第6話 逆転の代償
桐生のアパートは、駅から歩いて七分の古いワンルームだった。商店街を抜け、細い路地を二本曲がる。昼なのに、もう夕方の体温をしている空気が、コンクリートの割れ目から上がってくる。ポストにはチラシが半分だけ差し込まれ、風がめくるたびに「適応のコツ」という黒い文字がちらついた。
二階の踊り場で立ち止まる。鉄の手すりは手のひらにべたつき、階段を上がったばかりの呼吸がそこに貼りつく。部屋番号の札は簡単に見つかった。写真部の新歓で配った地図にも書いてある。ドアの前に立ち、ノックする。返事はない。ふと見ると、扉は完全に閉まっていなかった。隙間から、薄い空気が出入りしている。
「……先生」
呼びかけると、冷たい匂いが応えるみたいに喉に降りた。ゆっくり押す。蝶番が音を立てず、内側に闇が開いた。
空白の痕だらけだった。床に四角い日焼けの跡がいくつも残り、そこにあったはずの棚や机が、影だけを置いてどこかへ行ったらしい。壁にはピンの穴だけが点の星座になっていて、貼られていた写真は消えていた。消えたというより、最初からなかったみたいに壁紙はまっさらで、それでも針の痕は正直で、確かに何かが留められていたと教えてくる。
ローテーブルの天板には、紙が一枚だけ残っていた。乱暴に破れかけたメモ。角が湿っていて、手に取ると柔らかい。文字は細く均一で、急いでいるのに綺麗だった。見慣れた字だ。桐生の字。
〈逆転条件:中心と周辺を“交換”。交換対象は、最も中心にいる者と、最も周縁にいる者。交換時、周縁側は“永続固定”=不死、中心側は順番の先頭へ〉
読み終える前に、玄関で小さな音がした。ぱらり、と乾いた紙が落ちるみたいな。振り向くと、ドアの外側に貼ってあった表札のカバーが、ゆっくり剥がれて床に滑り落ちた。透明の薄板の下にあった名札は、白紙に変わっている。そこに黒い字であったはずの「桐生」は、どこにもなかった。四隅のネジ痕だけが、名前の亡霊を四点で押さえつけている。
部屋のなかの空気が、少しだけ軽くなった気がした。軽さは、薄さと同じ意味だ。僕はメモを握ったまま、息を止める。心臓の音が耳に当たって反響する。
桐生は——自分から周縁に移った。メモの条項の通りに。最も中心にいる者と、最も周縁にいる者。中心を僕に指定し、周縁を自分にしたのだ。交換が行われれば、周縁側は“永続固定”になる。不死。代わりに、中心側は順番の先頭。先頭消滅。
「先生、そんなの、勝手だ」
声が出た。部屋の中には誰もいないのに、叱らずにはいられない。勝手に助け、勝手に罰を背負い、勝手に消えるなんて。言いながら、舌が震えてうまく回らない。怒りの下に、別の感情が沈んでいる。感謝でも憎しみでもなく、空洞に近い何か。止めるべき瞬間は、もう切り落とされてしまった。
ローテーブルの隅に、もう一枚、紙切れがあった。レシートの裏。焦げ茶のインクで、短く書いてある。
〈線は増やせ。けど、自分を焼くな〉
焼くな、というのは、暗室の用語じゃない。僕のことだ。中心に長く居続けるということは、あらゆる視線を浴びるということだ。視線は光だ。光は紙を焼く。焼けた紙は、像を得る代わりに燃え跡を残す。燃え跡を残す体が、僕の体だ。
隣で凪が、唇を噛みしめていた。彼女の視線はテーブルの紙から玄関の白紙へ、そこから壁の針穴へと移動し、最後には僕の手元に戻る。
「先生、いないね」
「名前が、落ちた」
「ねえ」
凪は言葉を探すみたいにゆっくりと続けた。
「“永続固定”って、先生が……?」
「たぶん。僕の代わりに」
口にした瞬間、その重さが言葉のほうから逆流して胸に来た。代わりに、という言葉は便利だ。救いにも脅しにもなる。桐生は僕を中心へ押し上げ、自分を周縁に定着させた。これで僕は、順番の最後尾に近くなる。凪の近くに、いられるはずだった。
「でも」
凪が首を振る。黒い髪が肩で揺れた。
「中心があなたひとりなら、わたしは?」
僕は答えられない。頷けば嘘だ。首を振ればもっと嘘だ。凪は深く息を吸い、吐いた。
「帰ろう。ここ、長くいると、削られる」
桐生の部屋を出る。鍵は最初からかかっていない。階段を降りる足音が、妙に響く。踊り場の掲示板に貼られている住民会のお知らせは、タイトルだけが残り、本文が白く抜けていた。白は、綺麗だ。綺麗すぎて、怖い。
