がかかる。音の粒が空気の網に引っかかって、こちらに落ちきらない。雨と同じだ。雨粒が落ちきる時間が消え、声の粒も落ちきらない。僕は立ち止まり、凪の口の動きに合わせて意味を拾う。拾えるうちは、まだ大丈夫だと思いたい。

 写真のことだけは、どんなときもはっきり残る。僕はフェンスの列からもう一枚、少年の写った写真を抜いた。親指の腹で、写真の端に小さな印をつける。爪で紙の繊維をほんの少しだけ倒す。そこが、世界の端の温度だ。冷たい。冷たくて、少し湿っている。雨が降らないかわりに、紙が湿り、印が濃くなる。

 夜になった。家に帰り、窓を少し開け、録音アプリを起動する。十七時間の夜は短く、始まってすぐ終わる。終わる前に、音が来る。

 “シャリ”

 遠くで一度。

 “シャリ”

 少し近くで二度目。

 “シャリ”

 三度目は窓の向こうで。

 “シャリ”

 四度目は路地の角。

 “シャリ”

 五度目は電柱の根元。白い粉が舞い、すぐ消えた。

 “シャリ”

 六度目は胸の前。

 “シャリ”

 七度目は、僕の耳の内側で鳴った。鼓膜の裏を誰かが指で軽く撫でたみたいな、反射的に体が跳ねる音。録音の波形に、七つの山が等間隔で並んだ。保存ボタンに触れた指先が震える。

 そのとき、手の甲がじんわりと温かくなった。何かに触れた覚えはないのに、皮膚の内側から薄い熱が上がる。見下ろすと、そこに数字が浮いていた。灰色のインクで押したような、でも皮膚の色の層からにじみ出たような、曖昧な濃さで、〈−7〉。

 「……何、これ」

 声に出すと同時に、胸の奥で何かがほどけた。分かってしまったのだ。切断音の回数が、その日消える“人数”であり、僕に刻まれた負の数は、“残すために僕が支払った何か”の数だ。代償の単位は、僕の過去。手の甲に浮いた〈−7〉は、僕のなかから七つ、何かが抜け落ちた印だ。七つ、削ったのは、たぶん今夜だ。桐生のメモに自分で書き込んだ〈代償〉の欄は、そういうことだったのだ。

 目を閉じた。暗闇に指を置くみたいに、記憶の棚を確認する。幼い頃の砂場。スコップで掘った穴が、思い出そうとした瞬間、少し広がって崩れた。自転車に初めて乗れた日の午後。父の手が背中から離れた瞬間の風の温度が、ほんの少し薄い。母の声のイントネーション。あの人が「おはよう」と言うときの、二音目のやわらかい上がりが、一段分低くなっている。耳のなかの階段がひとつ欠け、音の行き先が少し変わる。

 「やめてくれ」

 誰に向かって言ったのか、自分でもわからなかった。世界か。機構か。刃の向こう側にいるものか。あるいは、今朝の自分か。代償の欄に線を引いた、自分の手か。

 それでも、数字は消えない。皮膚の表面にあるのに、内側から滲み続けるインクのように、見える。指でこすっても薄くならない。僕は手帳を開き、ページの隅に小さく〈−7〉と書き写した。書き写せるあいだは、まだ、僕の側にある。

 翌朝、母の声はたしかに少しだけ平坦だった。台所で「起きて」と言うとき、いつもより二音目が低かった。僕は食卓につき、味噌汁の湯気に顔を近づけ、匂いと温度を確認する。手の甲の数字は薄くなったが、消えない。消えないということは、また増えるということだ。数字は足し算に向いていて、引き算に向いていない。足されるたび、僕の中の何かが引かれていく。

 学校に行くと、凪がフェンスの前で待っていた。今日は雲がもっと低く、空がもっと浅い。風も湿っている。雨は降らない。代わりに、フェンスの写真がまた増えていた。凪は洗濯ばさみの列の一番端を指さした。

 「昨夜の、七回」

 「うん」

 「七人、消えたのかもしれない」

 「たぶん」

 凪は言葉をしまい、僕の手の甲を見た。目が細くなり、すぐに広がる。

 「その数字、消えないの?」

 「薄くはなるけど、消えない」

 「痛くない?」

 「痛くはない」

 痛くないほうが、よほど痛い。凪は僕の手にそっと触れ、指の腹で数字をなぞった。皮膚がわずかに温かくなる。温度は思い出せる。温度があるかぎり、まだ、書ける。

 「先頭の子、今日も写ってる」

 凪が別の写真を示した。昨日の駅前、横断歩道、風に揺れる広告旗。少年はそこにいて、半分だけ、こちらを見ている。見ている、のに、見ない。写真の端の温度は、やはり冷たい。僕はその端に、また小さく印をつけた。

 「市役所、今日も朝と夜だけみたい」

 「うん。昼の窓口はない」

 「朝に行こう。固定条件の資料、もう少し詳しく取りたい」

 「行こう」

 行こう、と言いながら、僕は自分の中でまた何かがほどけるのを感じていた。抵抗の方法を増やすたび、代償の欄は少しずつ埋まる。紙の上では埋まるけれど、僕の中では空く。空いたぶんの風が、空洞を通り抜ける音がする。耳の奥で小さく鳴るその音は、切断音に似ているから、余計に腹が冷える。