学校に戻る頃には、光はもう傾いていた。校門の影が伸びて、僕らの足元を通り過ぎる。グラウンドの土は浅く乾き、転んだら皮膚が簡単に剥けそうだ。部室の前まで来ると、扉が半分開いていた。中から、明るい笑い声がする。凪の声だ。笑いなのに、泣いているように聞こえる。
入ると、暗室のカーテンがベルトみたいに束ねられていて、机の上に写真があふれていた。凪はトングを握ったまま、笑いながら泣いていた。目の端から零れた涙が、頬の途中で光になる。
「見て。写真が増えてるの。わたしたちのやつ。何枚も、何枚も」
机上には、凪と僕の写真が並ぶ。堤防、教室、廊下、商店街のベンチ、電光掲示板の前。どれも構図が似ていて、真ん中に僕がいて、その近くに凪がいる。誰かが撮ったのか、撮らせたのか、撮られてしまったのか。裏にメモはない。印画紙の白い余白に、僕の名前も凪の名前もないのに、二人の輪郭だけがやけに濃い。
「中心性が上がってる」
僕が言うと、凪は涙を拭いながら笑った。
「うん。たぶん、わたしたちは遅くなる。最後のほう」
嬉しい、と彼女は言わなかった。安心、とも言わなかった。笑っているのに、肩は小さく震えていた。中心にいるということは、見られるということだ。見られることは、助かることでもあり、焼かれることでもある。
「先生、ありがとう」
凪は誰に言うともなくつぶやいた。暗室の薬品の匂いが、胸の奥でひとつ跳ねる。ありがとうは届くだろうか。届かなくても、言葉は残る。紙の繊維みたいに。
放課後、校内は早く暗くなる。廊下の蛍光灯は一本おきに消え、理科室の標本がガラス越しに沈黙したままこちらを見ている。職員室の前の掲示では、顧問一覧の桐生の名前が、さらに薄くなっていた。指でなぞると、紙の表だけがざらつき、インクはもう触れない。誰もが知っている名前ほど、消えるのは早いのかもしれない。参照が多いものは、負荷がかかるのかもしれない。中心は強いが、強いものは目立つ。削る刃は、目立つものから見つけるのだろう。
帰り道、凪の家の前で立ち止まった。表札が目に入ったからだ。木の板に焼き印で名字が入っているはずの場所が、紙のように薄い。表面のコーティングが剥がれ、白い層が見えている。指で触れたら、そのまま破れてしまいそうな、危うい薄さ。凪も気づいて、息を飲んだ。
「……うち、こんなんじゃなかった」
「まだ、字はある」
焦げ茶の線は見える。けれど、線の間は白く欠け、家の名前が歯抜けの歌みたいに聞こえる。凪は表札から手を引き、僕の袖を握った。体温はまだ強い。強い体温は、いちばんの救いだ。
「今日はもう、閉める」
凪は玄関のドアを開け、自分の中へ入っていった。その背中が一瞬、薄暗い廊下に溶ける。手を振る僕の影だけが外に残され、少し遅れて縮んだ。
夜は早い。十八時間の一日は、午後のうちに夜を始めてしまう。僕は家に戻る道すがら、ポケットのなかのメモを何度も指で確かめた。紙は柔らかく、汗を吸ってさらに弱くなっていく。
家では、母が短い晩ごはんを準備していた。「今日は二人分ね」と言って、本当に二人分をよそった。テレビのテロップは情報だけを齧り取って、余計な一文を見せない。食べ終わるまで十分もかからない。皿洗いも十分いらない。世界全体が片付けられていく早さに合わせた暮らし方に、僕らは強引に馴らされていく。
部屋へ戻り、机に手帳を置く。ページの上に、桐生のメモをまっすぐ広げた。文字は変わらず、整っている。整いすぎて、冷たい。
〈交換時、周縁側は“永続固定”=不死、中心側は順番の先頭へ〉
同じ文字を、何度も追う。追っていると、行間がやけに深く見えた。そこに何かが落ちていく穴があるみたいに。落ちていくのは、言い訳のほうだ。僕はペンを取り、手帳に新しいページを開く。
〈順番交換の効果:中心の遅延/周縁の固定。総和は変わらない〉
世界の総和は変わらない。誰かが遅れれば、誰かが早まる。僕が遅れれば、桐生が早まる。僕と凪が遅れれば、誰かがふたり分早まる。計算だ。冷たい計算。冷たいのに、体温が上がる。
〈不死をもう一つ増やす交渉〉
書いた。交渉。誰と? 世界か。機構か。刃の向こう側にいる何かか。言葉はまだ曖昧だが、曖昧でも書く。書くことで、曖昧を隅に追い詰められる。紙の隅は、逃げ道がない。