 その日の授業は、さらに短く、放課後はさらに短く、夜はほとんどなかった。録音の準備をしながら、僕は手帳に今日の欄を作る。

 〈六月八日 十七時間 切断音七〉

 〈雨〉降らない。落ちきる時間が消える。

〈写真〉フェンスに雨の列。端の少年。先頭の証拠=見つからないこと。

〈市役所〉窓口は朝と夜のみ。昼は白。

〈凪〉声が遠ざかる瞬間が増える。温度は強い。指の腹は現像液で白い。

〈自分〉手の甲に〈−7〉。代償=過去。幼少の砂場/自転車の午後/母のイントネーションの二音目。

 書きながら、僕は思った。総和は変わらない。世界は持っている分を分配しているだけだ。刃は等間隔に落ち、雨は落ちきらない。僕が持っていた過去を七つ差し出すことで、誰かの今日が一枚ぶん厚くなるなら、それは納得できるのか。納得できる、なんて言葉を安く使ってはいけない。でも、使わなければ前に進まない。その卑怯さを、紙の上で認める。

 夜、窓の外を見ながら、僕はふと思い立って、部屋の天井から糸を何本も垂らした。洗濯ばさみをいくつも取り出して、印画紙の端にかませる。暗室の匂いが部屋の空気にしみこむ。写真は軽く、少し湿っていて、光を受け止める面がやわらかい。糸にぶらさがったそれらが、風に触れてゆっくり回転する。向きを変えるたび、かさりと紙が紙に触れる。「雨のない日、写真の雨」と、口の中でつぶやいてから、僕はひとつ笑った。自分のつけた章題めいた言葉が、思ったよりしっくりきたからだ。笑ったことも、きっとそのうち薄くなる。薄くなる前に、書いておく。

 「雨、降ってるみたい」

 いつの間にか凪がドアのところに立っていた。母に一声かけて上がってきたのだろう。凪は写真の間を縫って部屋に入り、指で一枚をつついた。紙の端が小さく鳴る。二枚めが追いかけて鳴る。三枚め、四枚め、五枚め——音の粒が、空気の網にひっかからずに落ちて、床に届く。

 「雨が降らないなら、降らせればいいんだ」

 自分で言っておきながら、手の甲の数字がじわりと重くなる。代償は、僕の過去。過去が薄くなる。薄くなっても、音は残る。残っているあいだに、できることをする。凪の声が遠ざかる瞬間、僕は写真をつついて音を増やす。音の数は、切断音の数とは違うリズムで、僕らのほうへやって来る。

 「先頭の子も、いつか降る?」

 凪が見上げる。糸のあいだから、彼女の目がこちらを見る。先頭の子は、今日も端にいた。端で、こちらを見ていた。名前はない。名前をつけたら、きっと刃が真っ先にそこを狙う。だから、まだ、つけない。名前は、いつか呼ぶためにとっておく。

 「降らせよう。落ちきる時間を、こっちでつくる」

 落ちきる時間は消えた。なら、僕らが別の時間で補えばいい。写真の雨の落ちる時間。紙が紙に触れて鳴る音の時間。手の甲の数字がまた増えたとしても、そのぶん厚みが増える誰かがいるのなら、僕はそれを受け取って、書いて、貼って、焼きつける。紙は柔らかく、残酷なほど正直だ。正直なものに頼るのは怖い。でも、今はそれしかない。

 「ねえ」

 凪がそっと寄ってきて、僕の肩に額を寄せた。体温が移る。温度は裏切らない。裏切らないものがひとつあれば、まだ戦える。戦うという言葉は大げさで、幼い。でも、今の僕にはそれがいちばん近い。

 「もし、あなたの数字が増えすぎたら、わたしのを分けていい?」

 「そんなの、どうやって」

 「写真の端に、わたしの指で印をつける。端の温度を、わたしのほうに少し引き寄せる。そうしたら、あなたの代わりにわたしが少し思い出を落とす。……やっぱり、だめ?」

 「だめだよ」

 即答した。凪は拗ねたように口を尖らせて、それから笑った。笑いながら、目の端に少し水を溜めた。降らない雨のかわりに、そこだけ光った。

 「じゃあ、せめて。一緒に数えよう」

 「うん」

 夜が、短いのに、長く感じた。写真の雨が小さく降り続ける間、外ではまた、遠くで紙を切る音がした。七度。あるいは、また新しい数。音は重なり、別々のリズムで落ち、別々の深さに沈む。僕は手を伸ばし、写真の端にそっと触れた。冷たさは、そのまま刃の冷たさに似ている。似ているから、逃げない。逃げないで、指で印をつける。

 端を覚える。端の温度を忘れないうちに、端に線を残す。端に線があれば、真ん中は最後まで持つ。そう信じて、僕はまたひとつ、小さな傷を紙につけた。紙は痛がらない。痛がらないかわりに、ずっと残る。残るものに頼って、今日も一枚、遅らせる。

 手の甲の数字は、いつのまにか少し薄くなっていた。薄くなるのは、消える前兆ではない。次にまた、濃くなるための呼吸だ。薄いあいだに、書く。撮る。触る。呼ぶ。呼んだ名前のぶんだけ、刃は迷ってくれる。迷っている間に、雨のない日に、写真の雨を降らせる。紙の雨は、夜の短さに逆らって、細く長く、降り続いた。

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