スマホのアラームを閉じ、ボイスメモを起動する。窓際の床に座って、耳を澄ます。外は静かだ。救急車は通らない。鳥も鳴かない。風の音が遠くから薄く寄ってきて、壁にかすって溶ける。
“シャリ”
最初の一回は、小さかった。
“シャリ”
二回目は、昨日より乾いた。
“シャリ”
三回目は、電柱の根元で白い粉が浮き、すぐに散った。録音の波形が、等間隔で山を作る。
“シャリ”
四回目は、路地の角。影がほんの少しだけ形を変える。
“シャリ”
五回目は、窓のすぐ外。反射で自分の顔が揺れた。
“シャリ”
六回目は、胸の奥で鳴った気がした。内側を刃が撫でたような、短い痛み。息を吸い、吐く。波形は六つ並ぶ。六月七日。十八時間。切断音、六回。
指が震える。録音を保存し、ファイル名に日付と数字を打つ。保存のボタンが小さく光る。画面を消し、手帳を開く。さっきまで書いていたページに、今日の欄をつくる。
〈六月七日 十八時間 切断音六〉
〈学校〉顧問一覧の桐生の名、薄く。生徒の写真、中心化。わたしたちの枚数が増える。
〈家〉母は二人分と言って二人分。動線は最初から二人用。
〈凪〉表札、薄紙。字はまだ残る。触れない。
〈機構〉逆転条件のメモ。交換は成立済み。桐生=永続固定。僕=中心化。
〈総和〉変わらない。遅延と前倒しの相殺。救いの分、罰が前へ。
そこまで書いて、ペンが止まる。最後の欄に、書かなければならないことが残っているのに、手が動かない。
〈代償: 〉
空白のまま、残った。書こうとして、書けない。言葉にした瞬間、代償は契約になる。誰かの名前を書いたら、その人に刃が向く気がした。自分の何かを書いたら、その何かはもう戻らない気がした。
代わりに、別の行を作る。
〈交渉案〉
・機構の外郭施設へ再訪。端末から“固定条件”の詳細を抽出。
・桐生の痕跡(紙の跡、写真の針穴、表札のネジ痕)をルートにして、逆参照。
・“永続固定”の複数適用。理論の余白を探す。参照負荷を分散。中心の火傷を薄める。
書けば現実が少し動く。僕はそれを何度も経験した。写真を撮る。音を録る。字を書く。いずれも、世界の端をほんの少し重たくする行為だ。刃が落ちる速度が、わずかに鈍る。鈍っているうちに、次の一手を考えられる。
窓の外は、もう白み始めていた。夜は薄く、朝も薄い。境界が曖昧だから、音はよく通る。遠くの踏切が一度だけ鳴り、すぐやんだ。鳴らす余白がないのだろう。電車は時間より先に通り過ぎ、踏切は後から用事を思い出す。
そのとき、スマホが震えた。通知のアイコン。クラスのグループ。新しい写真が送られてきた。開くと、そこには僕と凪がいた。校門の前、夕暮れ。誰が撮ったのか、わからない。画角がいい。ピントがやけに正確だ。裏にメモはなく、送信者の名前は空白だった。
「ねえ」
メッセージが続く。送信者のアイコンは灰色の人型。名前はない。文字だけが、そこにある。
〈逆転、見た。次は“固定”を増やせ。代償は、削るものを決めること〉
胸が跳ねた。桐生だろうか。違うのかもしれない。届かない場所から届く言葉は、いつだって正体を隠している。僕は指を動かし、返事を書いた。
〈何を削ればいい〉
返事は来ない。既読の数字は増えない。メッセージは、そこで途切れた。僕は画面を閉じ、手帳の空欄を見つめる。
〈代償: 〉
削るもの。僕の体は“死なない”。なら、僕から削れるのは、痛みや恐れや後悔のほうかもしれない。痛みを削れば楽になる。けれど、それは間違いだ。痛みは合図だ。合図を消せば、刃が来るのに気づけなくなる。恐れも同じだ。恐れは足を止め、考えさせる。後悔は、書かせる。どれも、削れない。削ってはいけない。
削るべきは、たぶん、「順番を受け入れる心地よさ」だ。世界の速さに身を任せ、「まあ、いいじゃん」で済ませる癖だ。あの軽さは、刃の滑りをよくする。滑らせちゃいけない。
ペン先が、ようやく紙を汚す。
〈代償:受け入れを捨てる。抗うための時間を、全部使う〉
それが本当に代償になるのかは、わからない。世界がそれを「支払い」と認めるのかも、わからない。けれど、僕に払えるものといえば、もうそれしかない気がした。
目を閉じる。腹の手術痕が、布越しに確かにそこにある。触れれば、世界の切断線と同じ感触が返ってくる。桐生のメモを胸に乗せる。紙は柔らかく、体温でさらに柔らかくなる。柔らかさは、壊れやすさと同じ意味だ。それでも、紙だけが、いまの僕を支えている。
「先生。勝手だよ」
もう一度、そう言った。今度は怒りよりも、情けない甘えが混じった声だった。勝手に助けて、勝手にいなくなる。そんなのは、ずるい。ずるいのに、ありがとう、と心のどこかが同時に言ってしまう。二つの言葉は相殺されない。相殺できない。並んで、胸のなかで静かに燃える。
朝になった。六月七日は、十八時間しかない。空は浅く青い。浅い青は、すぐに薄くなる。母は台所で、小さく口笛を吹いた。音程は曖昧で、でも生きている。生きている音は、刃に切れない。切られる前に、耳で焼きつける。
学校へ行く準備をしながら、僕は手帳を鞄に入れた。ポラロイドのフィルムを確かめ、予備の電池をポケットに落とす。凪の表札に指が触れないように注意しながら、彼女の家の前で待つ。ドアが開き、凪が出てくる。目は赤くない。泣いていないわけではないのに、赤くない。泣くことが、暮らしに馴染んだのかもしれない。それは恐ろしくて、それでも救いなのかもしれない。
「行こ」
凪は短く言って僕の手を取る。僕の指は、少しだけ汗をかいていた。汗は生きている印だ。印を忘れないように、指を握り返す。
校門の前で、写真を撮る。誰かに撮られる前に。シャッターが落ちる音は小さく、それでも確かだった。印画紙に焼くには時間が足りない。時間が足りないなら、手帳に書く。書いたことが、僕らを一枚分、厚くする。厚さは刃に強い。刃は薄いものを切りやすく、厚いものに手こずる。
授業は短く、休み時間は短く、放課後はさらに短い。短いのに、やることは増える。線を増やす。端の人の名前を呼ぶ。知らない人の顔にも視線を向ける。SNSのいいねを押すだけじゃなくて、返事を書く。できることは小さく、かすれていて、頼りない。それでも、やる。やって、紙に残す。
夜が来る。また音が鳴るだろう。六回か、七回か。数えることは癖になった。癖であるうちは、まだ僕のものだ。癖が奪われたときが、本当に終わるときだ。
窓辺の机の上、桐生のメモは何度も折り目を増やし、角が丸くなった。読むたびに冷たく、触るたびに柔らかい。相反する感触の間に、僕は座っている。椅子の脚が床を踏む音は軽く、軽さは薄さと同じで、だからこそ、僕はそこに重さを足す。ペンで、写真で、指で、声で。
順番の交換は、たしかに起きた。世界の総和は、たしかに変わらない。でも、僕は知っている。総和が変わらない世界でも、手触りは変えられる。手触りが変われば、呼吸のリズムが変わる。リズムが変われば、刃の入り方が変わる。刃の入り方が変われば、一枚ぶん、遅らせられる。
遅らせたその一枚に、僕は凪の笑い顔と、桐生の字と、母の口笛と、剥がれた名札と、表札の薄紙と、電柱の白い粉と、メッセージの空白の送信者と、全部を押し込む。押し込んで、焼きつける。焼きついた跡は、消えても、紙の繊維に残る。
それが、いまの僕の交渉だ。刃に対して、世界に対して、時間に対しての。代償の行は、まだ空白が残る。でも、空白ごと、焼きつける。空白は、そこに何かがあったという証拠だ。証拠があれば、次に続けられる。
そして僕は、息を吸った。息は薄い。薄いけれど、吸える。吸えるうちは、まだ書ける。書けるうちは、まだ遅らせられる。遅らせた先で、もう一度、凪の手を握る。桐生の声を探す。先生、勝手だ、ともう一度だけ言って、それから、ありがとう、と結ぶ。どちらも消せない二つの言葉を、今夜のページに並べて、眠る準備をする。
眠りは浅く、短い。短さに慣れるのは怖い。それでも、慣れる。慣れながら、抗う。抗いながら、記す。記しながら、誰かの名前を呼ぶ。名前は、刃の滑りを難しくする。難しくなっているあいだに、もう一枚、遅らせる。
夜、最初の“シャリ”が遠くで鳴った。僕はペンを握ったまま、目を閉じた。涙は出なかった。泣いていないのではない。泣く時間がないのだ。泣きたい気持ちを、紙に流す。紙は柔らかく、吸う。吸って、重くなる。重くなった紙は、刃に強い。
それが、逆転の代償の、いまのところの払われ方だった。僕はそれを受け入れないために、受け入れるふりをして、ページを閉じた。明日はきっと、もっと短い。短くても、僕らはやる。遅らせる。焼きつける。呼ぶ。握る。笑う。泣く。全部を、切られる前に。




